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なんとなく、宗教的な体験

もしぼくには、宗教的な体験があるとすれば、それは仏像との出会いということだ。神の姿をみることもなく、神の声を聞くということは一度もなかった。

仏像とは、それはただ会うということではない。大学時代に敦煌という素晴らしいところを旅行したが、一度にあんなにたくさんの仏像をみたのは初めてだったのに、ひとつひとつ顔が違っていた。それらはすべてぼくの中で鮮明に今も覚えている。

特に莫高窟45窟の仏像の顔、驚くほど表情豊かなことに気がつき、みんなそれぞれのモテルになった聖人が実在しているのではないかと、大卒になってからも、しばらくのあいだそのように考えてきた。

「歎異抄」を中国語に訳したのは、1993年のこと

われわれにとって、出会いとは見ることではない。目差しが消えることであると同時に、相手は物から人に変わることだ。ぼくと仏像もその当時、主体と客体の関係ではなくなり、相互主体になったような気がする。つまり、宗教的な体験の一瞬でもあった。


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