利己心があって良かった (徒然なる日記1)

     本当にこのまま教師になっていいものかと再び考えるようになってしまった。正直僕はまだ子供気分だ。まだ先生になれる気がしない。まぁそれは当然といえば当然である。まだ教師の業務を経験したこともないし、教師の大変さが伝わってくるばかりで、今の現実の生活との乖離が大きいのだ。知らない世界に飛び込んでみたら、最初つらくてもなんとかなるという場合も多いだろう。だが、予想以上に要求されるものが多く、それに応えることができなかった場合、潰れてしまうこともあるに違いない。
そんなことを考えながら、自分は何がやりたいんだろうというところにまた至ってしまった。なぜなら教師は仕事だからだ。仕事というのは基本的にやりたくない事をやることでお金を得るというものなのだ。もちろんその中には、やりがい、生きがい、人間関係、健康など、お金だけでは捉えきれない奥深さというのもあるのは分かる。しかしそれを目的にしてはいけない気がする。健康を目指すなら、趣味でスポーツやった方がいいし、人間関係築きたいなら、人間関係を作りたいという目的ではなくて、他の共通する目的が必要となる。やりがいだって、やりがいがなかったらやらなくなってしまうのだ。まずは基本に立ち返るべきだ。仕事は生きるためにやるのだ。仕事をせずに生きてはいけない。もしそれでも生きていけるとしたら、それは誰かが仕事をしてくれているからだ。しかし自分が全く仕事をせず利益を享受するばかりでは、いずれその権利は失われてしまう。だから自分も仕事しないといけないのだ。よって、やりたい仕事やりたいなんてものは基本ない。仕事以上に自分がやりたいこと、またはやらねばいけないことがあるからこそ仕事をするのだ。(基本は)
      ではその仕事以上のことってなんだろう。それがさっきいってた自分のやりたいことって何だろうということだ。そしてさっき結論がでた。今以上にやりたい事はないということだ。(素晴らしい女性と結婚したいっていうのはある)今この札幌という町で、好きなもの食べて、ゲームして、ときどき友達と遊んで、それ以上のことはなかった。だが、今その特権が失われようとしてる。それが自立だ。子供という特権を失い、お金を親からもらっていられる時期が終わろうとしている。つまり、この札幌という町でお金を稼がなくてはいけなくなった。そうではないと、この札幌での暮らしが続けられなくなるのだ。だから、この札幌という地で安定した収入を得たいと思った。自分の中にそういった利己的な心が残っていて良かったと感じた。今現在置かれている自由な状況では、利己的な心が重要になる。自由という事は他者からの干渉が弱いという事だ。逆にいえば、自分のやることが他者決めてもらえないので自分で決めることになる。そんなとき自分が何したいかという欲求がないと、行動のしようがない。おなか減った、眠い、くらいの動機でしか行動できないだろう。やっぱり利己的な心も必要なのだ。
 これにて、僕の悩みは解決した。え?解決したかって?今の生活と教師生活のギャップの話はどうなったの?だって?実はこれで解決している。というのも、教師生活がつらくなるのは、他者からの要求に頑張って応えようとするところから生まれる状況であり、それは、仕事が持つ利己的な側面に目を向けられていない時に起こるのだ。達成した、してないの軸が他人に委ねられているために起こる。しかしそれが自分の軸になったらどうだ。多少仕事でできない事があったとしても、教師という仕事は公務員であり、簡単に首にすることはできないので、お金をもらい続ける事ができる。なので当初の、安定した生活を続けられるという目標は達成されているのだ。そう考えると、多少怒られたり、理不尽な要求をされても耐えられるようになる。できなくてもおっけーなのだから。(他人から見たらおっけーではないと思うが)。つまり、教師の生活が想像できなくても、入ってしまえば多少適応できるだろうし、適応しきれずとも、当初の目標を達成することができる。だから今考えることは、自分の安定した生活のために、教師になるための試験勉強をすればいいのだ。それだけをしていればいい。
      こう考えると、余計な悩みというのは、他者ベースで考えてしまうことで起こる事が多いのかもしれない。自分が良ければそれでいいという考えではないからこそ、他者に規定された失敗というものをあれこれ考えてしまい、不安になるのだ。それは人間の良い側面であるが、時として悪い方に働く場合もある。そんな悪い方に言ってしまった場合は、自分ベースに立ち戻って考えるのが良いのかもしれない。
     ここで一つ注意しておきたい。それはこんな結論、「もっと利己心を大事にせねば」というものは、誰にでも当てはまる訳ではなく、僕だからこそ言えることだということだ。きっと僕はこんなことを書いて置きながら、やっぱり他人の期待に添おうとする。教師になったとして、定時に上がりたいという自分の利己心があったとしても、周囲からの期待の方を優先してしまうだろう。そんな僕だからこそ、利己心を大事にしようといえるのだ。もともと利己的な人が、この結論に従ってしまうと、さらに生きづらくなってしまうと思う。
     それともう一つ、ここでの利己的ではない人というのは、「利己的な行動をしない人」ではなくて、自分の行動を他人ベースで決めてしまう人の事を指している。そんな人でも、時に利己的に見える行動をしてしまうときはある。「ケーキの切れない非行少年たち」という本の中では、殺人をした少年が、「自分は優しい人間です」と真面目に答えるエピソードが書かれている。その人は、子供やお年寄りに親切であったり、友達からそう言われるから、そう答えたそうだ。僕には、その人が優しいというのは、あながち間違った事でもないように思われる。きっとその人は本当に優しかったのだろう。しかしその分自分の欲求というのをあまり意識せずに抑圧していった結果、変に爆発を起こして、殺人という究極的に利己的な行動を起こしてしまったのだと思う。そう考えると、あまりに利己的ではない人、つまり優しすぎる人は危険かもしれない。

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