本当にやりたいことと強さ

人生の目的は自分のやりたいことをすることである。私はこの結論に至った。ただ文字だけ見て勘違いしないで欲しい。これは、単なる我欲的なものではなく、純粋に、生き物の本質であり、人の本質でもあると思う。様々な例を挙げてみる。

会社もこの例に漏れない。会社は法人とも言う。そして会社の最大の目的は利益を上げることである。例え慈善活動をしていようとも、無理な値下げをしていたとしても、それは、会社のイメージアップのためであったり、顧客獲得のためであったり、全ての基本は会社の利益のためなのだ。お客様の気持ちが理解できないようでは利益も上げあれない。結局、あらゆる視点から物事を捉え、ものごとを為し、利益を上げられる会社、強い会社だけが生き残るのだ。

ライオンの雄は子殺しをすることがあるという。そこに倫理もなにもない生物としての無情なありのままの姿がある。群れに属さない雄が、群れを率いている雄に挑み、闘いで勝利したときにそれは起こる。その群れにいたメスの子供を殺すことで、メスライオンは再び出産ができる体の準備ができるようになる。そうして勝った雄ライオンは子孫を残すことができる。

優しいひとだって同じだ。その人が優しくするのは、かわいそうだから助けてあげたいという願望であったり、優しくする自分でありたいという願望であったり、全て自分の幸福のため、願望のために行うものだ。これは悪いことじゃない。やりたくもないのに人助けなんてしてたら、助けられた側も良い気持ちはしない。助ける側も助けられる側も不幸になり得る。

ということで人生の目的はやりたいことをすることであると前提づける。すると次は、やりたいことって何だろうという疑問が発生する。「やりたいこと」、この言葉は非常に広い事柄を含んだ曖昧な表現である。それをうまく分解したのがマズローの欲求5段階説である。5段階かどうかはさておき、欲求が質的に様々に異なることは明らかだろう。ご飯食べたい、友達と遊びたい、尊敬されたい、世界を平和にしたい、これらを同じ次元で考えては矛盾が生じる。だが共通する部分がある。それは幸福追求という点である。いずれの欲求でも、果てせば幸福になれるだろう。人は幸福でありたい。

願望とは、幸福になれるだろうという予測なのではないだろうか。予測とは、根拠をもとに未来の出来事を推測することである。ここでは、その根拠は経験と遺伝子である。経験の場合、自分がこれまでやってきたことから、あれは楽しかった、気持ちよかった、逆にこれができたらもっとうれしかった、などの根拠をもとに、これからの幸福を追求するのだ。その予測が簡単なものは、低次の欲求ともいえるかもしれない。あれを食べたらおいしかったから、次もあれ食べたい、という願望は簡単に生じうる。遺伝子による欲求(本能)は予測とは呼べない程、分かりきった簡単な願望だろう。いや、遺伝子が幸せとは何かを具体的に決めている、と分けて考えた方がいいのか?ここは今後の課題である。

願望が予測なら、予測できなければ願望も生じ得ない。よく、就活などでやりたいことは何かと問われるが、やりたいなんてないよと嘆く人がいる。それもそうだ、やりたいことなんてもともとあるものではないのだ。予測しないと、予測できる能力がないと、生まれてこない。豊かな経験を積んでこなかった人は予測のための根拠が少ない。経験をしていても、きちんと考えてこなかった人は、精度の高い予測ができてない。よく、本当にやりたいことは何かを問うだろう。詰まるところ、本当にやりたいこととは、「精度の高い予測」なのである。この予測は難しい。だから本当にやりたいことなんてそうそう見つかるものでもないのだ。

精度の高い予測によって得られた欲求は高次の欲求といえる。なぜなら、幸せが大きく、持続性もあるからだ。低次の欲求は一瞬の幸福であることが多い。おいしいご飯を食べたら幸せだが、食べ終わったらその幸せはおわってしまう。もう少し高次な欲求、例えば結婚したいなどの場合、結婚によって得られる幸せは長期的なものだろう。長期的かつ巨大だが実現難易度の高い事柄が、高次の欲求といえるだろう。

漫画「刃牙」では、強さとは「我が儘を通す力」であるといっている。やりたいことをやるための力が強さなのである。質的な次元は問わず、自己の願望を果たせている人は、強い人であると思う。それができていないなら、弱いと言えるかもしれない。

再び言うが、質的な次元は問わない。人生の目的はやりたいことをするためのものなので、今簡単にできる欲求を満たすことも重要だ。じゃないと、後々楽しみ方がわかんない(予測材料が減る)なんてことが起こるかもしれないし、それ以前に、人生は楽しむためのものだからな(唐突な個人的見解)。だが高次の欲求を果たすための障碍になる場合は、我慢する必要があるだろう。それもまた、願望を果たすための強さである。

人間何が幸福かなんて分からない。だから幸せになることを目標としていたって、何にも決まってないと同じである。幸せでありたいと思ったからって幸せにはなれない。何が幸せかは、自分で決めなければ(予測しなければ)ならない。それを見つけるのも人生だ。


あとがき(自分語り)

僕は、色々考えて、やっぱり結婚したいなと思った。僕は今は弱いし雑魚いと思う。だから今僕が考え得る一番精度の高い予測はこれぐらいなもんだ。あとは、尊敬できるひと=かっこいい人になりたいとかもある。道のりも長いし、具体性も乏しい欲求だ。多分これができたら幸せだと思う。そして、結論として、世間のために何かをしたいという域には達せなかった。自分の弱さ故かもしれない達せていないものは仕方がない。達せていないにもかかわらず、これを一番の優先事項にするのは間違っていると思った。やっぱり人ってそこまできれいじゃない。正直になるべきだと思う。でも経験を積んでいったら、その域まで達せられるかもしれない。だが、今の僕の強さから考えると、そこを目標にするには根拠不十分である。多分幸せにはなれない。今ある手札でどう戦うか、それは身の丈にあった的確な推測をすることだと思う。できないことを目標にする必要はない。できそうなことを目標にすれば良い。そして目標を達せられるほど強くありたいと思う。弱くたって幸せならそれでいい、そう考えたこともあった。だがこれは間違っている。弱いなら幸せになれない。別にお金とか腕っぷしとか頭脳とかの強さだけをいっているのではない。だけど、何かしら強くないと幸せにはなれないのだ。だから僕は強くあらねばと思った。

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