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よくできた触れる幻(第1章)

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記念すべきミレニアムから八年程過ぎた、夏真っ盛りの八月のある日、僕はガールフレンドと二つ隣町の祭りで打ち上げられる予定の花火を見るために車を走らせていた。普段は誰も寄り付きやしない片田舎なのに、その花火の前後二日間だけ他地方からの観光客で、大渋滞を巻き起こすような、田舎にとっては年一番のイベントだ。

そんな世俗的な場所にわざわざ出向くのは、交際期間もそろそろ六年に達しようとしていて、こういう機会でもないと共に外出すること自体が少なくなっている、倦怠期真っ只中の二人の関係性を思えば回避出来ない状況だった。かなり億劫ではあったものの、女性というのは元来、何故かそういうイベント所に行くことを好む、というより、そういう所にわざわざ嫌な顔をせず連れて行ってくれる器の大きい男かどうかを試すような節があるものだ。と、いい加減把握していたので、花火が打ち上がるよりもはるか前、その日の昼過ぎ頃には、その、実際には街と呼ぶには少々忍び難い程の規模の街に到着するように出発した。

お互い二十四、五歳だったが、就職活動ドロップアウト組としてふらふらとバイトで食いつないでいた僕はあまり金が無く、エアコンの効きが悪い、旧い型の日産マーチに長年乗っていたので、額の汗を拭いながらの渋滞移動にはお互いかなり体力を削られた。


「相変わらずあっつい車ね、そろそろ買い換えたら?」


片や地元の保育士として就職したてだった彼女は夏になると必ず口にするその文句を今年はより一層力を込めて言っていた。僕はそれを例年と変わりのない苦い顔で受け止めながら、永遠に続くのではないかと錯覚するような長い山道を、目的地へ向け、もう何本通過したか分からなくなるくらいのトンネルを抜け運転し続けた。

いざ現地に到着してみると、土地の標高が高いせいもあるのか、車を観光客用の、線を引いただけのだだっ広い簡易駐車場に停車し、一歩降りたそこは驚くほど涼しく感じた。

 これから花火が打ち上げられるような雰囲気はその風景から微塵にも感じられず、イベント毎でしか訪れないこと自体がふと、申し訳なくなるような感じがしたが、結果的には早めに出発した事が功を称し、まだ僕達以外の花火目当ての観光客はまばらだった。

彼女は道中に助手席の窓から見下ろせた川原で、バーベキューをしている、どこかの大学サークル総出で来たような若者グループを見た時、

「私たちも目的地変更してこの辺でバーベキューしよっか」

とうなだれていたが、今じゃ早速見つけた簡易駐車場の横にある出店でかき氷を買い、それを頬張って満足そうに、次のお目当ての、潰したご飯を串に刺し、甘い味噌ダレを塗って焼いた、五平餅というものが売っている店を探している。

 この小さな町での夏祭りに今回で僕らは二度目の参加だったが、小さいとは言っても何しろ町全体なので、前回は夕方に着いたということを差し引いても、とてもじゃないが全ては見て回りきれなかったことを記憶している。そもそもこの祭りは夜に花火が打ち上がることも、もちろん訪れる人々の楽しみの醍醐味だが、おそらく本当の意味でのメインは、期間中、町全体の道という道の脇に並ぶ無数のロウソクと、竹籠と和紙で作られた円筒形の行灯だろう。この二つが古き良き田舎の街並みになんとも言えないノスタルジーと、一歩入ったら日常の世界とは程遠い所に迷い込み、もう二度と帰れなくなってしまうかのようなミステリアスな雰囲気を演出してくれている。かく言う僕らも、その魅力に最初に訪れた時に取り憑かれ、こうして二度目の参加に至ったわけだ。

 「あの店、前に来た時はなかったよね」

と、既に五平餅を平らげ、次の目的の何か美味しそうな甘味を探している彼女は、普段とは比べ物にならない程の機嫌の良さで、僕の肩を何度も叩きながら言った。

「この道は日が出ているうちはちょっと残念に見えるよね」と分かりやすくはしゃぎながら町並みを見渡している。

その半分でもいいから普段の日常に笑顔を分配してくれたらこっちはいつもそわそわしなくて済むのに、とせっかくの祭りの場では少々ナンセンスなことを考えながら僕は隣で満面の笑みを浮かべる彼女を、精一杯の笑みで応対していた。

 何軒か出店を巡り、小さな神社や、町を横切る幅の細い、流れの穏やかな川原、普段は商店街の一店舗として営業している各店舗がこの期間だけ特別に軒先まで店を迫り出して、各々が様々なものを販売している様子を二人で見て回っていると、あっという間に夕暮れを過ぎ、段々と周りが薄暗くなりかけていた。

「そろそろだね」

彼女がそう言ってから間もなく、祭りのメインであるロウソクや行灯が少しずつ灯り、町がガラッと表情を変え出した、その形容しがたい光景を見て、ああまたこの素敵な雰囲気の中に戻って来られたんだな、としみじみ思うのと同時に、正直、炎天下の渋滞や、人並みに揉まれる一日を億劫に感じ、またあそこに今年も行こうよと彼女に誘われた時、あまり乗り気じゃない素振りを見せた自分を申し訳なく感じ、それでもしつこく誘ってくれた彼女に対して、この光景の素晴らしさや二人の思い出をまだしっかりと覚えていてくれたことも含め、心の中で小さく感謝した。

 道端に並んで灯された行灯の和紙の部分にはそれぞれ「希望」や「未来」と言ったような文字が書かれており、また「心の手をつなごう」というメッセージ性の強いものや、中には「やきとり」や「ビール」などと言った、明らかにただの店の宣伝というものまで幅広くあった。

 二人でその書かれた文字をひとつずつ読み上げ、ああだこうだ言い合いながら商店街を進んでいるうちに、なんだかこのひとつひとつの灯りが、見て触れられる、形を成した誰かの祈りのような、不思議な気持ちがこみ上げて来た。

 目の前の行灯達が、数百メートル先の飯盛山の麓に向かってまだ無数に続く道を、まっすぐと見据えながら、

「このノスタルジーは誰かの祈りから発生したものなのかもしれないね」と僕は言った。

「そうね」

 彼女は相変わらずねとでも言いたげに、目を少し細めるような顔をして僕を見上げ、再び前を向き直り、続けた。

「このひとつひとつが誰かの切実な祈りのカタチなのよ、きっと」

「それに私、これによく似たものを知っている気がする。君も多分よく知っているものよ」

その言葉に反応して僕は左傍にいた彼女の方を見ると、ちょうど僕たちが歩いていた所から右側の脇に一本入る路地を発見した彼女は、その先にある無数のロウソクが灯された小さな橋を指差して立ち止まって言った。

「あそこ、渡ってみようよ」

彼女はまるでスキップでもするかのように足を進めて行く。

それに少し遅れながらも、僕は橋の袂や川岸の風景を目に焼き付けながら着いて行く。

「ねぇ、僕も知っているものって一体何だろう?」

「うーん、さて何でしょうね」

「そもそも君も思い出せないものなのに、僕も知っているってどうして分かるんだい?」


「分からないけど、確かそういうものなの」

「・・・無茶苦茶な理屈だなぁ」

「あはははは、君も考えてみて」


「何だっけなぁ」


彼女は特に考えている様子も見せずにそう呟き、橋の上をまた歩き出した。




 その橋自体はほんの十数歩程で渡り切れてしまう長さなのだが、欄干まで来て立ち止まっている人の多さに驚いた。


 どうしてこんなに人が集まっているんだろうと二人で話していると、橋の中心地点から川並を挟み、その数十メートル先に見える、また別の橋の欄干の真下から、川の水面ぎりぎりまで巨大な行灯が三つ吊してあるのに気がついた。辺りはもう真っ暗なのにも関わらず、その灯を反射した水面と橋のみがやけに明るいので、まるで行灯を含めた橋自体が闇夜の空中にぼんやりと浮かんでいるように見え、それが風流でもあり、なんとも言えない夢幻的な魅力を携えていた。

 ああ、あれをみんなここから眺めていたのかと、僕と彼女は口々に「なるほどね」

「前回はこれ、見逃していたね」と言い合い、しばらく他の見物客と同じようにその光景を、ただ時間を忘れて眺めていた。


 見物客がさらに増えてきているのに気付くのと、本日一発目の花火が打ち上げられる音が遠くの方で聞こえたのとはほぼ同時くらいだった、花火自体はこの町から更にそびえる山の麓付近から打ち上げられていることを知っていたが、流石にここまで人が増えてきた今となっては思うように動けないので、麓付近まで行くには時間がかかると判断し、僕たちは、今いる橋まで来た道を一度戻り、先程まで歩いていた商店街を、今度は左側の路地へと入って行き、やはりこちらも道の両脇に行灯が等間隔に並んで灯った緩やかな斜面を数分登ると見えてくるはずの、前回訪れた時に発見した、民家の主が個人で運営している、小さな図書館へと向かった。


そこは年配男性が基本的に一人で経営していて、祭りの期間は特別に夜まで開けているらしいのだが、何しろ外観的には少々大きめのただの民家なので、来客者は殆どない。しかし、場所が村に点在している他の民間よりやや高い位置に建っているため、館内の古めかしい窓から見える町の見晴らしが良く、こと花火に関しては絶好の穴場ポイントだった。

 「・・・こんばんわー」と、入り口である引き戸を開け中に入ると、奥の事務室らしき所から「はーい」と声がして、室内スリッパの擦れる音を大きく立てながら、にこにこした懐かしい顔が現れた。

「お久しぶりです、数年前のお祭りの時に一度お邪魔した者ですが、また今年もここから花火を見せていただいてもいいでしょうか?」と尋ねると、その館長である初老の男性は僕たちの顔を覚えていたらしく。

「久しぶりだねぇ、よく来てくれた。上がって行きなさい。」と快く中へ通してくれた。

 館内に所狭しと並んでいる本棚の列は、学校の図書室と同等くらい立派なものだったが、相変わらず並べてある殆どの書物は、民俗学やら地理学、考古学などのあまり目にしないようなタイトルのものばかりだった。

「こういったものを借りに来る人ってどれくらいいるものなんですか?」

「いやぁ、大勢じゃないけどね、たまに著名な学者さんがわざわざここの場所を調べて借りに来てくれたりするんよ」

という会話を以前したことを思い出しながら玄関を上がり、久しぶりのその知る人ぞ知る図書館内を見渡した。

 おそらく昔は畳だったであろう床の上に、無理やりフローリング材を敷き詰めたような、歩くと少し不思議な柔らかさがある館内も懐かしく思いながら、件の窓に向かって行くと、もう既に僕たち以外の一組のカップルが縁側に腰掛けながら花火を眺めていた。

 前回お邪魔した時は僕たちだけだったので、僕たち以外にここが発見されてしまったことに僕は少しだけがっかりしたが、彼女はというと、

「わぁもう結構打ち上がってる、早く早く」と、

そんなことは全く気になっていないという様子で、先客であるカップルから少しだけ離れた縁側に腰掛け、僕に隣に座るよう促していた。


 真っ黒い空に向かって伸びた閃光から煌びやかな赤、黄、青、緑色が、円形状に規則正しく散り散りに弾け、その刹那の時間を追うようにして、内臓を直接振動させるような音が鳴り響き、消えていく。

 あまり花火には執着も興味もない方だが、たまにこうして見ると、その圧倒的迫力と繊細な芸術美に改めて毎回敬服する。

 知らない間に口をぽっかりと開けながらただ見上げていたことに気付き、多少気恥ずかしくなって、首を一度元の位置に戻し、隣をチラッと見やると、彼女も、視線を伸ばした先に座っている別のカップルの二人も同じように口を開けて見ていたので、僕はなんだか無性におかしくなって、せっかくの雰囲気を壊さぬよう、笑いを堪えていた。

すると、花火を呆然と口を開けながら見上げていた彼女が、不意にそのままの姿勢でこちらに目線だけ向け、

「何が面白いの?」と言う彼女を見て僕はこらえきれなくなって吹き出してしまった。

「何でもないよ、ただの思い出し笑い」

「ふーん」

そう言いながらまた目線を空中に戻した彼女の横顔は、色とりどりの光を浴びて、一瞬、花火と同じような刹那が宿ったように見えた。


あと何回こうやって隣で花火が見られるだろうか、少しだけ感傷的な気持ちに浸っていると、館長がまた室内スリッパをパタパタと派手に鳴らして後ろからやってきて、二組のカップルの間に腰掛け、麦茶らしきものが注がれたそのぱっと見手作りのような、少々不恰好なグラスを配ってくれた。

「ところであんたがた、ウマガミサマに今年は街で話しかけられたかね?」

と館長は背後に腰を下ろしながら声をかけてきた。

僕はその聞き覚えがあるフレーズを頭の中で反芻させ、一致するものを記憶から探していると、隣のカップルは分かりやすく興味がない様子で。

「いや、なんとか様になんて僕ら話しかけられてませんよ」

と短髪の男の方が、受け取った麦茶の入ったグラスを口元に持っていき、一口飲みながら答えた。やたら大きなリング状の金のピアスを付けた女の方は、その膝の横にグラスを置かれても、花火を見上げた姿勢のまま微動だにしなかった。


僕は記憶の中からやっと、前回来た時、そのウマガミサマとやらについての言い伝えを、さわり部分だけ館長から聴いたことを探し出した。

「確か、以前も話していただいたこの辺りの民話上の神様ですよね?ここに来るまでは僕たちもお店の人以外とは誰とも話してはいませんが、話しかけられると・・・どうなるんでしたっけ?」

「そうかね、会えんかったかい、それは残念だった。まぁ滅多にお会いできるものでもないしなぁ。もし話しかけられたら・・・」

「あ、私覚えてる。なんか会って話せたらその年に願いが叶うって話のやつでしょ?」

「そうそう、お嬢さん、よく覚えてたねぇ」

 彼女のこういう記憶力の良さには僕もいつも感心する。

「因みに、『ウマガミ』って、確かあの『馬』に『神』で馬神ですよね?」

 僕は一応覚えているということを少しでもアピールしようと、人差し指で空中に文字をなぞった。

「そうそう、そのお馬の『馬』に『神様』だよ。この辺りは昔、湾で取れた塩を行商人が搬ぶ街道の拠点となった地域でねぇ。荷物の積み替えを行なう場所や、乗っているお馬たちの休憩場やらもあったそうなんやが、なにしろ、海から山道をひたすらに行き来する苛酷な旅路やからねぇ、可哀相に、そのまま力尽きて亡くなってしまう馬も少なくなかったそうなんよ。それで、いつしかそういった、最後まで人間に奉公してくれた馬たちを村として祀るようになったという訳なんやね」

「そうなんだぁ。何だか少し哀しい話ね」

「そうやねぇ、しかしその反動からなのか分からんが、馬神様ぁ年に一度のこの日だけ山から下りてきて一般人に化けて祭りを楽しんどるという話やからねぇ」

「よっぽどこのお祭りが好きなんですね」

「ああ、もしかすると生前、たまたま祭りを目にしたことがあったのかもしれんねぇ」

「なるほど、その光景を見て、憧れを抱いていたということか」

「ああ、そうかもしれん。ただねぇ、とても恥ずかしがり屋で、滅多に人に声はかけないらしいんやがね」

「恥ずかしがり屋の神様ってなんだか可愛いわね」

「だから、よほど気に入った人間にだけ話しかけてくるのかもしれんね」

「実際に話しかけられた方ってお知り合いにいらっしゃるんですか?」

「ああ、おるとも」

「え?」

「へーいるんだぁ、で、ウマガミ様は一体どんな見た目なの?馬神って言うくらいだから、頭は馬だったりするの?」

彼女はもう完全に、自分の祖父に好奇心を覆い隠さず、そのままぶつける時のようなテンションになっている。


「いやぁ、実際にはわしも話を直接聴けたのは一人だけなんやが、その人が言うには、三十代くらいの普通の男性の姿をしとったらしいよ」

「へーそれじゃ本当に一般人と見分け付かないわね」

 全く、彼女が一体どんな姿を想像していたのかを察するとゾッとしたが、僕は普通の男性の姿と聴いて、内心、少しだけホッとしながら肝心の質問をした。

「因みに、その方はなんて話しかけられたんです?」

初老の館長は少し下を向き、まだまだ量的には申し分無い、そのハリのある銀髪の生え際を指先で撫でながら思い出そうとしている。

「詳しい内容までは本人もあまり覚えてない様子だったんやが・・・あれは・・・数年前の今日と同じような祭りの日になぁ、その人が、道に並べられている行灯をぼうっと眺めていた時に、ふと、夜風に乗って白梅香の香りが突然した、そう思った瞬間、気付いたら隣に着物姿の男がいて・・・」


「それでそれで?」

「確か・・・『こんばんは、綺麗な灯ですね。何かに似ていると思いませんか?』と話しかけられたと言うとったかなぁ」



 もう完全に都市伝説の領域の胡散臭い話になってきたな。と、僕は既に若干、話半分に聴き始めていた。というより、そもそも夏祭りに着物姿の男なんて掃いて捨てるほどいるし、何より、初見でそんなキザな話しかけ方は違和感があり過ぎるというか、想像し難い。

 しかし彼女は違った。


「わー、素敵。私も会ってみたい。実は私たちもさっき本当に偶然にもそんな話してたんだよね」

「うん、まぁ・・・」

「何かに似ている・・・何だろう?」

「で、その方はその年、お願いが叶ったんですか?」

「ああ、叶ったみたいだよ。ただ・・・」

「ただ?」

「残念なことに、次の年にその人、亡くなってしまったらしいんよ」

「その人もあんた方と同じように、その祭りの日、花火を眺めるために奥さんと二人で初めてここに来て、不思議な人に会ったという話をしてくれたんよ。だから、それは願いを叶えてくれるウマガミ様だったかもしれないよという話をしたら、たいそう二人とも喜んでたんやけどもねぇ」

「どうやってその人が亡くなったって分かったんですか?新聞に載っていた・・・とか・・・?」

「いやいや、次の年に奥さんが律儀にも一人で来てくれてね、諸々の経緯を報告してくれたんよ」

「・・・そうなんだ。せっかくお願い叶ったのに残念ね」


 おいおい何てことだ、それじゃまるで、ウマガミ様とやらは死神じゃないか。

よくもまぁこの館長も、今年は会えたかね?なんて呑気なこと聴けたな、と半ば呆れていると、さっきまでは全く話なんて聴いてない様子だった隣のカップルの短髪男がどうやら聴き耳を立てていたらしく、突然話に参加してきた。

「え?そのなんとか様ってのに会うと死んじゃうんすか?」

「いや、それとこれとが関係あるのかどうか、実際には分からんのやけどね、ただ、奥さんはそんな、会ったから亡くなったみたいな話はしてなかったよ」

するとこれまたさっきまで全く反応さえしていなかった大きなリングピアスの女も話に加わってきた。

「えー怖い系の話してんの?やめてよー」

「いやー、怖い話をしたつもりはないんやけどねぇ。ごめんねお嬢ちゃん」


それまでの張り詰めかけていた空気が一気に萎んで行く場の樣を、そのカップル以外の三人が無言の中で感じている謎の時間が数秒流れた後、堰を切ったように初老の館長が口を開いた。

「さて、そろそろ花火も終盤やから、あんたがたもう帰路に着いた方がええよ。終わるまで見てから出ると大渋滞に巻き込まれるからね」


 まだその人と馬神様のことについて色々聴きたいことはあったが、隣のカップルは「はーい、ありがとうございましたー」とさっさと立ち上がって玄関へ向かって行ってしまったので、僕たちも仕方なく同じように立ち上がり、お礼を言い、その小さな図書館を後にした。


 行きに登ってきた緩やかな斜面を下って行くと、もう半数程ロウソクの灯りが消え、少し寂しげになった町の全貌が見えてきた。

「結局、馬神様ってなんだったのかしらね」

「うーん、今のところ得ている情報からだと、祭り好きで着物を着たキザな変わった人ってことしか・・・」

「ねぇ、さっき館長さんが話してた馬神様に会ったっていう人、それが原因で死んじゃったんだと思う?」

「分かんないけど、もしそうだとしたらそれはもう死神様だよね。馬神って字も音読みにして魔人に変えたほうがいいと思う」

「あはは、確かにそうね」


 僕たちはそんな話をしながら斜面を下りきり、また商店街のある通りまで出て来た。


 昼間この町に着いた時感じた山間部特有の涼しさに、もう今は慣れて麻痺してしまったせいか、日中のうちに地面が吸収した熱がまだ残っているせいかは分からなかったが、先程よりも空気がやけに生ぬるく感じた。山の麓の方では打ち上げ花火が終わり、ちょうど近距離で見る種類の花火に切り替えられるタイミングだったらしく、今まで少し離れた地点から眺めていた見物客たちはこぞって麓の方まで移動している最中だった。彼女はその花火も見たい様子だったが、同じようにこの流れに乗っかって麓に移動し、結局帰りまで大渋滞はご免だったので、さっき館長に勧められた通り帰路に着こうと彼女を説得し、人の流れとは反対方向の街の入り口の方へ足を進めた。

 昼間通って覚えていたはずの道を戻るだけだったのだが、明るい昼間のうちとは違い、今は真っ暗闇の中、道の脇に等間隔に並べられ、今はまばらに灯っている行灯だけが道標となったそこが全く別のものに見えたこともあって、僕たちは多少迷ってしまった。

「ねぇここって昼間通ったかしら?」

「いや、方向的には間違ってないと思うんだけど」

 そんな会話をしながらひたすら街の入り口を探し歩いていると、もう今となってはほとんど人通りのない路地裏にある、既に閉店した土産屋の店前に、男性らしき人影が一人、ぽつんと立って夜空を見上げている姿が見えた。

「あの人何してるのかしら?もう空に花火は見えないわよね?店の人かな?」

「なんにしてもこのままだと結局、麓の花火終わっちゃうから、ちょっとあの人に道聞いてくるよ」


渋滞になる前になんとか街を出なければと焦っていた僕は彼女をその場に留まらせ、小走りでその人影に近づいて行った。


「こんばんは、すいません、街の入り口付近にある駐車場に行くにはこの道で合ってますか?」


そう話しかけながらその人影の近くまで来た瞬間、行灯にほんのりと照らされた男の風貌を見て思わず息を飲んだ。


比較的痩せ型で頬下まで伸びた長い黒髪を中央で分け、端正な顔立ちを覗かせた長身のその男は、暗くて正確な色まではよく分からなかったが、紺色らしき純日本式の作りをした着物を着ていて、足元は裸足にわらじのようなものを履いていた。


「こんばんは、街の入り口だとこの路地の先を右手に曲がって行くのが一番早いですよ」


表情一つ変えず、そのやけに白く細長い人差し指で自らの左方向を指差しながら男はそう言うと、その切れ長の目をゆっくりと瞬きさせながら少しだけ両の口角を上げ。


「今年も良い祭りでしたね、来年もまたいらして下さいね」


と言った、


 半ば放心状態に陥っていた僕はその言葉の途中でハッと我に帰り。

多少、被せるように「はい、ありがとうございます」と早口で言い放った。

その直後、後ろに留まらせていた彼女を、自分の手を忙しく降りながら呼び、駆けつけたその右腕を引っ張って、足早に教わった道を歩き出した。


心臓の音がうるさく鳴り響き、こめかみがビクビクと脈打ち、口の中が急速に乾いて行くのをハッキリと感じた。頭ではイメージ出来ているはずの歩みが上手くいかない。


「そういえば、橋に吊るしてあった行灯は見られましたか?あれ・・・」


男が後ろから更に声をかけてきたので、僕は彼女の手をもう少し強く握り、目の前の道を進もうとしたが、彼女は反射的に手を振り解いた。


「見ましたよ、綺麗でした」


 彼女の言葉に心臓が助骨の檻の中から飛び出しかけた一瞬間、


「え?」

と呟き、彼女がその足を止めたので、僕は焦りと恐怖によって吹き出してくる額の脂汗を左手の甲で必死に拭いながら、離れてしまった右手をもう一度繋ぎ直そうとした。


「どうした?早く行こう」


強張りつつそう言いながら、彼女が立ち止まっている方に振り返ると、呆気にとられたような顔をした彼女の視線の先には、男の姿が無くなっていた。

まるで最初から何もいなかったかのように。

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