幼児性への苛立ちと羨望、そして崩壊への絶対的肯定【天気の子】

※「天気の子」本編のネタバレが多分に含まれるので、ご注意ください。

大ヒット映画「天気の子」
今更語るのも遅きに失した感もありますが、まあ大目に見てください。見たのも遅かったし。
賛否両論というか、両極端な解釈が存在することは事前に知っていたので多少身構えてはいたのですが、終わってみればなんと素直にストレートに楽しめる映画なのだと思いました。
これは面白い。というより、面白くない点が見当たらない。減点要素がない。手堅い。解釈や考察の余地がないほどに劇中で登場人物の心理や行動を全部説明していて、これが仮に現国問題で出てきたとして赤点を取るほうが難しいレベル。とにかく分かりやすい。映像も音楽も良い。盛り上げるべきところで絶対に心情を唄う歌が入ってくるあたりはミュージカル映画のようだ。情熱的なキッスをしそうな場面で場面転換して歌が流れるあたり本当はインド映画なのかもしれない。

あえて意地の悪い言い方をすると「中身がない」。とにかく直球な映画だ。だからこそ、見る人の思考思想を反射する鏡のような映画だとも思った。
誰に感情移入するか、何に引っかかるか、どこに感動するか、どこを不快に感じるか、全てが見る人に委ねられる。だからこそ賛否が分かれたり真逆な解釈が産まれたりするんだろう。その解釈の幅が「君の名は」より広いからこそ評価が分かれる。
普段から子供の貧困のことを考えてる人は「この映画は子供の貧困を描いている」と思うだろうし、普段から地球温暖化のことを考えてる人は「この映画は人類の愚かさを説いたものだ」と考えるだろう。
「新海誠の恋愛観がキモすぎて吐いた」と言っていた知人女性はいったいどんな価値観と感情を反映させたのか、私にはまるでわからなかったがまあそれも解釈の一つだろう。
まあそこまで難しいことを考えない人にとっても単純なボーイミーツガール、主人公がヒロインを救い出す王道シナリオに感動できるからそれもまた良い。

では私がこの作品から感じたのは何か。それは「幼児性への強い羨望」そして「崩壊への絶対的肯定」だ。
それについて語りたい。

初見視聴中、ずっと引っかかっていたのは主人公ズの幼稚さだった。
細かな思考や選択、行動があまりにも視野が狭く短絡的なのがとにかく目についた。
天気の子を楽しめなかったという会社の同僚からも「登場人物の行動理由に共感できなかった」という声を聴いている。
私も引っかかりはしたが、これは主人公が子供だからこういう選択をしてしまうのだと思うし、それを含めて楽しむべき映画だと思う。というか、そここそがこの映画を楽しむポイントだとすら思う。

天気の子は子供の映画である。内容が子供向けだとか幼稚だとかの意味ではなく、主役は「子供」で全編通して全てが「子供」なのだ。
大抵主人公が子供の場合、物語を通じて大人になっていくのだが、天気の子の主人公、帆高は最後まで子供のままだった。子供であることを貫き通した。世界の中心はいつだって自分たちで、自分たちの都合で大人たちを振り回し、暴虐の限りを尽くし、そして世界までも変えてしまった。
この映画は子供の子供による子供のための映画だ。
だから我々「大人」が見た時に、共感できない部分や苛々する場面も多々あるように思う。なにをそんなガキみたいなことを言ってるんだ、我儘ばっかいってるんじゃねえ、もう少し大人になれと。しかし、もう一方でその幼児性に強い憧れを抱いてしまう自分もいる。理屈や常識の一切を無視し、ただひたすら己の欲望のために突き進むその姿に羨望を抱いてしまう。
「何やってんだこのクソガキ!」と「いいぞもっとやれ!」という相反する二つの感情が交互に呼び起こされた。正に、劇中の大人代表たる須賀と同じ心境だ。

主人公、帆高は大人になりたくない子供である。
島での生活が窮屈だとかそんなちっぽけでなんてことない理由で家出をし、家族を心配させ、捜索願を出されて警察にも迷惑をかけている。
家出資金の5万円を無限の大金のように錯覚する器の小ささ(小説版の描写)、東京なら仕事があるはずと無邪気に思い込み、ヤフー知恵袋で仕事を探すアホっぷり。常識的に考えれば、身分も明らかでない高校生など恐ろしくて雇えたものではないのに、そんなこともわからない。
よりによって治安の悪い新宿東側を拠点に選んでしまうこと、うっかり拾った拳銃を持ち歩き、あまつさえ発砲してしまうこと。自在に空を晴れさせられる特殊能力を短絡的に商売に利用するところ、その料金設定の仕方。
退職金(逃亡資金)として押し付けられた5万円をその日の内に半分以上使い切る考えのなさ。
全てがガキ。子供of子供。思慮も足りず視野も狭く自分の事と目の前のことしか考えられず、社会の事や長期的な未来のことなど一切配慮が及ばない。
さらにいえば基本的な道徳観があるのかも怪しい。作品内の軽犯罪描写にいちいちケチをつけるつもりはないが、線路内に立ち入ったことよりもその辺のチャリンコをパクろうとしたことのほうが罪が重く感じる。未遂に終わってはいたが、大事のためなら物を盗んでも良いという倫理観の欠如を感じるし、その後はガチ拳銃の銃口を大人たちに向ける暴挙。
自分の正義のためなら法も道徳も倫理も平然と踏みにじるその振る舞いは、良く言えばダークヒーロー、悪く言えばクソガキだ。

ヒロイン、陽菜は大人になりたい子供である。
母は死去、父もおらず、弟と二人暮らし。
自分たちだけで生活を続けていける力を得たいという意味合いで「はやく大人になりたい」と口にするが、彼女もまた子供である。
生活費を稼ぐために年齢を偽ってバイトをし、年齢を偽ったことがバレてクビにされる。当然だ、中学生を働かせるなんて社会的に許されない。そもそも自分を実年齢より上に見せたいという欲求もまた子供のそれだ。
で、バイトをクビになったあと、今度は風俗業に片脚を突っ込みかける。
風俗だろうがマトモなところなら(風俗の時点でマトモかどうかは置いておいて)18歳未満を働かせたりはしないだろう、働けるとしたら本当にヤバい店か、あるいは店を経由しないパパ活などの個人営業か(スマホを持っていないためそれも難しい)。なんにせよ、金を稼ぐために短絡的に身体を売ろうとするその思考がもうガキそのものだ。いや、あるいは開き直るか覚悟を決めて、「自分の身体をどうしようが自分の自由だ」と一貫した思想で身体を売るのなら、それは個々の自由を重んじるリベラル的価値観から見たら悪いこととは言い切れないのだが、陽菜はそんなに深く考えずにただ稼ぎが良さそうだからとかそんな理由で身体を売りかける。まともな判断ではない。
真っ当な大人としての正しい判断は、行政の保護を受けることである。実際、陽菜らの境遇を知った児童相談所の職員が天野家を訪問している。行政ちゃんと仕事してる。
しかし陽菜は「私たち離れ離れにされちゃう!」などとトンチンカンなことを言い出し、弟とともに夜逃げを決行。なんでだよ! 帆高も「一緒に逃げよう!」じゃねーんだよこのクソガキども!!! 盗んだバイクで走り出すのがかっこいいという世界観をやめろボケナス!!!
陽菜は「自分たちの力だけで生きていく」ことを大人の条件と思っているようだが、その発想こそが子供。未成年が売春の稼ぎで生活を繋ぎとめる判断のどこが大人なものか。明らかに資金不足で破綻が目に見えている逃走を選択するのが大人な判断なものか。
大人や社会の保護を跳ねのけ、自分たちだけで生きるのだと意地を張るその姿勢は本当に子供だ。まあ実際、義務教育中の子供なのだからしょうがないのだが。

とにかく帆高も陽菜も文字通りの子供だ。幼稚性、我儘ぶり、思慮の浅さにほとほと呆れかえり苛立ちを覚える。だが一方で、その無垢さ、無邪気さ、短絡的さや視野の狭さにノスタルジーを感じる。美しく思う。彼ら子供の行動に羨望すら覚える。
そうして心動かされた大人が夏美と須賀である。

夏美は大人になりたくない大人である。
就職活動中の女子大学生。彼女の就職活動が上手くいっていないという描写は、一見すると映画の本筋と関係ない無駄な描写に思えるが、これこそが彼女の「大人になりたくない」という心理を表す描写に思える。
年齢的にも社会的に大人になることを求められていて、けれど彼女は大人になることに抵抗していて、ずっと子供でいたいと思っている。かといってアウトローにも徹しきれず、叔父の事務所を手伝う程度。宙ぶらりんでいるからこそ、子供であり続ける帆高に惹かれ、彼がピンチの時は真っ先に手を差し伸べている。
法律や社会の常識を無視して、バイクで警察とカーチェイスを繰り広げる時が一番楽しそうだった。あの瞬間、彼女は主人公だった。そしてバイクが水に沈み、帆高を一人送り出した際に彼女の子供時代は終わった。
小説版ではもっと明確に「これで私は主役を降りた」「もう自分は主人公じゃない」といったモノローグがある。子供が大人に成る覚悟を決めた瞬間である。

須賀は大人になってしまった大人である。
オカルト雑誌に寄稿するライターというアウトローMAXみたいな仕事をして、自由気ままに振る舞いながらも、誰よりも社会に縛られている。
死別した妻の母方との折り合いは悪く、幼い娘の親権は取られ、娘と一緒になるために酒もタバコも我慢し、品行方正を求められる。
記事を載せてもらうために方々へ電話をかけ、電話口の向こうへ頭を下げ、敬語を使い、やっとのことで仕事を貰う。
これこそが社会と折り合いをつけた大人の姿だ。
面白そうだからと家出少年の帆高を雇い入れるが、警察が来て面倒事になりそうだと判断すれば距離を置くし、帆高が警察から逃げるという暴挙を犯した際は常識を説いて「お前はなにも悪いことしてないし、全部誤解なんだから、悪いようにはならない、俺も一緒に行って話してやるから」とド直球の正論と最大限の譲歩を見せる。
劇中で一、二を争う真っ当な大人である。(警察のおっちゃんも大人度が高い)
陽菜の犠牲によって東京が正常を取り戻すと知った時も「一人の犠牲で平和になるならそっちのほうが良いってみんな思うだろ」と吐き捨てる。個人としては納得しないが、全体としてそちらが良いのであればそちらを選ぶ。そもそも自分が介入すべき事柄ではないと身を引く。これが社会に生きる大人の判断だ。

この作品において大人側の理屈は限りなく正しい。
帆高を追う警察たちがまるで悪役のように描かれるが、捜索願が出されている少年を保護するのは警察の務めであるし、歌舞伎町なんて危ない街をうろつく少年少女がいたら声をかけるのも治安維持の観点から当たり前であるし、しかもガチ拳銃を拾った可能性があるとなれば安全のために強硬手段に出るのも当たり前だし、そんな不安要素の多い少年が警察署から逃亡して銃構えて相対してきたらそりゃこっちも抜かざるをえない。
児童相談所も職務を全うしている。中学生と小学生の姉弟だけで住んでるなんて聞いたらそりゃ保護するしかない。放っておいたらどんな犯罪に巻き込まれるかわからないし、実際に売春という犯罪行為に片脚を突っ込まれかけている。逃げられたら追うしかないし抵抗されれば抑えつけて捕まえるしかない。自由にさせたら死ぬんだから。
須賀も上記のように大人としての責務を果たしている。最初に警察が来たときに帆高を差し出して「家出していたとは知らなかった、自分も騙されていた」とかなんとか言えば面倒事は避けられたのに、わざわざ帆高個人を呼び出して退職金として5万円を押し付け帰宅を促すなど義は果たそうとしている。(それまではした金で労働を搾取していた負い目もあるだろうが)

そんな大人たちの配慮や譲歩に対し、帆高の返事は
「知ったことか!!! 僕の邪魔をするな!!! 僕は陽菜さんを助け出すんだ!!!」
はぁーーーーーーーーーーー!!! もう最高かよ!!!
大人の正論に対する子供の駄々。世界の中心は自分で、自分のしたいことやりたいことが常に最優先で、それを遮る理屈は全て拒絶。こっちの思慮も配慮も知ったことじゃない、嫌なものは嫌だと叫び、自分の欲しいものをひたすらに求め続ける。妥協という概念がないのかお前は。

子供だ。本当に子供だ。だからこそ美しく素晴らしい。嫉妬すらしてしまう。
須賀も最終的にその想いに感化され、大人の正しさを捨てて警察を妨害し、帆高の後押しをすることになる。このあたりで須賀にものすごく感情移入してしまう。
大人としての理性的な判断、社会的な常識に縛られる窮屈さを、帆高は全て突き抜けていく。その爽快感が堪らない。
映像的にも、薄暗い曇り空にじめっとした雨や吹き荒れる嵐と、突き抜けるような美しい青空の対比が束縛と解放のメタファーに感じるし、そこに盛り上がる音楽が組み合わさるといやおうなく感情を揺さぶられる。

まあ、なんやかんやあって、そんな帆高も流石に警察にしょっ引かれて実刑喰らって島に送還されたあとは、あれだけ拒絶した島での生活が「意外と悪いもんじゃないじゃん……」みたいに思ったのか、普通に卒業しているし大学入学も決めている。
多少は大人に成って丸くなってくれただろうか。結局は反抗期をこじらせて夏休み前後の一ヵ月ちょっと家出して東京でワルぶってただけで、黒歴史というほかない。しかもその黒歴史を後輩から憧れられてしまう始末である。乾いた笑いしか出てこない。(最初の船の時点でちょっと早い夏休みだと嘯いているので1週間くらいは学校をサボっているはずだ、進級出来て良かったな)

この子供っぽさ、幼稚さが醸し出す甘酸っぱさや美しさや醜さがこの作品の魅力の一つであり、私の感じたメッセージだ。
そしてもう一つ感じたのが、崩壊への絶対的な肯定だ。

映画ラスト。陽菜を救い出したことで東京は再び狂い、降りやまない雨と三年の歳月によって東京は水に沈んでしまった。
しかし、そんな崩壊を迎えた東京では、形は変われど平和な日常が続いていた。
通勤通学のために小型船が行き来し、制服姿の少女たちは笑顔で傘を差し、あちこちに堤防が築かれ、家が水に沈んだ人は高層マンションに移り住んでいる。詳細な描写はないが首都としての機能も継続しているらしい。

「東京はもともと海だった、それがもとに戻っただけ」「お前の選択が東京を沈めたなんて思い上がりだ、世界はもともと狂ってたんだ」という言葉は、ともすれば無責任な励ましにも聞こえる。けれど実際そうなのだと思う。
世界がどうなろうと日常は続く。
描写されないなかで何人かは犠牲になったかもしれないし、土地や資産を失った人も多いだろうし、数多くの不幸もあっただろうが、それはそれとして世界は廻る。
その描写に、滅びや崩壊への前向きさや、絶対的な肯定の意思を感じるのだ。
最後の台詞が「僕たちはきっと大丈夫だ!」なのもそれを裏付ける。エンディングでも畳みかけるように「大丈夫」という言葉が使われる。まったく根拠のない言葉。なにが大丈夫なのか。いや、大丈夫なのだ。何が起ころうと僕たちはきっと大丈夫だ。

雨で東京が沈もうと、彗星が地上に降り注ごうと、原発から放射線が漏れようと、地球温暖化が進もうと、少子高齢化が進もうと、僕たちはきっと大丈夫だ。
犠牲は出るだろうし数多の不幸が訪れるだろうが、それでも社会は形を変えて日常が続くんだろう。気に病むことはないのだというメッセージを感じた。

こういった感想を抱くのは、やはり私の価値観が反映されているのだろう。
私は社会問題に対して悲観的な感情は持っていない。何とかなると思ってるし、自分は何とかするだろうという漠然とした自信がある。自己肯定感と言い換えても良い。そして、自分とかかわりの薄い人々がどうなろうとどうでもいい。
これまで生きてきた中で、9.11や3.11やリーマンショックのような大きな悲劇が何度も起きた。それによって犠牲になったり、人生が大きく変わってしまった人は大勢いる。それはとても悲しいことだと思う。
けれど私はなんやかんやで平然と生きている。世界は崩壊してないし、経済も回っている。一時は7000円とかに下がった日経平均株価も今は2万円台だ。福島は未だに立ち入り禁止区域があるが、私には直接関係のないことだ。そう言うと怒られるかもしれないが、実際そうなのだからしょうがない。
小説版で帆高は、陽菜が人知れず犠牲になり東京に晴天が戻った際に「陽菜さんが犠牲になったことで平和が戻ってきたことにみんな本当は気付いてるくせに、それを見て見ぬ振りをしている!」と心中で毒づいている。が、それは当たり前だ。
我々からしたら、雨がめっちゃ降ってたけどあの女の子がどうにかしてくれたらしい、と思う以上に何が出来る。じゃあ帆高は俺達にどうしてほしいんだ。感謝してほしいのか、謝ってほしいのか。それをはっきりさせずに感情的になるからお前はガキなんだ。被災地のために泣けばいいのか、祈ればいいのか、全ての娯楽を不謹慎だと自粛して、毎日お通夜のように過ごさなければならないのか。違うだろう。関係ないんだ。
俺達のあずかり知らぬところで世界が狂って雨が降り、ちょっとだけ晴天が戻って、すぐにまた雨に沈んだ。ただそれだけだ。そこに帆高や陽菜が入り込む余地はないし、お前たちのことなんて俺達からすればどうでもいい。「思いあがるな」という須賀の言葉はそういうことだ。
「君の名は」だって、瀧くんが平然と学生生活を謳歌してる裏で三葉ちゃんら村人一同は隕石の直撃を受けて死んでるわけで。けど瀧くんは惨状を目の当たりにするまで隕石のことすら頭になかったじゃん。そんなもんだろ。仮に瀧くんが過去改変に失敗したからってその死は瀧くんの責任じゃないだろうと。世界ってそういうもんでしょ。自分が何かできたかもなんて思い上がりも良いところだ。

それが私個人の解釈である。もちろん違うメッセージを受け取った人もいるだろう。個人の感性が問われる。

とかくこういった小難しい話を抜きにしても、天気の子はあらゆる「エモい」シーンや音楽を暴力的なまでに叩きつけてくるドストレートな話なので、なんだか分かんないけど面白かったとなれる作品だ。是非とも食わず嫌いをせずに見てほしい。
そしてどういう感情を抱くかで、自己の思想を見つめ直すことになるのかもしれない。


……ところでクソ余談なんですけど、陽菜ちゃんはバスローブ姿の状態でバスローブを残して消滅したのに、なんで彼岸では服着てたんすかね? 指輪はすり抜けて落ちてったのに、なんで服はすり抜けないんすかね? 仮にあれがイメージ映像だとするなら、人間界に戻ってきた時に着てた服はどっから現れたんですかね? そこが気になりますよ、僕ぁ。


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