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夜、光の中で。

街は今日も喧騒の中にあった。
車のクラクション、人の笑い声。うるさくて、頭がどうにかなってしまいそう。
肩がぶつかった。若い女の子はこちらを振り返りもせずに歩いていく。
振動で落としたタバコを暫く見る。火を付けそびれたそれを足で踏み潰して、特に目的もない散策を再開した。
そう、目的などないのだ。何もない。
ただ外に出ないと苦しくなってしまうから。
一人暮らし、無機質な何もない部屋にひとりで居ると、生きているのか死んでいるのかも分からなくなる。
今こうやって誰かと肩が触れ合った。それだけで、私はこの世界に存在していると思えるのだから。
存在が曖昧になる。人が生きていくには、自己を認識する他人が必要なのだ。
私には何もなかった。数年前までは。
今こうして自信を持って自分がここに「有る」と言えるのは、やはり他人が居るからであろう。
いや、あの小さな少女も「自己」の一部と言っても、間違いではない気がする。
するとやはり私の存在とは、ただの自己満足なのだろうか?
考えても答えの出ない夜の街。気が付けばほとんどの電車は運転を終了し、駅はひっそりと暗闇に落ちていった。
それでも街には人の姿がある。この人間たちは何処から来て、何処へ行くのだろうかと考えることはとても楽しい暇潰しとなった。
携帯が震える。見れば、「自己」の一部である少女からのメッセージ。
「家出した」
ただ一言、それだけ。
弱くて小さな少女の姿を思い浮かべる。いや、それは常に頭の中にあるものなのだから、今更思い浮かべるという表現も相応しくないのだが。
また、殴られでもしたのだろうか。彼女の白い肌にいくつもの痣があることを知っていた。
「うちに来る?」
「んー」
「何」
「やめとく」
「なんで」
「人に頼るのは違うと思うから」
文字だけの会話、打てばすぐに答えが帰ってくる。
ため息が出た。こういう時ばかり、彼女は私を切り捨てようとする。
私は他人ではないのに。自分を頼って何が悪いというのだろうか。
彼女がどこにいるのかは、分かっていた。
小さな自分の半身。優しく可愛いご主人様を、迎えに行ってあげなくては。

喧騒を離れ、路地に入る。
住宅が立ち並ぶ通りを抜けて、更に更に中心部から逸れて。
細い道、誰も入らないような、街灯もないようなその場所は闇に飲まれていた。
中央でぽつんと光る自動販売機。
その横に、忘れ去られたゴミ捨て場があった。
たまに誰かがゴミを置いていく。回収に来る物は何もない。
いつのものかも分からない雑多なゴミの山。その隅っこに、少女がひとり蹲っていた。
きっとこれもまた、忘れ去られたものの一つなのだろう。それはある意味で、私である。世界に忘れ去られた女がふたり。
私が近付いても少女は顔を上げない。ピクリとも動かない。
自動販売機の明かりに照らされて半分だけ光の中に身を置く少女はとても危うく、闇に溶けてしまいそうだ。
ガコン、と飲み物が吐き出される音。やはり少女は動かない。
私はそれを少女の首元に近付けた。髪がさらりと揺れて、漆黒の首輪が光に照らされた。
飲み物から発せられる暖かな気配に、ようやく少女は首を上げた。差し出されているココアを見る。
いつもかけている黒の眼鏡。その奥の目が赤く腫れていた。泣いていたのだろうか。
ゴミの山の中、少女はゆっくりと手を伸ばしてココアを受け取った。それを抱き込んで、再び動かなくなる。

「私、死にたくなるといつもここに来るの」
いつだったか彼女がそう教えてくれた。
どこの誰が置いていったかも知れないゴミの中で小さくなっていると、本当に捨てられたような気がして。
誰にも必要とされないゴミ同然の自分が見えて、なんだか安心するからと。
たまに勘違いするの。私は人間なんじゃないかって、夢を見ちゃうんだよね。ただのゴミなのに。
そんな夢を見ちゃうと絶対に死にたくなるから、ここに来て思い出すんだ。と笑っていた。黒い眼鏡の奥で笑っていた。
何の感情も見えない上辺だけの笑顔で。
私はゴミなんだから、だれも私を必要となんてしてないんだから、生きてても死んでても同じでしょ。
そう思わないと苦しくて呼吸できないんだ。結局は死ぬ勇気がないだけなんだけど。
彼女は笑う。いつも通り笑う。今も。
ココアを両手で持ったまま、顔を上げて、目は何も捉えずに、笑った。
私は知っている。彼女の服の下、肩から肘にかけてつけられたおびただしい量の傷跡を知っている。
死ぬつもりなんてないから、ただちょっと、痛みを感じておきたかっただけだから。
いつか彼女はそう言って笑っていた。今と同じ笑顔で。
「ココア、ありがとう。家出なんて嘘よ、もう帰らないとね」
そう言って彼女は立ち上がった。自動販売機の光と、その向こうの闇とで何とも言えない陰影が彼女を包んでいた。
茶色のローファーを履き直すようにつま先で叩いて、スカートのホコリを払う。
大丈夫だからとでも言いたげに、彼女は笑顔を作る。度なんて入っていない眼鏡の奥、もう癖になってしまっている笑顔。
虫唾の走る笑顔だ。私はこの表情が嫌いだった。

「私がきみを殺すことにする」
まるで休日の予定を決める時のように、あるいは当然の善行を働く時のように、私は言う。
「死んでよ、今ここで」
闇に身体半分を溶かしながら、彼女の笑顔は崩れた。
眼鏡のレンズの向こう側で、一度、何の感情もない表情が垣間見える。
それからゆっくりと、彼女は眉を下げて泣きそうな表情を作った。嬉しい時の顔だと、私は知っている。
「うん」
そうして彼女は死んだのだ。私によって、殺されたのだ。
彼女のものであった人生はこの日、完全に終わりを告げた。


その日、少女が一人行方不明となった。
正確には、私の部屋の中で生活するようになったというだけなのだが。
どこにも連絡などしていないのに、ごくごく一般的な女子高生だったはずの彼女は捜索願も出されることなく、ひっそりと世界から消えてしまった。
今頃お母さん喜んでるだろうなあと、寝起きのコーヒーを飲みながら満足そうに彼女は言った。
親の愛など知らずひとりで生きてきた彼女は今はひとりではない。いや、確かにひとりなのかもしれない。
私も彼女も、きっと魂は半分くらいしかないだろうから。
「殺してくれてありがとう」
そう言って口付けてくる。ブラックコーヒーの味。今日はどこも噛み切られなかった。少々の物足りなさを感じながら唇が離れていく。
私もしばらくは仕事を休もう。世界なんて知らない。片手で自分の携帯を取り上げると無言で電源を切った。
私のご主人様は小さなこの少女なのだから、他には何も要らないのだから。
社会も、世間も、自分たちが生きていく上でなんら必要のないものだと知っている。お互いが居ればそれでよかった。
小さく淡く可愛い彼女は今、私のベッドの上で幸せそうに目を閉じている。
その表情に、やっぱり可愛いという感想しか出てこない。これも一種の自己愛なのだろうか。
既に死んだ彼女の隣に同じように転がって、邪魔そうな眼鏡を外す。
「私のことも、殺してくれる?」
「私が死んだんだから、あなただけ生きていくなんてできないでしょう?」
これはある意味自殺ね、と小さなご主人様は可笑しそうに笑うのだった。

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