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東京国立博物館の神護寺展に行ってきた

 東京国立博物館で開催中の「創建1200年記念 特別展 神護寺」に行ってきました。
 神護寺は京都の鬼門にあたる高雄にある古刹で、紙幣にもなった奈良朝の忠臣で、道鏡を帝位にという宇佐八幡宮の神託を退け、平安京の造営責任者ともなった和気清麻呂の創建となります。
 この寺は弘法大師空海が京都で最初に止住し、伝法灌頂を行なった地であり、日本真言宗発祥の地でもあります。今回の展覧会では本尊の薬師如来像をはじめ、お山の寺宝がほぼ下山して東京まで来てくれる、文字通り一千年に一度の機会となります。

 私は三十年来、この神護寺の本尊である薬師如来像に惚れ込んでいることもあり、さっそく駆けつけました。そして見た結果、何度でも行きたい展覧会と確信しました。
 そこで、神護寺と真言宗の寺宝の何が素晴らしいのか、そもそも平安期から続く寺院とその制度はどんなものなのか、その中で弘法大師空海はどうすごいのかを、出陳作品の一部を取り上げながら説明していきたいと思います。なお、展示替えがあるため、作品は入れ替わっているものがあります。

 これから紹介する作品のNo.は下記の東博のサイトのページの作品リストのPDFに対応しています。


No.2 神護寺略記 神護寺蔵

 これは神護寺の由来、縁起について書かれたものです。ここで空海に灌頂道場として高尾山寺を提供し、神護国祚真言寺、略して神護寺の名を賜ったことが出てきます。この国家(当時は天皇家の意)より寺の名前を賜ることを定額を賜うと言っています。こうした寺を定額寺と呼んでいます。
 この定額寺制度は神護寺創建当時の当時の朝廷の「官寺政策」が関わっています。桓武天皇の延暦四年に出された太政官符による法令で、京内での官寺(国立寺院)以外の私寺の建立が禁じられます。こうした流れの中で、貴族が新たに寺院を建てるためには国家のおん為という題目が必要になるわけです。

 その抜け道というか手段が定額寺制度です。寺院による祈祷や修法、読経によって天皇の玉体護持を祈るシステムを構築することで、定額寺としての承認を受け、寺号を賜るのです。有力貴族はこうした方法で氏寺を定額寺とし、国家の庇護を受けました。
 神護寺のような天皇家の祈祷所には当時の用語として「御願」の文字がつきます。寺院でしたら御願寺、寺院内の建物でしたら御願堂、仏像でしたら御願の尊像などなど。定額寺として認められた後も、こうしたお堂や仏像を、天皇家のために建て続けることで、関係を更新する必要があったのですね。

No.7、8 御請来目録 教王護国寺、宝厳寺蔵

 さて、神護寺が天皇の玉体護持を祈る手段として取り入れたのは密教です。日本の真言密教の開祖である空海が拠点としたことで、それは実現します。彼が密教を学ぶために遣唐使に加わり、長安は青龍寺で修行します。そこで収集した経典類をまとめて目録化したものが御請来目録です。
 空海は青龍寺にて恵果和上より伝法された密教経典をいち早く伝えんと、本来の留学期間をブッチして、早々に日本へ帰還しました。そのため、時の平城朝では入京を許されず太宰府に留め置かれます。
 平城に謀殺された彼の異母弟・伊予親王と、空海の一族が近い関係にあったため、警戒されてたりとかもあるのかも。そこで空海は、自身がもたらしたこうした密教関連の経書類の重要性を訴えることで、入京を果たしたわけです。

No.9 灌頂暦名 神護寺蔵
 こうして入京した空海は、当時仏教の外護者として評判の高かった和気氏の庇護のもと、高雄山寺に灌頂道場を築きます。
 灌頂とは頭から水を注ぐ仏教儀礼で、密教では付法といって師匠から弟子に方を授ける際に重視されるものです。つまり寺院に灌頂道場を整備することで、その寺院は真言宗の伝法の場として機能することになります。ここで灌頂道場=真言宗の寺院化と考えてしまうのは中世以降の価値観です。
 空海の在世当時の奈良末から平安前期の日本仏教は諸宗兼学がその主流にあります。それぞれの僧が本寺という所属寺院を有しますが、別の寺院、師について遊学することは可能なのです。寺院もまた一宗専学のスタイルではなく諸宗が入り乱れていました。
 この灌頂暦名もそうした実態が表れています。弘仁三年に高雄山寺で開催された結縁灌頂への参加者の名簿で空海の自筆となります。この中で最も注目すべきは天台宗の創始者である伝教大師最澄の名でしょう。

 最澄は空海と同時期に中国に渡り、天台の法門とわずかな密航経典を授かり、早期帰国します。長期滞在が前提の留学生であった空海と違い還学生という直ちに帰国するための渡唐だったため、もたらしたものはわずかでした。
 その後に密教の大系を持ち帰った空海に対し、自身が上の立場でありながら最澄は膝を屈し教えを乞います。その結果がこの灌頂暦名につながります。彼の他には、のちに空海の弟子になる泰範や国宝の光定戒牒が贈られた相手である光定など、最澄門下の俊英の名が見られます。彼らの名前の下には本寺の名前と、曼荼羅に花を投げて仏を感得する投華得仏で得た仏の名前が記されます。

 ここで注目したいのが最澄の本寺が興福寺、泰範が元興寺と奈良の寺院の名前が書かれていることです。当時の仏教界では本寺のほとんどが奈良にあり、諸宗間での留学可能といっても奈良から離れては成り立たない部分がありました。最澄は比叡山寺にて弟子へも山内に止住を求め、『山家学生式』によって十二年の籠山を課しますが、諸宗兼学の当時の状況で、仏教界から「隔絶」されることになる、その方針はうまく行きません。こうした経緯もあって泰範ものちに彼の元を去ることとなり、最澄は南都によらない大乗戒壇というパラダイムシフトを図るのですが、それはまた別の話。

 灌頂暦名には僧侶だけでなく俗人の参加も見られますが、その中に「播磨大掾和気真綱」の名前があります。彼は和気清麻呂の息子で兄の弘世、仲世とともに天台、真言の両宗を外護しました。官人としても優秀で淳和、仁明の二朝にわたって累進します。
 しかし承和の変によって、当時の皇室の家長であった嵯峨天皇が打ち立てた淳和皇統への継承ルートが否定され、仁明朝にまで継承されていた淳和系の多くの閣僚たちは、嵯峨天皇の皇后で仁明の母であった橘嘉智子の命を受けた藤原良房・良相兄弟によって弾劾・罷免されます。

 和気真綱もその例外ではありませんでした。法隆寺僧の善愷に関する弾劾事件が朝野を巻き込んで起こった際に、良房らと協働関係にあった伴善男や、それに協力した小野篁の弾劾によって、事件に心ならずも参与した真綱も逼塞を余儀なくされます。
 硬骨の士であった真綱は抗議の絶食によって自殺に近い形で命を断ち、生涯「野狂」として何恥じることなく己を貫いた小野篁にとって、おそらく唯一の悔恨すべきできごととなりました。

No.16、17 金剛般若経開題 奈良国立博物館、根津美術館蔵

 天台宗宗祖の最澄は灌頂暦名で述べたように、大乗戒壇という新しい戒律制度を設けた南都諸宗からの独立を図ります。では真言宗の開祖である空海はどうでしょうか。現在は天台真言と併記され、平安新仏教と呼ばれますが、おそらく空海の生前において、彼はそうした面を強く打ち出していません。最澄のように他宗との対立に陥ることなく、真言宗の僧を諸宗兼学の枠内で増やしていきます。

 その秘密がこちらの金剛般若経開題に見られるような顕教経典の密教による再解釈です。空海は他にも『般若心経秘鍵』などの著作で、旧来の顕教経典を密教的な視点から再解釈しています。これによって南都諸宗の教学と自身の密教との兼学を呼びかけます。しかしそれだけでは埋没してしまうので教学上の師弟関係とは別枠での灌頂を通した付法弟子という枠組みでもって、南都の中で密教修法による師弟関係のカテゴリーを併設させるのです。

 こうすることでいつの間にか教学による師弟関係よりも、修法による師弟関係が全面に出るようになり、南都は内側から真言化していったのです。諸宗兼学の枠組みを崩さなず、融和の中で自宗の枠組みを強固にしていく空海という人の恐ろしさがお分かりいただけるかと思います。こののち平安京にも各宗の寺院が建立されますが、そこでの僧の資格には教学と合わせて密教の履修が必ずセットで課され、それを受け持つのは真言宗の空海の法門につながる弟子たちの専売特許になっていくのです。

No.18 二荒山碑文 神護寺蔵

 栃木県の日光山を開山した奈良時代の僧・勝道の業績に対して空海より捧げられた碑文です。その地元は下野国都賀郡にあります。私の住む笠間からチャリで30分くらいなのでたまにサイクリングで行きます。空海は勝道の業績について詩作もしますが、これを空海に依頼したのは「伊博士」という人物だそうですが、何者なんでしょうね?
 妄想を逞しくすれば伊は伊吉連のこととか考えられます。初期の遣唐使・伊吉博徳の子孫は壱岐出身という地理的要因もあり、しばし遣唐使の成員に組み込まれます。空海が入唐の際に知り合ったそうした伊吉氏のだれかが、下野国の国博士にでもなって、昔の縁で下野の僧・勝道の顕彰を依頼したんでしょうかね?
 空海はとにかく人間関係にマメな人で、薬子の変で没落した藤原葛野麻呂にも、遣唐大使時代に受けた恩義を忘れず、交流を欠かさないぐらいです。なので、こうした些細な旅の恩義にも忘れず報いていたのでしょうか。

No.25 真済僧正像 神護寺蔵

 空海の弟子の中でも俊英と歌われるのがこちらの高雄僧正・真済(しんぜい)です。神護寺を空海、その一番弟子の実恵から継承し、その発展に努めました。彼は和気氏と関連の深い紀氏の出身で、若い頃は儒学を学んでいました。こうした経歴は空海とも共通しており、初期真言宗において二人の儒者がそのはじまりにあったことで、宗学がより高度な論理性を得ることができたということは言えるでしょう。

No.21秘密曼荼羅十住心論 仁和寺蔵

 これは空海最大の著作で、淳和天皇の在世期間である天長年間に「天長勅撰六本宗書」という形で、各宗派に提出が求められたものです。ここでやる気を出したツートップが真言宗の空海と、法相宗の小塔院僧正・護命(ごみょう)で、特に護命の『大乗法相研神章』は当時その筆頭として評価され、現代でも日本人が著した、密教以前の仏教理解における最良の書と言えましょう。
 空海のこの書は顕密両教の意義を総合し、顕教から十の階梯を踏まえて真言密教へと近づくという著述の方法が特徴です。これはドイツの哲学者ヘーゲルの精神現象学との相似も言われる面白い構成ですが、多分これ、論述方式の元ネタは四書五経の『大学』ですね。

 空海は出家前は儒者としての栄進を目指していたので、こうした儒書一般の知識を頭に蓄えていたわけで、既存の顕教経典を巧みに置き換え密教的に再解釈する方法論も、儒者としての研鑽や経書解釈の賜物であろうと私は考えています。
 あと兄の平城天皇や嵯峨天皇の影に隠れがちですが、淳和天皇は兄弟の中でも最も優秀なんではないかとすら私は思っています。彼の代で整備された諸宗の枠組みのみならず、親王任国制度など以後の日本にとって非常に重要な制度が矢継ぎ早に生み出されています。承和の変で皇統として途絶えたため顕彰されないですが、その業績はこうした寺社の歴史に帰って保存されているのかもしれません。

No.26、27 文覚上人像 神護寺蔵 

 一章一節は中世の神護寺再興の立役者・文覚上人のコーナーといえます。
 彼は元々遠藤盛遠という武士で、上西門院蔵人として仕官していましたが、出家して僧侶となります。そのあたりの説話は大映映画「地獄門」にも取り上げられ、カンヌでグランプリ取ってましたね。
 そんなカンヌ主演俳優の文覚ですが、大河ドラマの鎌倉殿の13人が始まる前に、原作脚本の三谷幸喜が主人公の北条義時を磯野カツオに、政子をサザエに例えていました。あの中でマスオだった源頼朝ですが、もしアナゴくんにまで話が及んでいたら、そこに割り当てられたのは文覚だったはずです。
 頼朝は平治の乱で伊豆に没落するまで、文覚と同じ上西門院蔵人でした。そうした縁もあってか、文覚は頼朝の挙兵時に蛭ヶ小島にいて、骸骨片手にウザ絡みしてきます。その姿はマスオにウザ絡みするアナゴくんそのものです。

 上西門院蔵人のネットワークは頼朝の人間関係で最も重要なものの一つで、文覚ほか、千葉常胤の息子・東胤頼などにもこれを介して繋がり、千葉一門を味方につけた部分があります。土佐坊昌俊の母と生前の土佐坊のことをしみじみ語りあったりと、イメージとは逆に頼朝はこうした知己には甘い印象があります。
 弟の範頼・義経には酷薄だったじゃないかと突っ込まれるかもしれませんが、彼にとっては源平の争乱の中で無から湧いてきた弟たちなわけで、真なる弟は土佐で死んだ同母弟の希義のみって感じでしょう。
 文覚へ与えた荘園関連の頼朝発給の文書類には、その辺りの感情が出ている気がします。

No.4、5弘法大師像(互御影) 神護寺、浄光明寺
No.55、56 僧形八幡神像 神護寺、浄光明寺
No.33〜35伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像 神護寺蔵

 かつては源頼朝像と言われていたこちらの肖像ですが、近年、足利直義説が浮上していることは皆様もご記憶されているかもしれません。しかし最近では、藤本孝一氏によってやっぱり頼朝で、それと向き合う平重盛像が足利直義、藤原光能像が尊氏なんじゃないかという説が提唱されました。
 これは弘法大師と八幡神がお互いの姿を写したと伝わる神護寺の互御影が発想の根拠にあったとします。この模作を鎌倉の浄光明寺に安置したとされる足利直義が、その形式に準え自分たち兄弟を武家政治の淵源たる源頼朝と向かい合うように配置し、室町幕府の正当性を図像で表したのかもしれません。

 十年前から女体化直義をツィッターで上げている私から見ても(どんな識者だ)、宗教界や武家政権の正当性を気にして、チラチラ目配せするのは直義の性格ならあり得そうなことです。これが兄の尊氏ならばそんな回りくどいことしません、地蔵を描くか戦で矢面に立つだけです。
 こういう両者の違いがあるからこそ、当時一流の禅僧で天龍寺開山の夢窓国師は、尊氏を手放しで褒め、自分を尊崇する直義へのアタリが逆にキツいのでしょうね。
 互御影がそのヒントになっている気がします。向かい合う構造で右を向く頼朝に対して、左を向く像の重盛像の方が尊氏の息子の義詮の肖像に似ている気がするので、足利兄弟の肖像画この説の逆であっても面白いですね。

No.78 神護寺最略記 神護寺像

 今回の展示で一番面白かったの、ひょっとしたらこれかもしれない。神護寺境内の各施設について誰が発願で、どの天皇の御願でということが事細かに書かれています。特に五大尊(No.100の五代虚空蔵菩薩)について「天長皇帝(淳和天皇)御願弘法大師御作」と書かれているのが大きい。

No.100 五代虚空蔵菩薩坐像 神護寺蔵
 ということで上の続きです。五大虚空蔵菩薩は秘仏として神護寺に参拝してもなかなかお目にかかることがありません。それが山の下に降りてくるなんて向こう千年はないかもですよ!
 こちら上にありますように弘法大師空海の指導した作例を示しております。儀軌に「童子のようにつくる」とある、不動明王に似た全体に凹凸のない膨らんだスタイルは、昭和に惜しくも焼失した高野山の金堂の諸尊の姿形とも類似しており、私もまず空海の関与は間違いはないのではと思っています。
 両界曼荼羅の正面向きの諸尊の姿をそのまま立体にしたかのような、正面性を重視した姿も興味深いですね。空海としては図像などとの視覚的リンクを考えてのことなんでしょうかね。真言密教は阿字観に見られるように具象から抽象、しまいには阿字という抽象記号にまでの世界の置き換えを教理とするので、そこへの導入のための正面観を重視している気がします。

No.97 薬師如来立像 神護寺蔵
 日本薬師如来像史上最高の傑作です。その厳かな顔つき、板野サーカスでも起こしそうな突き出た螺髪群、張り出した腕と太ももの肉塊表現の豊かさ、そこに渦巻く本翻式衣紋という複雑な衣のひだの表現。これらを統合する檀像彫刻を模範とした重厚な色調、全てが完全な調和を見せる、まさに音楽です。
 この薬師像の造像当初の安置場所については論争があります。神願寺、高雄山寺という二つの寺院が神護寺の前身とされ、その由来は『類聚三代格』という平安前期の格の集成の中に残っています。

 この条文は和気真綱による上表から成り立っています。これによると神願寺は現在の石清水八幡宮の近くに和気清麻呂によって建立された和気氏の氏寺です。延暦四年の私寺禁止の時に、和気清麻呂を信頼していた桓武天皇はいち早く「道鏡から皇統を守ってくれたあんたんとこは別」と、贔屓待遇して定額寺に列し、八幡神託にちなんで神願寺の名前を与えました。
 ただ、地勢が泥を運びやすく悪いため、現在の高雄の山寺の地と場所を交換します。まあ、神願寺の当時は都も長岡京で近かったのですが、平安遷都後には場所としてのアドバンテージが薄れたという部分が大きい気がします。

 で、問題となるのはこの神護寺薬師如来像がどちらの本尊だったかということです。清麻呂建立の神願寺の本尊で移されたか、もともとの高雄山寺にすでに薬師如来像があったものをそのまま本尊としたか。
 これ、正直私も結論が出ない。神願寺の場合は長岡京時代の創建となり、当時の都近くの西山宝菩提院に国宝の観音坐像が伝わっています。これが表現的に非常に神護寺像に近しい。おそらく当時最先端の技術が両者使われているはずです。
 長岡京時代の造像様式と地理的根拠では神願寺説が強い。

 一方の高雄山寺本尊転用説ですが、これは嵯峨朝以降盛んになる七高山信仰の先駆けがすでに延暦期以前にあったとと捉えると可能性が高くなります。
 七高山とは都のある山城国周辺の七つの高山(愛宕山、比叡山、神峰山、金峯山、葛城山、比良山、伊吹山)に薬師如来を祀り、薬師悔過と呼ばれる修法を行うことで玉体護持を図るもので、この愛宕山の部分に神護寺のある高雄もあたります。
 これら諸山に薬師如来を祀る例の代表は比叡山延暦寺で、法華経や密教といった天台の根本教理に関わらず、本尊は七高山信仰を下敷きとした玉体護持の薬師如来から変更されないまま現在に至っています。この本尊については、真言密教の本山・高野山や東寺も同じです。
 山林信仰と七高山、薬師如来の強い結びつきを見ると、和気氏が入る前の高雄山寺であっても、すでにこのレベルの薬師像があってもおかしくはないのです。

 ということで一進一退、どちらとも結論がつかずです。本当にこの像の魅力は彫刻史から見ても、仏教史から見ても尽きないもの。ああ、和気真綱が本尊の由来を上表に書いておいてくれたらなぁ…。

 以上、神護寺展の作品解説の体裁をしたダベリ終わり。こちらの展示ですが、8月14日からガラッと変わるので、見れない作品も多くなってしまいます。ゴメンナサイ。あくまで自分の整理のためのチラ裏として。

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