見出し画像

(我が街が好き) さらば稲城の杜

1.転居先の決定

 前回、転居先として多摩、稲毛海岸、千葉のいずれかのニュータウン内の公団分譲住宅の賃貸住宅を考えていると述べた。特に海が近く、これまでの街とは雰囲気が異なる稲毛海岸を有力候補として考えていた。
 しかし、私は72歳になっており、これからの人生長くて20年、元気で生きられるのはせいぜい10年だろう。とすれば仮住まいのこの2年間は非常に貴重な時間だと気づいた。稲毛海岸は魅力的だが、住居はコストを重視しているので魅力はあまり無い。コストを優先すれば楽しく過ごせるかどうか疑問になった。どうすれば楽しく過ごせるだろうかと考えた時、リゾート地への短期移住が頭に浮かんだ。
 移住地として、最初に大好きな沖縄を考えた。しかし、沖縄では妻の病院通いや孫の世話に問題がでる。やはり、短時間で東京まで移動ができる距離に住まねばならぬと思い、沖縄は諦めた。コロナの問題もあった。
 それで伊豆半島、房総半島でのリゾートマンションを探した。リゾート地の売買物件では格安のマンションはあるが、住みたくなるような賃貸物件はあまり出てこない。購入することも考えたが、2年後も物件を保有する場合は高い維持費が問題になるだろう。それならやはり賃貸が良いと判断したが、賃貸物件は広さや間取りに問題がある。また、賃料が高すぎたりで的確な物件はあまり見当たらない。そんな中で下田、稲取、南箱根、熱海に検討に値する物件が出てきた。何も、大温泉浴場、プール、テニスコート、アスレチックジム、ゲストルーム等の共用施設が魅力的な案件であり、内見を重ねた。これらの物件の家賃はニュータウンの公団住宅よりも高いが共用施設の豊富さを考えれば割安と言える。
 東京から下田方面へのドライブした時は伊東より南で、はっきりと空気が変わった。沖縄に近い雰囲気を感じ、感動した。心は動いたが、東京から4時間近くかかり、東京に行くとき往復で8時間かかる事になる。特に夏の間はさらに交通渋滞が予想されることより断念せざるを得なかった。
 東京からの距離、共用施設、部屋の状態、家賃、眺望、気候等を考慮し、最終的に南箱根の物件に決めた。こうして転居先は探し始めて2ヶ月余りで決定した。転居の時期は最初は7月後半を考えていたが、避暑地ならば夏になる前にと6月初めに引っ越しを決めた。

2.稲城に対する惜別の情

 自宅の売却が決まった時には引っ越しまで時間的にはかなり余裕があったこともあり、稲城を離れる事に特別の感情は湧かなかった。しかし、いざ転居先が決まり稲城との別れが確定するとやはり寂しさが込み上げてくる。今回は心ゆくまで稲城の思い出を綴りたい。

(1)ビューパレー向陽台

 最初に稲城に住んだのは多摩ニュータウンの向陽台地区であった。バブル期の1988年の街開きと同時に最初に竣工したマンション、ビューパレー向陽台に入居した。バブル期とは言え、住宅公団が販売する郊外のニュータウンの住宅は安くて人気が高かった。今は晴海フラッグの人気ぶりが注目されているが、当時の加熱ぶりは晴海フラッグのそれとは比べ物にならなかった。何度も抽選に外れた後、ようやく本命の多摩ニュータウン稲城のマンションに当たった。近くの戸建住戸は人気が高く倍率100倍を超える住戸も多かった。私が抽選に当たったマンションも戸建ほどではなかったが、晴海フラッグ以上の倍率でやっと当たったものだった。この地区の住戸はマンションで3LDKの面積は100m2以上が標準で戸建の土地面積は200m2以上と東京では類を見ないゆとりのある住宅が建設された。街並みにも余裕が感じられる。私は日本の住宅地の未来を想像した。私は特に向陽台地区の建物の風景が好きだ。向陽台地区は高低差のある土地に高層、中層、低層の建物がバランス良く配置されており、圧迫感が全く無い。また、それぞれが背景の山の緑に映えて美しい。

向陽台戸建住宅地よりマンションを望む

 当時の住宅ローンは金利が高く、制度的にも相当額の頭金が必要であった。そのため、ある程度の貯蓄が必要で購入者の年齢層も30代後半から40代と現在と比較すると高かった。ビューパレー向陽台は全80戸の中規模のマンションだったが、入居者は私と同じ30代後半の世代が多く、直ぐに多くの友達ができた。幼かった長女にも直ぐに多くの友達ができた。マンション内でのコミュニケーションの問題は殆ど経験したことが無い。なかでも後に時期、駐在地とも偶然一致し、赴任地でも親密で長い付き合いになった友人もいる。入居から34年経ち、当時の友達も殆どが転居しバラバラになったが、その友人とはいまだに家族ぐるみで付き合いをさせてもらっている。
 城山公園から長峰中央公園に向かう公園通りでは両サイドの住宅が店舗併設住宅になっており、近代的な商店街が作られる設計になっていた。これらの店舗兼用住宅はクリニックや薬局が最も多く、個人経営のレストランが無いのが唯一残念な点だ。カフェはできたが、すぐに閉店になった。その後、ケーキ屋さんが開店した。城山公園近くの空き地にファミリーレストランや全国展開の喫茶店ができた。しかし、やはり贔屓にできる個人経営のレストランがあればと残念に思う。当時はまだ街びらきが行われたばかりで将来は美しい近代的な街になるだろうと想像していた。
 住んで2年経った1990年に再度、海外勤務になった。7年後に帰国したときは子供が3人に増え、みな小学生で遊び盛りだった。ゴールデンレットリーバーも家族に加わり、城山公園の自然を皆で楽しんだ。雪が降れば山でソリ滑りをしたり、犬が凍った池に飛び込み大騒ぎをした事などが楽しい思い出だ。夏には公園の林にクワガタやカブトムシが捕まえられるほど自然が豊かだった。また、未だ空き地もあり、犬の訓練や凧揚げも楽しめた。

(2)長峰の家

 駐在を終え帰国した1997年には開発は向陽台より長峰地区に移っていた。翌年には住宅公団の土地分譲が行われた。公団の分譲はほとんどが建売住宅であり、土地のみの分譲は珍しかった。自分の好みの家が建てられる事、また、その土地からの眺望が素晴らしかったことからどうしても戸建が欲しくなった。やはり、我々の世代では戸建住戸に住むことが住宅双六のゴールと言う意識が強かった。当時はバブルも弾け、不動産価格も下落していた。以前は高嶺の花だった戸建住宅もなんとか手の届く所まで下がっていた。しかし、当時でも公団の分譲は人気があり、バブル後とは言え、高倍率であった。幸いにも抽選に当たり好きな稲城で終の住処を手に入れる事ができたと思った。その後、1年の時間をかけ、家の間取りを考え、自分の予算内でベストな家を設計した。1999年夏に完成した高気密・高断熱の我が家の自慢はテラスと一体感のあるサンルームと広い庭。寝床にもなる子供部屋のロフト、富士山の見える書斎兼用のロフトだった。

サンルームとBBQが楽しめるテラス
リビングから望む庭
2階ベランダよりの眺望
アーモンドの花と家庭菜園の畑

 海外駐在時に業務の一環として農業指導に関わった事もあり、農業に興味があった。それで定年後には熱海の別荘地で畑を作った。自宅の庭には最初は子供たちが遊べるようにと芝生を植えていた。しかし、子供達が大きくなり庭遊びもしなくなったので、思い切って自宅の芝生の庭をも家庭菜園用の畑に作り直した。周りにはブルーベリー、びわ、アーモンド、フェージョワ、金柑などの果樹や芭蕉などのトロピカルな木を植えた。また、木の下には茗荷や三つ葉、明日葉を栽培し、毎年収穫を楽しんだ。畑ではトマト、茄子、レタス、ほうれん草、小松菜、ルッコラ、ケールなど多くの野菜を栽培。特に気に入っているのが、ハラペーニョやハバネロといったメキシコ産の激辛トウガラシだ。ハラペーニョの佃煮やハバネロの激辛ソースといったオリジナル料理も楽しんだ。
 庭にはそれらの果樹の実や野菜、花を目当てに多くの鳥がやって来る。山鳩、メジロ、ホトトギス、アカゲラ、ヒヨドリ、オナガドリ、スズメなど種類も豊富だ。時にはうるさいほどだ。だが、家にいながら自然に触れ合うことができ大いに癒されたものだ。

メジロ

(3)愛犬との生活

 話は戻るが、長峰に引っ越した後、2002年に三度目の海外駐在となり、8年間稲城を留守をすることになる。とは言え、稲城に住めた5年間は駐在の多かった私の会社員生活の中では東京勤務で過ごした最も長い期間ではあった。その後、定年となり2010年に帰国後、12年間稲城に住むことが出来たが、これは社会人になった後、同じ家に住んだ最長記録である。稲城は子供たちが生活しやすい土地だと考えていた。また、この家は成長期にあった子供たちが生活し易いようにと考えたが、残念ながら子供たちの少年期、青年期の大事な時期は海外で過ごすことになった。2010年に帰国した時は長女はすでに就職のため1人で生活しており、長男はすでに大学生、次男も大学入学となり、就職後はそれぞれ家を出たため、この家に長く住むことがなかったのが残念だ。定年後は主にゴールデンと三度目の駐在時に飼ったシベリアンハスキーの2匹の愛犬と過ごすことになった。稲城は公園が多く、犬の散歩に適した街だ。十分な運動ができたおかげか、我が家の犬は長寿だった。ゴールデンが16歳、ハスキーが15歳といずれも12歳が寿命と言われる大型犬だが二匹とも長生きしてくれた。
 長峰中央公園には犬の飼い主が愛犬と共に集まってひと時を過ごせる場所と雰囲気がある。自然と人と犬が集まり、団欒のひと時を楽しんだものだ。今でもウオーキングで公園に行き、知った犬との触れ合いを楽しんでいる。

おやつを貰うハスキー

 あまり人付き合いが得意でない私だが、愛犬たちのお陰で犬友ができ、その繋がりから更に付き合いの輪が広がった。ゴールデンは帰国時すでに老犬になっており犬付き合いはあまりできなかったが、ハスキーは未だ元気で皆さんから可愛がってもらった。飼い主にも他人にも全く愛想を見せずマイペースな犬であったが、不思議と人気者だった。特に犬友の集まりの中心だったご夫妻(当時愛犬は亡くなっており犬は飼っておられなかった。)から大変可愛がってもらった。そのご夫婦が中心になり良く開かれた飲み会での集まりも楽しい思い出だ。ハスキーには躾をしたわけではないが、弱者をまもる優しさを持っていた。老夫婦がそれぞれ別々の機会で公園で体調を崩され、お二人共にマンションまで帰宅の付き添いをしたことがあった。その時、まるで我々を守るようにハスキーがゆっくり先導したことがあった。老夫婦は感動されたが、私の方がもっと驚いた。また、よちよち歩きの孫が遊びに来ると嫌な顔をしていつも逃げ出すハスキーだが、一緒に散歩をすると他の犬から孫を守るかの様に常に前後を警護するように歩き、他の犬を寄せ付けなかった。そう言った躾はしたこともなく、いつそんな能力を身に付けたのか驚いた。ゴールデンが母親がわりにしっかりと躾をしてくれたのだろう。

(4)稲城の杜の道

 多摩ニュータウン稲城地域は緑が多いと言われている。向陽台、長峰、若葉台と3つの区に分かれており、それぞれに公園がある。しかし、特別に大きな公園というわけでは無い。公園なら他のニュータウン地区の方が大きな公園が数多く見られる。他の地域との違い、稲城の良い所は街全体が公園から続く杜の様な雰囲気を持っている所だ。ニュータウンの他の地区同様、稲城でも歩道が広く、かつ歩道には樹が植えられ綺麗な並木道が形成されている。しかし、稲城の歩道には住宅地側にも植樹され、歩道は両側から樹に囲まれており、杜の中の小道のような感じがあることだ。特に長峰中央公園から続く長峰中央通りや上谷戸大橋通りは普通の並木道とは雰囲気が異なる。高さ10m近い高木から低木まで雑多な樹が植えられており、まるで公園から続く雑木林の中を歩いているような気になる。柿、枇杷、栗、杏などの果樹も豊富だ。このような道を歩けば誰もが心を癒やされる。きっと、これが稲城が東京で最も緑の多い街に選ばれた理由だと思っている。

稲城長峰中央通りの歩道
TV『となりのチカラ』の撮影現場近くの歩道

(5)子供たちの故郷

 5歳になった孫の最近のお気に入りは上谷戸(かさやと)親水公園だ。せせらぎでエビや魚を獲ったり、虫を捕まえるのに夢中だ。彼女は稲城のことをずっと覚えていてくれるだろうか。

上谷戸親水公園

 子供達が生活しやすいように、長く住めるようにと稲城を選んだ。しかし、実際には海外駐在が多く、かつ、家族は一緒に過ごすべきと言う考えで全ての赴任地に家族帯同した。そのため子供達は稲城には当初に考えたほど長く住むことができなかった。
 それでもニューヨークから帰国後ガテマラに赴任するまで5年間は稲城で生活することができた。長男がニューヨーク日本人学校で学習障害の疑いがあるとして帰国後に和光小学校で学ぶことを勧められた。それで、こども達は3人揃って鶴川の和光小・中学校に通った。和光は多様性と自由を重んじる校風で子供達ものびのび過ごせたようだ。和光に通った5年間は彼らの稲城での楽しい思い出となっているだろう。
 しかし、長女はコロンビアで生まれ、その後、調布、稲城、ニューヨーク、稲城、ガテマラ、カリフォルニア(学生時代)と引越しを重ね、就職後は三重、東京と居住地を変えた。長男、次男は大学生時代に稲城に住むことができた。しかし、彼らにとって稲城は故郷なのだろうか?彼らにとってもっとも思い入れのある土地はどこかわからない。しかし、両親が一番好きだった街として稲城の事を覚えていてくれるだろう。
 5月の連休に家族で集まり稲城の家のお別れ会をした。次男と嫁さんは共に稲城が好きだと言ってくれていた。しかし、その次男は現在、米国に家族帯同で駐在しており、今回のお別れ会には参加できなかった。昨年12月に彼が家族の赴任に同行するため、一時帰国した時は、コロナで待機義務があり、稲城の自宅で過ごす事ができなかった。まさかその1ヶ月後に売却になるとは夢にも思っていなかった。もし分かっていれば少しの間でも家に別れを告げる機会を持たせてやれたのにと後悔している。
 2年後には皆で引っ越す晴海フラッグが孫たちの故郷になるように、そこでの生活が幸せなものである様に皆で楽しく過ごそうと思う。

以上


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?