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祖父の日露戦争陣中日記:(3)戦いのあとの休息

祖父の歩兵第24連隊が属する第1軍は先陣を切って鴨緑江と愛河を渡渉し、明治37年5月1日蛤蟆塘の戦闘においてロシア軍を退却させます。ロシア軍は一旦鳳凰城まで後退しますが、その後の日本軍の各方面からの圧力によってさらに遼陽付近に向けて退却するため、第1軍は鳳凰城を戦わずして占領し、兵隊たちにはひと時の休息が与えられます。今回は、5月10日以降6月20日頃までの日記の中で興味深い記述を抜粋して解読することにします。

5月13日:敵情偵察のため、小隊は午前8時官家堡子を出発し東方面へ約12 kmほど前進した。しかし敵について得られる情報はなかった。午後6時帰宿した。

5月16日:夜半より降雨となった。午後5時頃夕食を取ろうとしていた際に、東方面においてロシア軍の騎兵約8個中隊に砲兵が若干付随して我が軍の方向に前進する様子があるとの報告に接した。そこで舎内に2名の兵を残して愛河の右岸畑地に掩堡子(塹壕)などを完成させ午後7時頃帰宿した。

5月17日:小隊は道路偵察のため、午前10時30分官家堡子を出発し、張家堡子を経て牙巴山を超えて赦家堡子へ至った。ここから前方はロシア軍の勢力範囲であることを考慮して帰路についた。帰宿は午後10時頃となった。なお、本日牙巴山を超える際、大きな雹(ヒョウ)が降った。

5月26日:午前7時中隊は敵情偵察のため宿営地を出発し、弧山、石橋子を経て小楼房に至り、ここで昼食をとった。ついで、河を徒渉して小堡子を経て大堡子に至った。ここには第14連隊の1個中隊が宿営していたが、敵についての情報は得られなかった。午後7時寄宿した。木下中尉が中隊長として着任されたので、藤丸中尉は中隊長代理の任を解かれた。新任中隊長より土産として、巻莨(タバコ)10本入り3箱を頂戴した。

5月27日:昨日の26日、第2軍は午前9時より午後7時までの激戦の末、金州を占領したとの情報があった。

6月1日:当日鳳凰城師団本部付近において戦死者追悼会が開催の予定であったが、前夜来の降雨のため中止となった。

6月2日:本日戦死者の追悼会が実施された。しかし中隊は控え兵であったため宿舎に滞在した。

鴨緑江の戦闘における戦死者の追悼会(「日露戦争PHOTOクロニクル」より)

6月7日:午前7時より、一部は薪の運搬、その他の者は河へ魚釣りに出かけたが一匹の成果もなく空しく戻ってきた。

6月9日:午前8時官家堡子を出発して、同11時30分余屯匂へ到着し警戒部隊となった。分隊は愛河と草河との合流点より南方約500 mの高地突出部において第3下士哨となった。

祖父は自身が下士哨の任を与えられた場所の地形図や測図に同伴した際の略図を日記に挟み込んでいます。120年近く経った現在、その位置をgoogle mapやgoogle earth上で見つけ出し両者を比較することも興味深いものがあります。

愛河と草河との合流点近傍の地形図(上:Google Earth上で見た地形図、下:祖父が描いた地形図)

6月16日:午後8時頃雑貨商人がやって来て、「昼から何も食べていない」と言う。そこで、分隊より白米3人分を与えた。

6月17日:前日白米を与えた商人が再びやって来て、今度は我が分隊へ水筒3本分の焼酎をくれた。本日は旧暦の5月5日で節句に当たる。清国においても家屋上に「ショウブ」と「ヨモギ」を投げ上げて当日を祝う習慣があるようだ。

6月22日:恤兵品(ジュッペイヒン、慰問品)として酒及び手拭いが給せられた。ご当地を「共楽園」と命名して運動場を工築し、中隊一同思い思いのご馳走を持ち寄って会食を行った。

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