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祖父の日露戦争陣中日記:(10)辺牛禄堡子付近の戦い

明治38年3月1日、5日、6日、8日午前の歩兵第24連隊の位置

3月1日:午後10時ごろ突然出発の命令が発出された。下平台子北方高地に集合して次の命令を待った。(僅かに雪が降っていた)

3月2日:終日砲声は激烈であった。我が軍の臼砲は辺牛禄堡子、疣山付近を砲撃した。

3月3日:払暁より砲銃声音が凄まじかった。「百雷一時に落ちるが如し」とはこのような音であろう。夜に入っても砲銃声が激しく耳を驚かせた。

3月4日:前日より砲銃声は止むことなく、「ドンドン、ピュピュ」と耳を騒がせる。

3月5日:晴天。掩蓋(塹壕の覆い)を出て疣山の第8中隊と交代した。時間は午前3時頃であった。午前6時より、第3大隊、第2大隊の順に辺牛禄堡子にむけて前進を開始した。そのために我が中隊は疣山より、岩山にいる敵に向かって援護射撃を行った。午前7時30分、中隊は疣山南麓に集合せよとの命令を受けてその場所に集合して次の命令を待った。本日はこの地に露営することになった。同夜12時頃、中央部突角の警戒にあたるよう命令を受け、直ちに出発して指定の地にとどまった。

3月6日:晴天。第2大隊及び第3大隊は岩山凹部に潜伏して占領地を維持している。三城子山に我が軍の歩兵が前進し、一時期大変な激戦となった。そこで、我が中隊(第2中隊)の位置にいる山砲第4中隊が我が軍の歩兵に相対する敵に向かって砲撃した。この歩兵とは第47連隊のことである。敵の野砲も我々の付近に落下したが損害はなかった。(注釈)当時の地図によれば確かに山砲兵が第2中隊の左に位置して、左翼に展開中の第47連隊が記されています)

3月7日:晴天。当分隊は右鞍部へ下士哨として派遣された。敵は数カ所に火災を起こし、所々にある兵站部を焼却してしまったようである。最前線一帯は静かである。

3月8日から3月10日にかけて辺牛禄堡子から渾河左岸に至るまでの歩兵第24連隊の進軍経路
右は当時の地図、左はGoogle earth上で見る該当する地域の写真

3月8日:晴天。午後4時頃から食事の準備をし、疣山の東麓に集合した。午前7時より辺牛禄堡子へ向けて前進を開始した。予想外に、敵は堅固な砦をいち早く放棄して退却していた。辺牛禄堡子北方高地に至って、敵が堅塁として頼っていた陣地を眺めていたところ、以下の情報及び命令が届いた。敵は北方に退却し、白深寨以南には彼らの姿は認められない。師団は営盤及び小峪を経て四方台方面に向けて敵を急迫する予定である。歩兵47連隊は前衛、歩兵24連隊と砲兵一大隊は本隊とする。前衛は直ちに出発、本隊はその後方約1,500 mを隔てて続くこと。この命令に従って行動を始めたのが午前10時であった。そこから約15~20 km前進したところで太陽は西に没し、道も険しく前方との連絡が途切れた。駆け足でようやく追いつくとそこに一部落があった。この時の心地は如何とも言い難いものであった。後々まで記憶しておくべきことであった。当夜はこの地に露営した(この地を連功村と名付けた)。前衛も敵と衝突した様子はなかった。

<「福岡連隊」の記述> 3月8日に至って、わが砲兵隊の援護を強化しての再三にわたる突撃によって、さしも頑強だった敵の抵抗も弱まり、動揺するありさまが、下からでもよく見えた。この機に乗じた24連隊は猛攻撃に移り、一気に眼上の敵を追って山腹をよじ登った。

上図は当時の軍用地図上で見る3月9日の歩兵第24連隊の位置(沙宝屯付近に駐留している)、下図は現代のGoogle earth上で見る該当する地域の航空写真

明治38年3月9日:晴天。午前5時露営地を出発して前進中、次の情報が入った。第2軍及び第3軍は奉天付近の敵を撃破し、目下奉天城を包囲攻撃中。第4軍は鉄嶺に向けて追撃中。第2師団は撫順城の右の道路を切断するような行動を取っている。当12師団は渾河を渡り西家溝に向かって敵を追撃しようとしている。以上のような吉報を聞くとこれまでの苦労も忘れ、足取りも軽かった。ところが正午頃から風が強くなり、砂塵を巻き揚げ眼も開けられない状態となった。午後6時頃ある部落に着いたとき、前方と左方から緩慢な銃声音が聞こえた。午後9時半頃までそこに待機したが、午後10時頃そこに村落露営をすることになった。ここを砂塵日暮村と名付けた(渾河の前岸2,000 mのところである。)

<「福岡連隊」の記述> 連隊は9日には渾河左岸の沙宝屯まで進出できた。強風が一日中吹き荒れ、黄塵を巻き上げては、連隊将兵の真っ正面から吹きつけてくる。将兵は目や鼻を覆いながら前進をやめなかった。

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。冒頭の写真は興隆屯南方における野戦砲兵第12連隊第2大隊の戦闘(3月10日)。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。

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