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祖父の日露戦争陣中日記:(6)大安平・遼陽付近の戦闘

日露戦争の陸戦史で有名なのは乃木希典司令官の率いる第3軍の旅順攻撃ですが、祖父の第1軍にも8月19日から始まった第1回総攻撃の戦況が伝えられていたようです。8月21日の日記には中隊長からの訓示を受けて以下のような記述があります。

8月21日:情報によれば、「第3軍は大変な艱難辛苦に打ち勝って着々と前進し、敵の背面防御陣地へ突撃し得る距離まで接近し、本夜(即ち21日)ある地点に向けて突撃する予定である」。フランス人から見れば、旅順はいかなる戦術戦略をもってしても陥落することはないということらしいが、第3軍はそのような堅塁を打破して勇敢に前進した。これに較べれば第1軍はそれほどの困難もなくここまで来たのであるから、この先の遼陽の攻撃では彼らに負けないよう勇気をもって九州男子の真価を発揮されるよう期待する。以上、賣家堡子における中隊長の訓示より。

8月23日:午前8時前哨を交代する。午前9時頃松樹匂方面から数10発の銃声が聞こえた。双方の斥候の衝突であろう。我が騎兵将校斥候の通報によれば敵の騎兵約1個中隊が松樹匂北方高地にいるが、前進する様子はない。

8月23日夜の第12師団の位置:第24連隊は賣家堡子に滞留

8月25日:午後8時より行動を開始し、賣家堡子を寒破嶺方向に向かって出発した。達子堡を経て藍河を徒渉中に敵の射撃を受けた。しかし我が軍に損害はなく前進を続行した。左右の方向では夜襲突撃の声が響き渡り銃声も激しかったが、我々の前進方向には敵は認められず、容易に寒破嶺高山まで到着することができた。

8月26日:夜明けに寒破嶺に至り万歳を三唱した。夜明け前に敵は退却したので我々は山を下り、戦闘隊形のまま露営した。

8月26日第12師団の位置、および8月25日から28日にかけての第24連隊の進軍の経路

8月27日:敵は前方1300 mにある岩山を占領して頑強に抵抗した。しかし、我々には敵わず次第しだいに退却を始めたので、我が軍は前へ前へと前進した。いくつかの山頂を超えてある岩山までたどり着いたときには、すでに敵は隊列を整え軍橋を通過中であった。日没になってから敵の砲弾が我々の居場所で激しく破裂したが、我々に損害はなかった。当夜、小隊は小哨に任ぜられ終夜睡眠をとる時間もなかった。

8月28日:夜明けより行動を開始し午前10時に出発して朴溝山に至った。ここは最要地で敵が砲を据え付け頑固に防御した地点である。ここで伊福氏(しばしば日記に登場する人物で祖父の友人であったと思われる)と面会し短い会話をした。その後大子江前岸の山頂に到達した。ここで2名の補充兵が編入された。日没となり、山頂に掩堡(塹壕)を築造中に突然出発の命令が下った。同夜12時当地を出発して長水橋という大部落を通って再びある山に至った。時は翌日29日の夜明けであった。

8月29日:午後2時頃山麓に至って露営の準備をし露営した。当日は左方向より激烈な砲声が聞こえた。敵は大子江の向こう岸に塹壕を造りときどき姿を見せていた。

8月30日:午後2時頃山頂に警戒態勢をとった。夕刻になって第47連隊と交代して当24連隊は敵の左翼へ迂回行動を開始した。(連刀湾付近からと思われる)大子江を徒渉して(水深は胸まで達した)、厳溝砲台下を経て山頂へ至った。時間は翌日31日の午前6時30分ごろであった。

8月30日、連刀湾付近で太子河を渡る第12師団

8月31日:終日砲声と銃声は絶え間なく響いた。午後日暮れより、当分隊は下士哨として敵方に通じる道路上に至った。当夜敵は我々下士哨に対して夜襲を仕掛けてきたが、これを撃退した。終夜、各方面から銃声が聞こえてきた。

8月28日から31日にかけての第24連隊の進軍経路と8月31日の第12師団の位置

9月1日:位置を変更して掩堡を造り壕内に留まった。日没より前進を始めた。敵前、双方の声が聞きとれるまでの距離まで前進したときに、我が軍より敵中へ突撃の声が聞こえた。第8中隊は敵中へ突入した際中隊長は戦死し、やむなく自陣に引き揚げた。当夜前進中、自分は連絡斥候として6名の兵隊を率いて隊の先頭に立って前進した。途中敵弾のため右肘関節部へ擦過傷を負ったが、軽傷であったのは幸運であった。当夜、大隊(第1及び第4中隊を欠く)は豆畑へ潜伏して夜を徹した。当日ある林の中で敵の騎兵と戦闘中の戦死者は以下の通りである。藤丸宗造中尉、花田儀太郎一等卒、三好源次一等卒。他に負傷者4名。

8月31日、9月1日午前10時ごろ、午後3時ごろ、および午後8時30分ごろの第24連隊の位置

9月2日:夜明けとともに、少し後方の漆畑に壕を造りそこに留まった。当日左翼の第2師団は突撃を敢行して敵の陣地を占領した。終夜銃声が止まることはなかった。当夜、敵は3回も逆襲をしてきたが我々はそれらを撃退した。

9月3日:前日と同様に壕内にいた。銃声は引き続き寸時も止むことはなかった。朝6時ごろから日露両軍の砲戦は激烈であった。夜になって前夜とは打って変わって静かになり、銃声1発も聞かなかった。

9月4日:夜明け頃、野戦砲兵陣地の変更のため歩兵隊は壕内から出て、当地の東北方向の高地の裏側に新たに壕を掘った。午後10時行動を開始した。約8 kmほど前進したところで右方向に銃声が聞こえ、暫くして突撃の声が聞こえた。敵は徐々に退却を始めた。その頃はすでに9月5日の早朝であった。

9月5日:我が軍は退却するロシア軍を急追し、鉄道線路付近まで追撃したとき、俄かに空は墨を流したかのように真っ黒になり大雨となった。よってこの地に一時的に停止し、雨が小降りになって達連溝の西端まで行って停止した。小隊は、下台子に通じる道路上で小哨に任ぜられた。当日をもって遼陽占領を確実なものにした期日とされる。

9月10日の第1軍第12師団、第2師団、近衛師団の各位置(ピンク帯は第24連隊の位置)

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。

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