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祖父の日露戦争陣中日記:(7)梅沢旅団の支援部隊となる

8月25日に賣家堡子を出発して以来、27~28日大安平付近紅砂嶺の戦闘においてロシア軍を退却させたのち、30日太子江を渡渉し、9月1日祖父らの軍隊は遼陽付近黒英台の戦闘で多数の死傷者を出しますが、9月5日烟台(えんだい)近くの達連溝まで追撃して行きます。この地に10日ほど滞在しますが、その間の9月9日と12日に第8分隊は原嶋少尉とともに烟台方面に地形偵察に出かけます。以下の図は、当時の図面上及びGoogle earth上で見るこれまでの進軍の経路、ならびに祖父の日記に挟まれた烟台付近の略図、当時の日本軍の該当地域の地図及びGoogle earth上の地図です。120年ほど前のことですから、地名変更があったり漢字体が変わっていたりするので現代のマップ上に当時の村や町を同定するのは結構難しいのですが、烟台付近の地名は今もほとんど変わっておらず容易に見つけ出すことができました。

明治37年9月10日の第12師団、第2師団、近衛師団からなる第1軍の位置。祖父の属する第12師団第24連隊は8月25日賣家堡子を出発して9月5日烟台(えんだい)近くの達連溝まで進軍した。
現代のGoogle Map上でたどる上図の進軍経路
上図:9月8日と9月12日の地形偵察で祖父が描いた略図
下図:当時の軍用地図(ピンクの領域は第12師団第24連隊の9月17日の滞留地)
上図左3分の1は下図の緑枠内、上図右3分の2は下図の赤枠内に相当する。
現代のGoogle Earth上で眺める上図に相当する付近の航空写真

祖父らの第24連隊は9月16日東台達連溝を出発し、約12 km東の上沈家匂に、17日には下沈家匂に滞在します。16日の日記文中に、「東台達連溝を発って約4 kmのところに石炭坑があり、ロシア兵の兵営であった。その構造は周囲はレンガ造りで天井はガラスで蔽われ、非常に美しい外観であった」という記載があります。これは地図中の烟台炭坑のことでしょうか?9月18日の日記より再開します。

9月18日:冬夜の情報によれば、機砲を伴う敵の歩兵3個大隊が、本渓湖より奉天に通じる道路上において梅沢旅団に攻撃を仕掛けてきたらしい。一部は我が軍によって撃退されたが、一部は攻撃の準備をして依然として前線に居座っているという。そのため本連隊は梅沢旅団の支援隊として当地を出発する予定であるのでその準備をしておくようにとの指示が中隊長よりなされた。

9月19日:午前5時20分第二大隊宿営地付近の連隊集合所で整列し、梅沢旅団の宿営地に向けて出発した。東北方向に約25 kmの行軍をして上石橋子西匂に午後6時頃到着した。今晩前面の敵を攻撃するため、12時より行動を開始する予定とのこと。そこで翌日の食事の準備をして着の身着のまま寝ていたところ、夜半に伝令がやって来て、「本夜の出発は取り止めになった。悠々と睡眠してよい。」と告げられた。今朝初めて霜が降りたのを見た。

9月20日:午前背嚢を梱包して大隊本部に預け、攻撃の準備をして出発の命令が下るのを待った。

9月21日:昨日前面の敵を攻撃の予定も一時中止となり、本日より通常の舎営となったため背嚢も各隊に返却された。しかし、いつでも出発できるよう、その準備は怠りなくとの中隊本部からの達しがあった。

9月22日:今朝来激しい銃声音が聞こえ、何時に出発の命令が下りるかも知れないのでその準備をしておくよう中隊からの連絡があった。午後3時20分ごろには銃声は一層激しくなり、砲弾が宿営地の東5、600 mのところで破裂した。そこで全員今にも戦闘が始まるものと考えその準備中整列の命令が伝えられた。直ちに軽装で東南方向に向かい、山頂をいくつか超えて約4 km前進し、本渓湖より奉天に通じる道路と撫順に通じる道路との交差点に至った。ここからさらに撫順方向に約2 km前進したところで最初の陣地とする高地に到着した。しかし、この時には敵はすでに退却していた。したがって、当大隊はもとの宿営地に引き揚げ、第3大隊が前哨として当地に残った。来襲した敵の兵力は騎兵約1連隊に砲を4門有していたという。

9月23日:黄昏ごろ、皇太子殿下よりの御言葉を中隊長が奉読された。

9月24日:以下の情報及び訓示があった。奉天にいる約10万のロシア兵は約6万人分の支那服、靴などを購入したらしい。察するに、これをもって冬を凌ぐつもりであろう。また間諜として我々の軍情を探ろうとする者がいるかも知れないので、各衛兵はこの点も注意すべきこと。一昨日紅山子付近に来襲した敵兵は北方に退却した。戦勝後に関する注意が旅団長閣下より伝達された。

9月27日:8月25日から9月5日の戦闘における戦死者の追悼会が下石橋子西北端高地において実施された。式場には漆の仏壇が作られ、前には緑門が立てられ国旗が掲げてあった。読経が終わったのち、一同参拝して死者の忠魂を祀った。

9月29日:本日より冬服着用となった。

10月1日:午前中、伊福氏が我が宿舎を訪ねてきた。よもやま話をして帰って行った。宿営地の南方高地において約1,500 mの早駆け競争が行われた。

10月2日:前哨からの報告によれば、敵の大隊が辺牛禄堡子まで侵入し、夜襲を受ける危険性があるという。そこで午前1時集合して下平台北方高地へ行き凹部において夜を徹してのち、朝9時宿舎に戻った。

10月3日:午前9時、還送品を護衛して宿営地を本渓湖に向け出発した。途中異常なく、午後2時本渓湖に到着し、当該品を引き渡した。午後9時ごろ宿舎に帰った(行程約12 km)。本渓湖はその一帯に人家が多く、ちょっとした市街地をなしていた。しかし、周囲は山に囲まれており、石炭は多いが木薪は少ないようであった。清国の兵営が設置されていて繁栄の地と見られた。また当地は飲料水に恵まれていた。本渓湖第1軍第6野戦郵便局において全員の郵便物を受け取った。

10月4日:前日夕刻より寒気が増し、夜になると一層寒くなった。夜が明けると、降霜は甚だしく雪のように真っ白になり薄氷を結んだ。軍医部長より以下の注意があった。11月より翌年3月まで寒気は著しく凍傷に罹りやすくなる。各自その予防に十分注意すべきこと。

10月5日:午前中小哨の位置で掩蔽物を築造し終わって、午後3時30分頃帰宿すると警急集合の命令が伝えられた。そこでその準備をし出発の命令を待っていたが、その命令は解除された。先に送付された、内地の山笠の景況を撮った大型の写真集を見ていると、知らず知らずのうちに知人の姓名を絶叫してしまった。

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。冒頭の写真は、興隆屯付近における日本軍の前哨。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。

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