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祖父の日露戦争陣中日記:(12)最終局面へ(最後に衝撃の記述が。。。)

日本軍は明治38年3月10日には奉天攻略に成功し、ロシア軍は北方に退却していきます。祖父が属する第1軍第24連隊も奉天近郊興隆屯の戦闘に勝利した後、さらにロシア軍を追って鉄嶺を経て中固付近まで進出していきます。しかし日本側の損失も甚大で、第24連隊もそれ以上深追いすることなく鉄嶺まで後進した後、3月19日に南東方向の三道溝に至り、そこに1ヶ月以上滞在することになります。3月20日からの再開ですが、三道溝に滞在中は、宿舎内外の掃除、薪の集積、教練、衛兵勤務など、比較的ゆったりとした時間を過ごしたようです。以下は、主要な出来事の抜粋です。

3月11日以降の第24連隊の行軍ルートと3月21日の位置(三道溝)

4月10日:催陣堡と三道溝の中間山麓において、奉天付近における連隊戦死者の臨時招魂祭が施行された。この日は風が強く穏やかな天気ではなかった。しかし、気候としては暖かく、花こそ咲いてはいないが満州の野原も早や三春の好時節となった。広漠とした原野に高さ丈余 (3 m余り)の旗が戦死者一人ひとりの名を記して立ててあった。さらに、そこには神々しい祭壇が設けられ、屋根は漆稗によって蔽われ、周囲には幕を廻らし正面においてこれを絞っていた。さらに、祭壇の外三方は漆稗の玉垣を周らせ、その入り口には緑門を建てて、「慰忠魂」と題額を懸け神前には「吊霊」との2文字が大書されていた。向かって右側は将校の席に当てられ、玉垣の外に休憩所が設けられていた。この日は、午前10時より参拝が行われ、最初に将校・師団長以下の焼香・参拝、次いで各部隊の参拝があって、宴会となった。下士以下は一度宿舎に帰って軍服を着替え式場に戻った。余興として、芝居、角力(カクリョク、相撲のこと)、浄瑠璃、手桶などの各兵の隠し芸が演じられた。

4月11日:午前中は野菜類の種まきの準備を行なった。午後、祭典場へ駆けつけ前日の余興の続きを見物した。この日、一人につき酒2合の配給があった。そこで、祭典が終わって酒宴を開いた。

4月12日:昼食を携帯の上、催陣堡付近において旅団演習が行われた。


5月1日:本日は蛤蟆塘(コウバトウ)及び石城占領の1周年に相当する。大隊においては芝居が開演された。しかし、天候不良にして、風が烈しく、砂塵を巻き上げ眼も開けられないほどであった。

5月2日:数日中にこの地を出発の予定ということになり、その準備に朝から多忙であった。

5月4日:午前7時三道溝を出発し、催陣堡南端に連隊集合し、同8時出発、午後3時半牧養政という土地に到着した。行軍約30 km。

5月5日:午前7時前日の地を出発し、約 30 km行軍して午後5時ごろ頭山子という地に着いた。この日中隊は師団及び旅団の衛兵を務めた。

5月6日:午前6時前日の地を出発し、約40 km強の行軍をして、午後9時耿庄子(コウショウシ)へ到着した。

4月30日と5月10日の日露両軍の位置(第24連隊は5月4日〜5月6日に三道溝から耿庄子へ移動)
120年前の地図(左)とほぼ同範囲のGoogle earth上地形のスクリーンショット(右)

この耿庄子は開原東方の清河の上流にある村で、祖父らにとって最後の宿営地になります。この地で、明治38年12月郷里へ凱旋するまで、下士哨として前線の警戒に当たることになります。しかし5月下旬には、日本海海戦において、日本艦隊がバルチック艦隊を撃破したニュースが満州の陸軍兵士らにも伝えられています。したがって、この頃は兵隊たちにとってはすでに「勝ち戦」ムードが漂っており、ことある度に酒宴が繰り広げられていたようです。

第24連隊の最後の滞在地となった耿庄子(Google earth上の地形の眺め(左)と当時の地図(右)

5月19日:晴天。騎兵斥候の支援として午前7時出発し、張庄子東北高地に着いたとき、前方約2,000 mの地点に敵の騎兵10騎を発見した。小隊はこれを射撃したところ、彼らはいち早く退却して行った。午後4時ごろ帰路につき、同9時宿舎に戻った。小隊長より4円の慰労金が惠典された。

5月20日:晴天。午前は防御線の工事へ出かけた。午後は芝居見物へ出かけた。2、3段も過ぎた頃に隊長命令により芝居が中断された。敵の騎兵3、4百騎が前哨線に向かって来襲する気配がある。従って、第3および第4中隊は直ちに宿舎に帰り警急集合に備えられたい、という。これより先、芝居は再開された。敵を目前にしながらの演劇見物とは、これまた記憶すべき日と言えるではないか。

5月23日:以下の情報があった。1.第3軍第7師団にミシチェンコ将軍の指揮する騎兵7,000、砲5門が来襲し、病院を襲われ若干の損害を受けた(衛生材料を奪われた)。2.第2師団第30連隊の前哨面に夜襲を受けて、戦死1名、負傷1名、行方不明1名の損害があった。

5月25日:午後2時、第3大隊と前哨を交代した。夜半より降雨。吉岡、中野を同伴して、騎兵第1中隊権藤軍曹の宿舎を訪ねた。酒宴のもてなしを受けた。

5月28日から5月31日の日記は、ほぼ日本海海戦の戦果について現地で得た情報の記述に充てられています。この部分については別報でまとめて記述することにします。

6月12日:晴天。郷里から送付品が到着した。日本新歴史、西洋占い、雑歌集、巻タバコ(山桜)20本入5箱。この中に白水忠七氏よりの進物もあった。

6月20日:晴天。兵器検査が執行された。永島庄太郎の酒保に対する借金5円54銭を代わりに支払ってやった。

5月24日:午後6時より、耿庄子南方付近において、松田少尉を教官として、下士に対する測量及び独立下士哨配置に関する演習が行われた。

5月25日:朝から降雨。中隊長の測量掩護として、午前8時30分宿舎を出発して張庄子東北方高地に至り、張庄子で宿営した。第1中隊長も1分隊を率いてやってきた。(情報)1.鴨緑江軍は本日前進する。2.耿庄子に兵站部を開設する。3.当連隊の左翼前哨の位置に戦利砲2門を設置する。

5月30日:晴天。午後6時ごろから小雨が降ってきた。午前8時第3大隊と交代して宿舎に戻った。午後6時ごろ、露探(ロタン、ロシア側のスパイ)が斬罪に処せられると聞き、首斬りを見た。まず、支那人を所定の位置に座らせた。武藤軍曹が宮原特務曹長の日本刀を持って上段に構えたとき、自分の老婆の昔話が俄かに脳裏に浮かび何とも言えない感情が湧き上がった。軍曹の「エイ!」という掛け声とともに首は前に落ちた。

最後のところで、戦争以外の残虐な場面が記述されていました。祖父の日記はここで実質終了しています。この後もあるにはあるのですが、字は小さく乱雑になっていて解読不能です。祖父はこの年の12月まで当地耿庄子に滞在し、その後郷里に凱旋帰国しています。

以上をもって祖父の日露戦争陣中日記の解読を終了とします。なお、祖父が現地で聞いた「日本海海戦」の戦果については、最後の付録(Appendix)にて記述することにします。最後までお読みいただきありがとうございました。

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。冒頭の写真は満州軍総司令官大山元帥の奉天入城。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。

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