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祖父の日露戦争陣中日記:(補遺1)日本海海戦の情報

日本海海戦は、5月27日から5月29日にかけて日本海において日本海軍の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊の間で行われた海戦です。この戦闘における日本側が圧倒的に優勢な情報はほぼ1日遅れで、奉天の北東付近に滞在する陸軍の各部隊にも伝えられていたようです。(写真は日本海海戦において最初の砲撃が開始された頃の連合艦隊:日露戦争PHOTOクロニクル(文生書院2019年)より)

明治38年5月28日:宿舎内外の大掃除をした。午後7時、以下の情報があった。

1.昨27日午前6時30分、我々の艦隊は沖ノ島付近の東北方向36 kmのところにおいて、敵艦7,300トンを撃沈させ、水雷艦によって戦闘艦13,000トンを爆沈させた。

2.咋27日の海戦において敵艦を少なくとも4隻撃沈させた。その他、多大の損傷を敵に与えた。一方、我々の艦隊に損害はなかった。

3.28日の海戦においては、敵の戦艦1、巡洋艦1を撃沈させた。その他の敵艦は四散したので、朝鮮海峡は今なお危険である。敵艦の総数は16隻らしい。


5月29日:晴天。以下、大本営発表の情報。

1.海戦は今なお続いているので詳細は秘密である。昨夜までの海戦の結果は次の通りである。

2.27日、敵の艦隊4隻を撃沈させた。内、ボロジノ戦闘艦13,516トン、カムチャッカ工作艦7,300トン、他の2隻は不明。

3.28日、アドミラル・ナヒモフ巡洋艦8,524トン、対馬東北岸の西泊付近において沈没。同日午前11時、朝鮮竹辺門(対馬の北端と元山の中央にある松島の西南方向)付近において、オレーグ巡洋艦5,887トン1隻を撃沈させた。同日、シソイ・ヴェリキー戦闘艦10,400トン及びドミトリー・ドンスコイ巡洋艦6,200トンを捕獲した。ナワリン戦闘艦10,200トンは沈没して、その乗員はことごとく捕虜となった。敵の水兵55名はボートにて長門三島に上陸し降伏した。


5月30日:午後5時ごろから小隊の宴会を行った。小隊長(今村少将)より金10円の補助があった。29日午後11時40分発の情報があった。小原参謀長より山本中佐宛の通報、大連湾防備隊司令官よりの通報として、5月29日午前11時15分竹敷要塞司令官より次の報告があった。

(撃沈)ボロジノ、アレキサンドル3世、ジェムチウグ、他2、3隻

(自沈)ウラジミール・モノマフ、アドミラル・ナヒモフ、ドミトリー・ドンスコイ

(捕獲)ニコライ1世、アリヨール、アドミラル・セニャーウィン、ゲネラル・アドミラル・アプラクシン

(遁走)巡洋艦イズムルート1隻

その他は不明であるが、撃沈されたのであろう。我が艦隊に損害はなかった。


5月31日:大久保、坂崎、須永の3名、衛兵より戻った。半雨半曇。

本日は天気は晴朗ではなかったが、それにも関わらず演劇が行われた。途中で雨が降り出した。ちょうどそんな時、一人の別嬪さんが尻をからげて幕の外に飛び出してきた。いや、仮装美人である。『海戦情報!!』と声のあらん限り叫んだ。「これは私事の戯れではありません!公務ですから皆さんは謹んでお聞きください!」「27日以来の海戦における敵艦の損害は次の通りです」

1.戦闘艦8隻のうち、6隻沈没、2隻捕獲

2.巡洋艦9隻のうち、6隻沈没、3隻行方不明

3.装甲巡洋艦3隻のうち、2隻捕獲、1隻沈没

4.ロジェストウェンスキー提督ほか、少将2名を捕虜とした。

「終わり!」と言うや直ちに幕内に消えると同時に、周りからの万歳の声が天にも轟くほどに沸き起こった。まもなく、開幕の的木が「カチンカチン」と響いて、一人の兵が幕を押すようにして開けた。この日は吉報を耳にし、異空の戦場において演劇を見物し、実に愉快な日であった。

 (記憶すべき記念日)今回の海戦の第1日(27日)はロシアの現皇帝ニコライ二世陛下の即位戴冠式の当日であった。第2日(28日)は我が皇后陛下の御誕生日、すなわち地久節であった。

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