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『散る桜 残る桜も 散る桜』

浄土宗西山禅林寺派 光明院様の令和6年4月の門前掲示板の言葉になります。

この言葉は良寛和尚の言葉になります。

この言葉の解説を光明院の住職さんがしていて、とてもいいお話だったので引用したいと思います。

以下、光明院 住職様のお話

いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。

この禅語は、そんな良寛さんの辞世の句と言われています。今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛さんの心。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負うのです。

人は死にます。命があることと命が失われることは、まさにコインの裏表。病に冒されたから死ぬのではなく、生きているから、死ぬのです。

良寛さんの残した辞世の句は、人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえ、命を諦めた言葉にも受け取れます。

しかし、仏教において「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするというように、いかに美しく生きるのか、それを明らかにすることが「諦める」であり、諦観という言葉の真意だと私は考えています。

とてもいいお話だと思いました。私も良寛さんの本を読んでみようと思い、早速この本を購入して読んでみようと思います。

良寛さんのお話ができるように頑張ります。


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