幼少期に経験した同和問題(部落差別)
※まず、これはただの経験談であり私は同和問題(部落差別)に関して研究しているわけではありません。
noteを始めるにあたってどんな記事を書こうかと悩んでいたところ、ふと思い出した経験談を書いていこうと思います。初めてなので、拙い文章で恐縮ですが、ご一読いただけますと幸いです。
題名にもある「同和問題」という言葉を聞いて、ピンと来る方はなかなかいらっしゃらないのではないでしょうか。私も小学生の時に、母親からこの言葉を聞いた時「童話問題?」と聞き返しましたから。
同和問題とは言い換えると"部落差別"です。
部落差別の話をすると言いましても、私は栃木県内でも三つの指に入る大きな都市の出身の為、最初その話を聞いたときは「こんな都会にそんなのあるわけないじゃん」と思っていました。それでも、実在したという例を私の経験を交えて話していけたらと思います。
私が住んでいる地域が他の地域と違うな、と感じ始めたのは小学生の頃でした。
私の家族は地域行事への参加にとても積極的で、私も小学低学年の頃からその地域のお囃子会に所属していました。毎回練習場所はその地域の公民館だったため、毎週土曜日になると子ども達で集まって練習していました。
いつものように練習している時に、ふとあることに気がつきました。
公民館内に飾られている歴代自治会長の写真を見ていた時に、その人たちの苗字がS氏、N氏、M氏という三つの苗字の人たちしかいなかったのです。最初は世襲制かな?とも思い、母親に聞いたところ渋い顔をされたのを覚えています。
その日の夜、父親と母親に食卓に呼ばれ、話があると言われました。何のことかと思えば、「同和問題のことだ」と言われました。(そこで冒頭の考えが浮かびました)父親は難しいだろうからと、小学生にも分かる言葉で教えてくれました。
その内容は以下の通りでした。
•私たちが住んでいる地域は元々は"穢多、非人"と呼ばれる人たちの部落である。
穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/穢多
•私が見た歴代自治会長の苗字、N氏、M氏、S氏の三つは"えたひにん"の家系の人達の苗字である。
•その人たちは今でもこの地域を自分達の地域だと主張し、外部から来たもの「よそ者」に対して偉そうな態度をとっている。そのため、自治会自体が上記3苗字以外の自治会長就任を認めていない。
二つ目の事実を聞いた時、私はショックを受けました。なぜなら、私にはその苗字の友達が何人もいたから。
これからはその友達と遊べないのか...と思った時、父は「お前の友達にもその苗字がいると思うが、この話はその友達には関係ない話だ。自分達の土地だと主張するのは高齢の人ばかりで、お前の友達は何もしていないのだから。だから、いつもどおり仲良くしなさい」と静かに諭してくれました。
と言うのも、父自身もこの地域出身であり私と同じように上記の三つの苗字を持つ友達がいたからでした。(父の家系は元々北海道がルーツなのでこの部落差別と関係はありません。)
事実、私の実家の周りにも古くから住んでいる人がおり、よく考えてみれば全てその人たちの苗字は上記の三つのうちのどれかでした。またその人たちは、私たちのような外部からの人たちとは全く接しないか、接したとしても自分達のルールを押し付ける(ピンポンを押さずに勝手に人様の家に入ってくる、よその人たちの噂話を触れ回る)など常識のない人たちが多いイメージでした。
続けて母親から、この地域が市から受けている差別を教えてくれました。それが以下の内容です。
1. 市内一大きなお祭りで、市内の全地域を大きなお神輿が回ってくる行事が、つい最近までここの地域が除外されていたこと。(穢らわしい地域だから)
2. 上記のお祭りには、各自治会のお囃子会が参加できる権利を持っているがこの地域は除外されていること。(実際参加した事は一度もありませんでした。ですが、何年か後にこれはなくなりました。)
3. 私たちが所属しているお囃子会の曲は、同じ別の市内のお囃子会から提供してもらった曲であり、そもそもお囃子自体が認められていなかった。(他のお囃子会には代々続くオリジナル曲がたくさんありました。)
4. この地域出身の人は市の議員になれない。または市役所で働けない。
(上記の話は2000年代の話です。今は多少変わっていると思います...多分)
上記以外にも様々な面で、私の地域のみが除外、差別されていると言われました。
これらを聞いた時、母が言っていることが事実だとは思えませんでした。なぜなら、私の所属するお囃子会の最終目標は"市内一大きなお祭りに出ること"だったのです。そのお祭りでは、やぐらと楽器をトラックの荷台に積んで、演奏しながら大通りを練り歩くと言うお囃子会に所属する子供にとっては夢の舞台でした。
そんな夢の舞台に、ただ「元々は"えたひにん"の部落のお囃子会」と言うだけで、全く関係ない子供でさえ出れないなんて。そして、悲しいことに私たちのお囃子会を仕切っている大人達もまた残念ながら"えたひにん"の方たちだったと言うことが後に分かるのです。
またそれと同時に、近くの図書館で行われる祭りに参加した際に他のお囃子会の大人たちから悪口を言われたり避けられたりする理由、隣の自治会のお囃子会の練習を見学させてもらった時に楽器を取り上げられ、代わりに座布団を叩かせられて大人たちに笑われた理由がはっきり分かりました。(隣のお囃子会には友達もいたので辛かったのを覚えています。)
そして、私が一番驚いたのは一番「よそ者」であるはずの母(新潟の佐渡島の集落出身)がこれらのことを知っていたということです。母のいた集落も、家の周りはほぼ親戚でよそ者は除外される、そのような地域だからこそこういう問題に敏感だったのではと今では思います。
よかれと思って話してくれた両親には大変感謝しましたが、夢の舞台に立てないと分かってからはお囃子の練習にも身が入らなくなりサボるようになってしまいました。
それでも母にも謎に「行きなさい!」と無理矢理連れて行かれたり、お囃子会の上部の人にも「辞めないで」と何度も引き留められましたが、当時の私はこの地域に住んでること自体がもう嫌で仕方がありませんでした。
他にも別のお囃子会の人たちに指導と曲の提供をお願いし、その人たちと唯一繋がりのあったお囃子会の代表の方が亡くなり(えたひにんの苗字の方)、ほかにそのお囃子会の人たちとの関わりがあるのがベテランの私だけだったということもあり、新しい上部の人たちが私を利用しようとしているということが分かったということもあります。
この時期に私はどんどん、大人への信頼を失っていきました。
後から聞いた話ですが、私が辞めた後もお囃子会のサポートに回っていた母も、上部の"えたひにん"の方々にその事を知っているとバレて追い出されたそうです。
ここからは後日談になります。
私がお囃子会を辞めて何年か後に、自治会長がN氏、S氏、M氏以外の外部から来た方に変わりました。それからは、市からの見る目も変わったんでしょうか。今まで差別されていた私たちの地域が、他の市内の地域と同じ待遇をされるようになりました。
そもそも、関係ない移住してきた人も含め、ただ「その地域だから」と差別すること自体がおかしいんですけどね。
ですが今となっては、"えたひにん"を主張していたご老人の方々もご存命の方はほぼおらず、私の地域の三分の二は外部から来られた人たちになりました。町があるべき姿に戻ったのだと安心していたのですが...
まだその地域に住む家族からは「えたひにんの部落っていう事実は永遠に消えない。あなたが知らないところで、まだ差別は残ってるよ」と。
私はもう地元から離れているので、詳細を尋ねることはありません。
ただ、私が声を大にして言いたいのは「昔は昔、今は今」だと思うんです。過去の事を何の罪もない、新しく移住してきた人、後世の子供達に押し付けるのは間違っていると思います。
今でも田舎に行けば行くほど部落差別は残っていると思います。若者が生まれ育った田舎から流出してしまうのも、こういうことが残っているのも一因だと思うんです。
いつか完全に私の地元から、全ての地域から部落差別がなくなる事を願い、ここに記させていただきます。
※こちらに書いた事は全て事実です。脚色等はしておりません。
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