鳥の言葉、人の言葉 ~ 小川洋子『ことり』
森のそばにある職場なので、春から初夏にかけて、野鳥の繁殖シーズンにはいろいろな鳥のさえずりが聞こえてくる。とはいっても、聞き分けられる鳥の声はたかが知れている。ウグイス、ホトトギス、ツバメ、スズメ、ヒヨドリ、シジュウカラ……。そのなかで最近ひときわ大きく、多彩な声色で鳴く鳥がいて、それがガビチョウだということを知った。外来種で、その豊かすぎる声量から、街なかでは騒音とされることもあるようだ。野鳥に詳しい上司によると、どうやらもとは人に飼われていたガビチョウが、籠脱けしてしまって繁殖しているのではないかという。
たしかにガビチョウの声は他の鳥よりも格段にボリュームが高く、最初聞いたときは驚いた。しかも、他の鳥の鳴き真似をするらしく、いままでウグイスだと思ってうっとり聞いていた声が実はガビチョウだったと判明したときは、軽く騙されていたような気持ちになった。ホンモノだと信じ込んでいたらソックリさんだったというわけだ。
しかし抑揚がきいたおしゃべりに耳を傾けていると、「これはなんて言っているのだろう?」と、鳥の言葉が理解できたらさぞかし楽しいだろうな、などと夢想してしまう。
小川洋子の小説『ことり』は、小鳥の言葉がわかる「お兄さん」と、幼稚園の鳥小屋の世話をしていることから「小鳥の小父さん」と呼ばれる弟、そのふたり兄弟の物語だ。
「お兄さん」は、11歳を過ぎた頃から「自分で編み出した言語」でしか話さなくなってしまう。両親が亡くなった後、兄弟はふたりで、日々を暮らしてゆく。家の庭に来る野鳥に餌をあげ、幼稚園の鳥小屋を見に行き、お兄さんは町の薬局でキャンディを買い、その包装紙で鳥の形のブローチを作る。昨日と同じ今日を繰り返す毎日。そこに重要な役割をあたえられているのが、鳥たちである。
彼らの家では人間より野鳥の来訪の方がずっと大事にされた。崩壊した離れをお兄さんが改造して作ったバードテーブルには、さまざまな種類の鳥が姿を現した。それを二人で眺め、さえずりを聞くのは日々の大きな楽しみだった。
(中略)
彼らは二人だけの巣を守って暮らした。それは目立たない葉陰にそっと隠されていた。小枝は精巧に組み合わされ、程よい広さを保ち、敷き詰められた藁は柔らかかった。そこには二人分の居場所しかなく、他の誰一人入り込む余地は残されていなかった。
小川洋子『ことり』(朝日新聞出版)
「お兄さん」が自分で編み出した言語を、弟である「小鳥の小父さん」は「ポーポー語」と呼んだ。そのポーポー語が通じるのは、鳥たち、そして「小鳥の小父さん」だけ。
わたしはこの物語に惹かれたのは、鳥との交感はもちろんなのだが、この「お兄さん」の言葉を、弟だけが唯一理解できた、というところなのである。
それにはじぶん自身の実体験がある。
下の子が生まれた頃、上の子は2歳半だった。
人間の赤ん坊というのは、意思表示は最初は泣くことでしかできない。少したつと「クーイング」と言われる声を出すようになり、その後「喃語」と呼ばれる赤ちゃん言葉を話すようになる。下の子がさかんに喃語でしゃべっていた時期、わたしはその赤ちゃん言葉の意味まで捉えていなかったのだが、いきなり上の子が、「○○ちゃん(下の子の名前)は、いまこんなことを言ってるよ」と言ってきたのだ。
当時3歳ぐらいの子どもの創作だった可能性はある。でも、これは上の子は赤ちゃん言葉がはっきりわかっているな、と感じた。びっくりして、同時にものすごく感激した。
残念なことには、その頃の生活がバタバタすぎて、上の子が言った内容を覚えていないのだ。メモしておけばよかった。しかし、後悔することばかりのじぶんの子育てのなかで、このエピソードを思い出すといつも胸が熱くなる。
この『ことり』という物語は、せつない。でも、ゆたかな世界がそこにはある。
人の言葉、鳥の言葉にもっと耳を澄ましてみたい。