20200124-丼と麺と死と生

玉葱を薄く刻む音が0時過ぎのキッチンに響く。祖母の形見の菜切包丁は度重なる研磨によって肩身を狭くしている。健康志向で炊いたはずのもち麦が夜食への欲求を掻き立てる。二夜連続でメインアクトを担った豆腐卵とじ丼には隠居していただき、鶏胸肉の親子丼が鮮烈なデビューを飾る。なんか食べ物のことばかり書いてるな、と感じる。食という行為には本能以外にも記憶や快・不快といった添加物が混じりやすい。生きることは食べ続けることであるし、食べることは生き続けることだ。手土産の素麺をどうしても食べたくて峠を越えてみせた祖父のことを思い出す。結局その数年後には乾麺のようにポッキリ逝ってしまったけど。この包丁は、祖母が飯支度の最中に緊急入院した日にも使われていただろうか。琺瑯の鍋にはいつも蕗が眠っていた。妙にノスタルジックな感傷に浸りながら親子丼をたいらげた。今度の盆は久々に墓参りでも行こうか。その前に、たったいま胃の中へ収まったチキンファミリーを弔うべきか。ご馳走様でした。あなた方の血肉は私になって生きます。私の血肉もいつかあなた方になって生きる日が来れば、その時はどうぞよろしくお願いします。まあ、素麺がある限り死ぬことはないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?