自分を持ち上げる31音

 私は自己肯定が猛烈に苦手である。自分の能力が極端に劣っているか、周りに何故か秀でた能力の持ち主しかいないかのどちらかだろうと思っているが、気づけば素直に自分を褒められない大人に育ってしまっていた。
 そんな私なので「恋人を喪った安田短歌」で短歌を詠んだはいいがすぐに他人の作品と比べて「自分あまりにも稚拙! 出直せ!」とじたばたしていた。あとで気づいたが努力をしたことがない新人がいきなり歌壇受賞経験者たちと同レベルに並べるわけがないのだ、自分は天才じゃないんだから。

 そういった中で、出会いは唐突だった。

 Twitterのフォロワーのフォロワー、そのひとのフォロワー、と芋づる式に「りうむ教」のアカウントを見つけた。りうむ教なる団体はその時企画を行っていた。『絵鳥産む』のことだ。
 そのときの私が何を考えていたか、正直あまり思い出せない。だが事実、結果として、私は『第一回絵鳥産む』への参加、出詠をした。
 これは面白い企画だった。一つのイラストが提示され、各自想像を膨らませて短歌を詠む。歌が出揃えば、出泳者のみによる投票で優勝が決まる。投票の際は誰がどの歌をつくったか、ならびにどれに投票したかは伏せられる。「この人応援してるからこの人に投票!」ということが出来ないのが私は好きだと感じた。
 結果発表の日、ツイキャスにて全作品の評価をする配信がされた。この配信の何がよかったか、投票には参加しなかった人もコメント投稿で歌の評価や感想を送れたところだ。投票時にわからなかったために票を入れられなかった歌についても人のコメントで「これはそういう意味の表現だったのか……」と気づいたり「これをそう解釈したのか!」と驚いたり、感心しっぱなしだった。
 さて、いざ自分の作品の講評となったとき。読み上げられている最中ものすごく緊張していた。正直何食わぬ顔でコメントを打ちつつずっと「他の人みんなすごい……」と思っていたので「自分の場違い感凄まじい……」と感じていた。
 どんな評価が来ても泣かないぞ。
 いや泣けるだけいい。泣かせてもらえるくらい叩きのめされるだけありがたい。
 逆にどう言えば刺が出ないかに気を遣いすぎてコメントもないだろう。
 偏屈な鋼の意志で武装をしていた。
 のだが。
 寄せられたコメントはあたたかく嬉しいものばかりだった。この文章に抜粋しようかと思ったがどれを選べばいいのかわからないので載せない。でもツイキャスのコメント欄のスクショは撮ってある。
 なんだろう、褒められる、よかったところをストレートに良いと言ってもらえることがこんなにも嬉しいんだ、私にも褒められる作品をつくることができるんだ、ということが自信のようなものになった気がする。
 
 そういうわけで軽率に短歌楽しいモードに突入してしまった私。本テキスト執筆時(2月26日)時点で第二回絵鳥産むと青春短歌タッグトーナメントの締め切りが間近に控えている。
 急に自分全肯定は無理だが、少しなら褒めることをしてもいいかな、という気持ちになっている。自分を褒める回数を増やしながら作品を作れたらいいなと思う。
 ただし締め切りを守れなかった場合は悔い改めて、どうぞ。
 そうならないように頑張ってね、と自分の尻を蹴り飛ばした。

(※3月5日補足:第二回絵鳥産むは明日6日結果発表、青春短歌タッグトーナメントは初戦が3月14日に決まった。わくわくしている。後者に関しては応援していただけると幸い。)