雑記 おじいちゃんとのこと


 不死身だったおじいちゃんが亡くなった。
 いつなにが起きてもおかしくないですよ、と医者に言われて三年、五年くらい変わらずに生きてたんじゃないかと思う。自分の体内で血が作れない状態になってからも、いやがりながら病院に通う以外の変化はなかった。よく転んで、足を擦りむいて帰ってくることもあったし、寒い冬の夜に道で倒れているところを通行人の連絡で救急車に運ばれたこともあった。交通事故に遭ったという話を聞いたときは焦ったけれど、その後はまたすぐ一人で歩けるようになって元気に過ごしていた。

 入院も何度目かわからなくなってきて、その度に両親は主治医から、いつなにがあるかわからない、という宣告を受けた。わたしは実家を出ているから不定期に送られてくる家族LINEでそんな話を共有されていた。家族で集まっておじいちゃんの話になると、おじいちゃんは不死身だ、ゾンビだ、生命力がすごい、とかそんな雑談を交わしていた。

 身内を亡くすのは、今回が初めてだった。我が家の家系はみんな長生きで、九州の大おばあちゃんは現在九九歳、この秋には百歳になるらしい。父方の祖父母も健在で、生まれてこの方、身近な人の最期に立ち会ったことがなかった。

 正直、いまじぶんがどんな気持ちなのかがわからない。だいぶ前から、いつかこうなるだろうことは覚悟していた。そして先週末、なにか予感がして、お見舞いに行って顔を見れた、話ができた、という悔いのなさもあるのかもしれない。ドラマで見るような大雨の中の悲しみではなく、台風一号が逸れて晴れた日だったから、というのもあるのかもしれない。わたしは、冷静に事実を受け止めている。

 けれど昼でも夜でも、歩けばおじいちゃんのことを考えていた。おじいちゃんと一緒に旅行に行った記憶は? 印象的な思い出は? いろいろな問題があって、物心がついてからはどこも行けていない。頭に浮かんでくるのは、幼少期にぶどう狩りに行ったなぁ、という程度だった。

 わたしは、おじいちゃんのことをよく知らないのかもしれない。ガスの会社を立ち上げて、バブル期にはけっこう稼いでいたという話は聞いたけれど、その名残はどこにもない。お金に困る時期もあったし、実家の夕食は「ご飯、味噌汁、焼き魚」みたいな構成が基本だった。昔の写真を以前見たことがある。なかなかのコワモテ風な色付きサングラスとパンチパーマのような姿で写っていた記憶で、黒服を着たクレヨンしんちゃんの園長先生のような雰囲気だった。すごかったんだなぁ、と思うのと同時に、どうしてお金を残してくれなかったんだろう、ともよく思ったりもした。晩年は、こっそりお酒を買ってきて、じぶんの部屋で隠れて飲んでいるといった姿ばかりが印象に残っている。

 おじいちゃんは母方のおじいちゃんで、わたしの父親と弟とは仲があまりよくなかった。父親とは、母親の結婚前の顔合わせでお酒を断ったから気を許していないという話を直接聞かされたことがある。なんでも、あの場で父親はお酒が苦手という話をしたが、のちに父親がバーボンウィスキーをひとりで飲んでいるという事実を知ったらしく、それがおれのお酒を断った、という強い印象に変わってしまったらしい。弟とは、よく喧嘩をしていた記憶がある。父親や弟がなにか言っても、おじいちゃんは話を聞かなかったし、二人もやりにくそうにしていたのが懐かしい。それに比べて、わたしは中立的に見ていた立場だったので、小さい頃はおじいちゃんとちょくちょく話をした記憶がある。割と信頼されていたように感じていたし、わたしは家族の中でも、対話をしていた方の部類だと思う。小学校くらいのときは、二階に住んでるおじいちゃんのとこに行って、おじいちゃん専用のミニ冷蔵庫にぎっしり詰められた「みぞれ味のシャーベット」をもらって食べていた記憶がある。いつもかちかちに凍っていて、しばらくしてからじゃないと木のスプーンが入り込まなかったような気もする。

 こうして思い出を遡ってみても、やはりじぶんがどんな気持ちなのかがわからない。まだ今日連絡を家族から受けただけだから、明後日のお葬式に足を運ばないと、そのあたりもわからないんだと思う。

 でも、誰に読んでもらうでもなく、こうして今日あったことを記す。それがなぜか大事な気がして、文章に書き起こしました。

 5/20あたりから、じぶんのまわりの流れが変わったような気がします。具体的になにかがあったわけじゃないけれど、いろいろなことが片付いて、次になにしよう、というタイミングでした。

 おじいちゃん、いままでありがとう。
 天国でゆっくりしてね。
 そしてどうか、優しく見守っていてください。


2024年5月29日(水) 21:43 会社帰りの自宅にて




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