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こころのことば 自分の声

うてとの選択を迫られる世の中。世の中を主導する側が肩入れしているのがどちらかは、あからさまにはっきりしている。どちらがトクかも、短期的にはあきらかだ。でも、うてうてと急かす側の言説は、整合性があやしい。言葉には誠意がなく、こころに響いてこない。文章には、書き手の心が如実にあらわれるものだ。積極推奨して急かす人たちは、まるめこむために『安全です』と不正確な安請け合いをしたり、感染の場合の不利益と予防策をとったことでの不利益とで比較基準を巧みに言い変えたり、慎重に検証を重ねて発言する誠実な人を貶めたり揶揄したり、ひとりひとりの人生全体の質を考えながら発言する人を口汚く中傷し攻撃したりする。高所から愚かな庶民を導くような物言いをしながら他人への思いやりを示す行動に出よと口にする。しかし思いやりを語るその言葉から心が感じられないのはなぜだ。自分の言葉、自分の声ではなく、だれかの言葉、だれかの声を使って語っているように感じられるのはなぜだ。この人たちの言葉に人生を預ける気にはなれない。当該侵襲的な医療行為は、激しい副反応をともなうことは既にわかっている。中長期的なことも含めて何かが起こるか、なにも起こらないかはなんとも言えない。不利益をちらつかせた恫喝に屈した結果何かが起こったとき、誰のことも恨みませんとは私には言えない。言ったとしても、そこに追い込んだ人たちが何の責任も取らないことも想像がつく。

かたや慎重な立場からの発信をする人たちの多くはその人自身の中から出てくる言葉を自分の声で話しかけてくれる。豊かな専門知識を持つ立場から深い考察を語る姿勢は驚くほど謙虚で誠実で、その声は、こちらの心に伝わる。安易に断定はしないながら、心配そうに、重要な指摘をする。この発言者に出会えたこと自体が大切な宝物だと思える。

聴いていて、読んでいて、心に響く声に言葉に耳を傾けたいと思う。

聴いていて、読んでいて、悲しく情けなくなる声や言葉からは耳をそむけたいと思う。

そうしたら言われてしまう言葉。「そんなこと言ってて不利益を被っても知らないからね!勝手にすればいい」。

だからね、自分の言葉を自分の声で誠実に語る人はそういう切り捨てるような言い方をしないの。ザマを見ろみたいな言い方しないの。




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