全体主義社会の記憶
そろそろいちどは書いておきたいと思った。今から15年以上前のことを。
全体主義社会に暮らしていた1年間のことを。
3年間に及ぼうとしている、社会に蔓延するこの全体主義。
私は、平成半ばに、今とそっくりな社会で暮らしたことがある。ただ、そのときの全体主義は地域限定の現象だった。
地域の小学校の1年生の児童が、下校途中に声をかけてきた初対面の人間の車に乗り、その後遺体で発見されるという事件があったからだった。
静かだった街は、マスコミで埋め尽くされた。被害児童と同じ学年の子の家庭に押しかけて幼稚園の卒園アルバムを貸してくれと言ったり、保護者付き添いの登下校時に付きまとって、インタビューの形で(既に言わせたい内容は彼らの頭の中にあって、それに沿った質問を仕掛けてくるわけだが)発言を押さえようとしたり。
ドアチャイムが鳴らされ、出てみたら週刊誌の取材だったこともある。
外出から帰ってきて、家に入ろうとしたところを2人組の目付きの鋭い男性に呼び止められ、日本でいちばん発行部数の多い新聞社の名前を名乗っていきなり質問されたこともある。
彼らはいったいナニ様だ。一般人はヒマなのか?
さすがにムッとして
「あなた方はそう名乗られるけれども、私はどうやって(玄関を開けようとするタイミングでいきなり背後から声をかけてくる)あなた方が不審者ではなくその新聞社の方であると判断できますか?」
と聞き返すと、そのうちのひとりは
「失礼しましたっっ!!!」
と名刺を出し、
「ここに電話をかけて、こういう名前の記者がいるかどうか聞いてくださいっ!」
と言った。もうひとりは名刺を出しはしたものの睨み返してきたが。
「そこまでする気はありませんけど」
と答えると
「いいえ!電話して聞いてくださいっ!」
でないと自分の気が済まないとかなんとか…。私に関係ない自分の事情を相変わらずあれこれと述べたてつつ、
「僕達も早く事件が解決する為に何かできないかと一生懸命なんです!」。
いや、それって気負い過ぎ。それに正直あんたらいきなり背後から現れて気持ち悪いし充分不審者やん。と思いつつ質問に応じた。
「被害児童が行方不明になったとき地域の人たちで捜索したとききましたが、参加されましたか?!」
「いいえ」
「なぜ捜さなかったんですかっっ!!」
うるさいなあ。その子のこと、名前も顔も事件が起きるまで知らなかったの。この街、けっこう人口いるの。小学校って6年だから、全校1000人弱の子がいるの。被害児童は1年生で、うちの子は高学年の範疇だし。ここの学区、広いの。うちとその子の家、直線距離だとわりと近く見えるかもしれないけど、通学路のルートも全然別ルートなの。だいたい、発見された日の朝小学校からの電話連絡網で初めて事件のこと聞いて、なんのことかわからずテレビ付けたんだから。上空では複数のマスコミのヘリコプターが飛んでた。前日も、私の周りでは捜索活動なんかやってなかった。…って言ってもわからないんだろうなあ…。こんな直情径行型の記者で大丈夫なのかな…?
他の全国紙の記者は登校付き添いの帰り道で歩調を合わせてぴたりと並んで話しかけてきた(なるほどそうやるのか)。
「お子さんの安全について認識はどう変わりましたか?」
あのな…。物心ついたときには強迫神経症だった私にそれを訊くか。
「…朝送り出した子が、帰ってくるのはもともと『あたりまえ』なんかじゃないでしょう?」
と尋ね返すと記者は離れた。
そんなありさまだから、子どもの保護の状況は全国から注視され、監視されていた。学校への往復・特に下校は全学年が隊列を組んで周囲を大人ががっちりと固めて行われた。
繰り返すが、全校児童は1000人弱を数える。
ちなみに新興住宅地である。
もとはそんなに人口が多かったわけではないから、通学路の道幅は広くない。
保護者以外の地域住民も、善意から、人間関係から、さまざまなかかわり方をすることとなった。
犯人が捕まってからも、『喉元を過ぎ』たからと『熱さを忘れる』ような日本人ではない。
マスク必須、アルコール消毒を神経質に繰り返す現在の状況と同じだ。
誰もが毎日、学校の行き帰りに確実に付き添える状況なわけがない。家庭の事情も個人の事情も様々だ。
「できる範囲で」「無理のないように」と、学校も地域もそこは気をつけて発信していたけれど、それはそれ、これはこれ。
「あの人はもっと協力できるんじゃないの?」という声も出る。「事情があると言ったって、大事な子でしょ?自分の子でしょ?」というささやきも聞こえる。隊列の中での子ども同士の仲間はずしもすべてを管理しきれるものでもない。人間は、ストレスがあればはけ口を見つけようとするものらしい。人間関係は大切で、デリケートなものだから、自分の大切な仲間関係を壊さぬように、仲間の攻撃にはならぬように気を遣うのが人情か。勢い、力関係はさまざまに変化を生じる。親しいもの同士は、「あの人は仕方がないわよ。たいへんよ」と不問に付し庇い合う。知人や血縁地縁が少ないとか、群れることをしないとかだと「もっとできるはずなのにやらない」と、非協力的認定の対象となる。それまで保たれていた均衡に、新たに大きな要素が加わったのだ。
実はいちばん気になったのは、この異常な緊張が子どもの成長過程に及ぼす影響だった。四六時中隊列で移動し、大人に見張られ、はるか前を歩く先頭が赤信号で立ち止まればいきなりSTOP。前に続いて行動するので自分で状況判断しない。する必要がないというかむしろ、自分で状況判断するスイッチをOFFにしておいた方がうまくいく。
しかし子どもたちは、自分で見極めて判断することを日常生活から学ぶのではないのか?いつまで囲い込むのか?
目に見えないドームに覆われ、聞こえない空襲警報のサイレンが鳴り響いているかのような感覚を覚えた。その地域から遠ざかっていくにつれ、制限はゆるくなる。全国的に防犯ブザー携帯くらいは拡まっただろうけれども。
不思議だったのは、学童保育だ。6:30の解散後は、三々五々、それぞれが誰に付き添われるでなく自宅をめざす。
まあ、これまでどおりの日常だ。
この差はなんだ?
通常の下校は自宅に着くまでが学校の責任下で学童保育は学童保育所に行ったところで保護者の管理下に変わるということだろうか?
そうこうして日常を過ごすうち、夏休みになった。
そこで私はまた、戸惑うことになった。
地域も保護者も、大人の付き添いなど全くない状態で、事件前と同じに出歩いている、小学生たちの姿がそこにあった。
9月になり、今後は学校との往復も事件前の状態でいいのかと思っていたら、夏休み前までの隊列と厳格な保護管理が再開された。
私には瞬時に判断し難いよくわからない基準が適用されているようだった。現在の、接種間隔の決まりや注射液の消費期限延長の報道に接するとその頃覚えた感覚が重なる。
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