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表現者塾 2023.9.9 施光恒先生 を受講しての感想。noteへの期待

月に1度、第2土曜日夕方の表現者塾。
会場は東京なので、私は有料配信動画の視聴会員。
今日の講師は九州大学の、施光恒先生。
テーマは、
『ポスト・グローバル化の世界をいかに構想するか
「グローバル化」と「国際化」という二つのビジョン』。
グローバル化は、『あたりまえ』であり、英語公用語化は逃れられない宿命である、それを受け入れない者は落ちぶれていくしかない…のように言われる昨今。

しかしほんとうにそうなのか?
と、施先生は問いかける。

『英語化は愚民化』という著書のある施先生は、「非常に一面的な発想である」と言われる。
グローバル化は画一化。あるべきは、それぞれの国や地域の多数の文化や言語、伝統の基礎の上に近代化を進めた多元的世界であるはず、と。
歴史を振り返り、西欧の近代化の過程をたどると、中世に於いて政治・宗教・学問を独占していた特権階級は、ラテン語を用いていた。庶民の生活の言葉は土着語で、庶民は政治・宗教・学問から隔絶されていた。
15世紀に宗教改革が起こり、それまでラテン語かギリシャ語に限られていた聖書を土着語に翻訳した。ルターはドイツ語で、ティンダルは英語で…。
聖書の翻訳は、中世ヨーロッパ社会構造を揺るがし、土着語は磨かれ発達して知的概念を伝えうる『国語』へと変化を遂げるに至り、一般庶民は日常の言語で知的活動が行えるという自信を獲得したのだ、と。
まさにそれはひと握りのグローバルエリートがラテン語によって独占していた知的活動が、ただ日々の生活に追われるのみだった庶民に開かれたという大きな変化であったのだと。

そういえばそうだ。
ルターのドイツ語訳聖書が当時の社会に大きな衝撃をもたらしたと世界史で習った、あれはそういうことだ…!と気付かされる。

さらに、
土着語による出版物が増えた都市では、人口増加がみられており、経済成長が著しくあったと推察される、と講義は進む。

分断され隔絶され、ラテン語の使える一部のエリートだけに権力が握られていた中世ヨーロッパ社会は、活気ある近代国民国家社会へと変化していった。
施先生の指摘は続く。
現在のグローバル化は進歩ではなく「退歩」の側面を持つのでは?と。
学問の世界では、自国語の論文ではなく英語論文でなければ認められない、それでは専門書は各国語に翻訳されなくなり、英語が使える一部のエリートが学問を独占していくのではないか?と。



想像する。
階級が固定し、硬直した社会。
情報も学問もひと握りの特権階級が独占する。
対流が起こらない社会では、磨かれる機会は少なく、次第に文化も学問も痩せ衰えていく。
「総活躍」を謳い上げられても、その「活躍」は、日々の生活にあくせくする歯車としての動きでしかなく、刹那的な快楽を追うことでしかなく…。
次第に、血が通わなくなった文化は、衰退するしかない。人間どうしの生き生きとした交流に磨かれない社会は、殺風景で味気ないことだろう。

国境や各国語、国民性、民族、慣習による差異をどんどん低減させていき、平板化した社会は、さぞつまらないことだろう。
そういう社会では、支配的な立場や声が大きく威嚇する者に都合の良いルールが幅を利かせるだろう。
そして、人間が歯車にされていく。
生き生きしたいのちの輝きではなく、お仕着せのあてがわれたポリコレ的な『幸せ』を、うつろな目をして受け取り…?
ぞっとするではないか。


施先生の講義で知った歴史に、希望を見いだす。
普遍から土着へと移行していく流れで近代化は成し遂げられた。一部の特権階級独占から一般庶民が参加し磨いていく活気ある社会へ。
中世ヨーロッパにおいて、土着語の出版物が増加した都市では、人口の増加がみられている。経済成長も著しかったと推察される。

………!
私の頭に浮かんだ希望は、noteだった。
かつて出版には多額の資金が必要で、情報発信は一部の限られた者しかできなかった。
インターネットによって、ブログや掲示板・SNS等で一般庶民も発信が可能になった。そのことを、「バカが発信できるようになった」と揶揄されたり、「落書き」と言われたりもしているけれども。
noteの記事は、質が高く読み応えがある。
フォローしているnoteの執筆者達は、日常毎日会う顔見知りよりもよほど身近に私には感じられる。
中には、プロの物書きレベルの質の高い記事を、何年も毎日投稿しているツワモノもいる。※「レベル」でなく実際のプロの物書きも執筆している。
記事を読み、書き、読まれ、コメントをやり取りし…。さらに磨き磨かれる。


人間は、活路を見出してきた。
これからも、活路を見出だすだろう。
その可能性を、noteに見る。

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