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『親はなくとも子は育つ』という、言葉足らずの諺に思うこと

 「親はなくとも子は育つ」。日本社会でかなり頻繁に多用される諺だ。その使われ方は、濫用に近いものがあると思う。
 親がいなくても。かならずしも、保護育成するのが実の親でないからといって、それだけでその子が育たないというわけではない。実の親が育てたことによって、子が大きな害を被っている事例は多々ある。「親ができることなんて、ほんの僅かなこと」だ、というのも一面の真実であり、「親ができてしまう有害なことは、子どもの一生に大きく影を落とす」というのも一面の真実。
 だが、今の日本社会においてこの諺は濫用され過ぎ、ときに意図的に、ときに救いようがなくイノセントに、誤用されて害をなしている。


 下の子が小学生だった頃、全校生徒の親対象の集会の際に校長が言ったことを思い出す。もう20年になろうとしている。素晴らしい校長だった。人格者で、誰からも慕われていた。
 あのとき校長は言った。

事件があると犯人の生い立ちが報道される。
どれほど、恵まれない子ども時代だったかと。
どれほど寂しい思いをしていた子だったかと。どれほどのいじめを受けていた子だったかと。
しかし、同じような生い立ちでありながら、犯罪を犯さなかった人の方がたくさんいる。その違いはなんなのか。教職にあり、子どもに日常的にかかわる身として、そのことを考えずにはいられない。

と。

 『校長の言葉』は、大きな影響力を持つ。言葉を丁寧に選んで口にする人だった。不用意な言葉を使わない校長だった。今こうやって、記憶を頼りに書き起こしながら思う。下手なマスコミ報道なんかよりもよほど丁寧に言葉を選んでいるではないか。
 同じような生い立ちでありながら、犯罪を犯さない人の方が多い。
 その違いはなんなのか。
 子どもたちにかかわる立場として。

 軽々しく感情的に視聴者の気持ちを刺激するように、加害者被害者の生い立ちや周辺のことを調べ上げてあばき立てるマスコミ報道。マスコミは、大衆の鏡だ。興味の方向を推しはかり、大衆が知りたがりそうなことに当たりをつけて、視覚聴覚に訴えかける。感情のデリケートな部分を刺激する。被害者の親になったらどうしようかと不安がらせ、加害者の親になったらどうしようかと慄かせる。そうなりたくないという気持ちから、大衆は当事者たちと自分との相違点を探して報道に食い入るように向かう。

 そんな中で、「親はなくとも子は育つ」という言葉がどこかでほぼ必ず持ち出される。生育過程の問題ではないのだ。当人が異常人格者なのだ。サイコパスだ、発達障害のせいだ、という文脈のことも多くある。「親はなくとも子は育つ」というではないか、と。
 だれも、安心するために単純な公式をほしがる。

 人間とは、そう単純なものではない。
 親がくっついて面倒をみれば大丈夫というものではない。ほったらかしておいてもいつのまにか都合よく完成形になるという考えも大間違いだ。保育園幼稚園こども園や学校の専門職に任せておけば安心と一律に考えるのも違う。

 複雑系なんだよ人間は。
 複雑系なんだよ人間の社会は。

 ヒトという生き物はともかくとして、人間は、人間の中で育つ。
 育つ過程で、どんな環境にあったかは影響を及ぼす。
 環境のひとつに、人間関係もある。
 人生のどんなときに、どんな人と出逢えたか、それがその人間の人生を劇的に変えることだってある。それが親のこともあれば、他人のこともある。
 子どもが育つ過程において、『親の存在は全てではない』というだけのことだ。
 或いは、立派に成長した子に対して、
「親はなくとも子は育つ」というのは本当だな。自分はたいしたことをしてやれなかった。親がたいしたことをしてやれなかったのに、こんなに立派に成長してくれた」
と、自嘲や謙遜の意を込めて、親が賞賛するときの言葉ならあり得るかなと思う。



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