Rememberゆとり教育
輝くような黄色さんの記事を読み、「同じだ」と感じた。
ゆとり教育のときと同じだ。2002年本格始動だが、そのずっと前から準備されてきた。当時も同じようなことがあった。この社会は何度でも同じようなあやまちを繰り返す。そして反省しない。「あれは過ぎたことだから」「一生懸命やっていた」と、ぬけぬけと正当化する。だから、忘れてはいけない。記録に残しておかなければならない。水に流して忘れては、何度でも同じあやまちが繰り返され、被害を出してしまうから。思い出すことは不快で苦痛だけど、人間は弱く愚かな存在でありその命は有限だから過去の歴史を活かさなければ善くならない。
「あの頃、小学校で先生たちから言われたんだよ。『親は家で勉強させようとするだろうけどきくことないから』って。『先生の言うとおりにしていればいいから』って」。
ゆとり教育と学力低下が結びつけて批判的に語られはじめた頃、ゆとり教育本格始動の2002年に小学校高学年だった上の子が言った。愕然とした。ここまでされていようとは思わなかった。
【親はP会員、教員はT会員。
双方が協力しあって『子どもたちの為』の実現を目指す】
PTAの趣旨だ。毎年4月は役員ぎめが大変だ。役員になると各家庭にとってかなりの負担だが、なってしまえば役員たちはこの設立の理想を信じてまともに取り組む。実は、『P会員』は、ていのいい学校の下働きなのだろう。PTA会報の編集で、ゆとり教育を扱おうとしたら学校から強硬に反対された。ちゃんと調べた客観的な事実も、載せてくれるなと言われた。
下の子が小学校1年生だったある日、「明日は砂遊びの道具を持って来るように」と言われて持って行った。スコップやバケツ、砂ふるいにじょうろ…。
持って行って何に使ったのか? …砂遊びを授業時間にして帰ってきた。
そんなことは家庭や幼稚園でやってきたし、入学後も公園で好きなだけできる。なにも学校の授業時間を使ってする必要などない。
「明日は家にあるいらないペットボトルの2リットル、角形のを持って来なさいって」。
またなの?うちは『いらないペットボトル』だの『いらない箱』だの牛乳パックだのを溜め込んでまみれて暮らしてるわけじゃないんだけど!なにに使うのよ?…工作?『いらないナントカ』っていう割に形状とかサイズとか指定されて欝陶しい。
教員に言ってみた。学校で集めておくか、一括購入後の集金はできませんか?と。「今は購入するのではなくてご家庭にあるいらない廃材をですね…」。あかん、通じなかった。だから家庭は廃材置き場ではないのだが。前の日に言われてペットボトル飲料等をわざわざ買いに行ったことも何度もある。
『教え子を2度と戦場に送らない』。
教員の合言葉だ。今のところ、リアル戦場に教室から送り出してはいないだろうが、さまざまな『戦場』から教え子を守っているとも言えないだろう。
『生きる力を身につける』という合言葉のもとに、ゆとり教育は子どもたちの生きる武器となる知性や思考を身につける機会を大きく奪うことを成し遂げた。そこではっきりと感じたのは、人間性がしっかりした教員・心底子どもたちを大切に愛し大切にしてくれる教員と出会えれば子どもが身につける人間力は相応にあることと、出会えるか出会えないかは運であり賭けだということだった。
上の子が中学生になり、勉強は楽しいと言っていた。私は、塾は行きたい人間が好きで行くところだと思っていた。上の子は小学校高学年の頃から珠算塾には行かせて、本人も楽しんで通っていて3級に合格した。私自身、高校卒業まで塾は必要ない、学校の勉強だけで充分だからと言われていて、実際そのとおりだったし。
そして上の子の中学では最初の定期テストは、7月の期末テストだった。中間テストは、なかった。期末テストの結果は愕然とするものだった。各教科の答案を見て、基本が全然わかっていないことを知った。日々の授業は研究授業のような『見せるため』の、絵や小道具を用いた趣向を凝らしたつくりで、地道に数をこなす計算練習や英単語・連語暗記・文法理解は『自主性に任せる』ものであったようだ。成績上位者のほとんどは、塾で基礎学習を担保していた。夜の時間を使い、家庭でお金を払って自助努力で学力を贖っていたことを知った。今は学校では筆記体の習得もさせないのだ。好きで自分で習得するのは自由ということだが、書き間違えやブロック体筆記体の混ぜ書きは誤回答となるリスクだけを徹底して言い渡されていた。私を含め、親自身が塾に通わなかった家庭の多くは、学校の授業中心に家庭で予復習と補強を各自がすれば大丈夫だと信じていて、期末テスト後愕然としていた。個人懇談では、補習などは…と訊く私に、「勉強が嫌いなんだから仕方がないでしょう」と担任は冷たく言った。塾の夏期講習を申込みに行き、塾の校長の個別面談をしてもらって、「今は『私達』の世代とは違って学校は集団生活を学ぶところだと思った方がいい。勉強は塾に通う必要がある。親が教えるのでは親子関係が壊れるおそれがある」と説明された。「私自身も塾に通わなかったけれども、今は仕方がありません」と、私と同世代の塾校長は言った。
菅義偉前総理殿、今頃貴方に『自助』などと説教されなくても、ずっと前から教育面で言えば公助は空洞化していた。「タダの教育にはタダの価値しかない」という言論人もいたが、考えてみるがよい。国の将来を担う子どもたちの教育だから義務教育が無料のたてつけになっているのだ。それが『タダの価値しかない』のでは国の将来はどうなるのだ。
今、元文部科学省官僚の前川喜平氏を高く評価する人たちがいて信頼を得ているらしいが、前川喜平氏が尊敬し、信頼するという寺脇研氏はゆとり教育の旗振りをした人間だ。自分自身が詰めこみ教育に違和感を持ちつつ詰めこみ教育を受けたからと、他人の子ども達に多大な迷惑を及ぼした。責任は取らないままだ。
「お子さんは、勉強が嫌いなのですか?それとも、勉強のやり方がわかっていないだけですか?」と尋ねられ答えた。「中学生になって、学ぶことのよろこびは感じているようです。それなのに、基礎と、勉強の仕方がわかっていないままなので結果に結び付かずに当惑しています。このままでは苦手意識だけが刷り込まれて、自分がダメな人間だと思い込んで、ほんとうにダメになります」。塾校長の答えは、まずはテストを受けに来させてほしい、本人を見てから引き受けるかどうか判断したい、ということだった。「引き受けるための条件は3つ。①塾だから大前提だが、授業料を払ってもらえなければ引き受けられない。②勉強が嫌いな子はいくら今出来が良くても引き受けられない。③親子ともに、どちらかがでも礼儀知らずならば引き受けられない。この3点で判断する」と。結果的にこの塾に通うことになった。この子がその後国立大学を卒業するに至ったのは、この塾の校長と、それから、小学校5〜6年生のときの担任が子どもたちに全身全霊で精魂込めて大切に接してくれていたおかげだと思う。
中学の授業では、塾に通って既に習っている子たちが授業中ザワザワと騒ぎ、教員は「塾に通ってなくてもちゃんとやってる子はできている」と言うのだが塾に通っている子がどの子か把握していないだけらしかった。塾なしでもできる子は、いたとしてもごく僅か。
驚いたのは、塾に行き始めてわかったこと。小学校教員たちは自分の子を塾に通わせていた。親と子は別人格だし、各家庭の自由だが…、学校教員の子が塾に通うことが仮に非難されるような世間であればもう少し授業の質が上がるような気も…するんだが…。気を衒った見世物のような授業ではなく。
下の子は小学校に入学したときから社会はゆとり教育まっしぐらの雰囲気だった。学年が進むうちになんとなく感じるようになったのは、ゆとり教育開始時に低学年だった子の方がいろいろな意味で幼稚ではないのかということ。たまたま、小学生対象の塾講師と話す機会があり、「もしかして、小学校低学年の時期は、机に向かう・読み書き算盤の練習を繰り返す、という学習習慣を身につける為に重要な時期ではないのかと…」と尋ねてみた。「そのとおりです!」。やはり…。
昔からずっと言われていることに、「親が読書をしているか・親自身が勉強する習慣があるかが子どもの学力に与える影響は、家庭の経済状態よりも大きい」というのがある。しかしそれはどの程度ほんとうだろうか?我が家には本がありすぎるほどで、私は本の虫だが、私が読書する姿を見せるだけで子どもが自然に読書するわけではなかった。私は通信教育で国家資格を取った、当然家で勉強するが、それを見せていれば子どもが自然に勉強するわけではない。
学校で教員たちが子どもに「親は勉強させようとするだろうが聞くことはない」と言われていたことを7〜8年以上経って知った。今また「家の人がどういうかではなく、自分が打ちたいと思うか」と言っている映像を見て、この国の学校教育は子どもと親を分断してどこに連れて行こうとしているのだろうかと思う。
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