見出し画像

11月13日 新型コロナ感染対策と人権シンポジウムに参加して

動画配信URLは以下。直前になって機器トラブルのため、URLが変更されたとのこと。

1. https://youtu.be/FfaAe8t1FZs
2. https://youtu.be/eajyEH0pvZA
3. https://youtu.be/v5-aaBEh3yE

素晴らしいシンポジウム。時の経つのを忘れるとはこのことだった。

そして、参加を決めたときに思っていたこと:新型コロナ感染症は既に社会に存在していた問題点が顕在化するきっかけにすぎない。という思いをあらためて強くした。

〜1人1人が考えて行動する社会へ〜

これこそ、見失うわけにはいかないこと、今こそ立つべき原点。これがないと、必ず今後も何回でも同じことが繰り返されるのが明らか。今回は新興感染症だったけど、次は何か予測はつかない。別の振興感染症かもしれないし、天災かもしれないし、事件か、外交か、食糧やエネルギー資源問題か、公害か、それらが複数組み合わさった複合問題か…、何がやってくるかはわからない。ただ、何らかの試練には直面することと思う。多分それは、予測もしなかった方面から虚をつかれるかたちでやってくるであろう。各自どのような覚悟で生きているのかが、否応なく試され浮き彫りにされるはず。このたびの感染症の収束で終わりではないことを残念ながら私は確信している。なぜなら、私は、今のこの社会に既視感を覚えるから。違いは、今は日本中・世界中だけれども、当時は住んでいた街だけだったこと。

小学生が被害者の殺人事件。痛ましく、考えたくもないことが、実際に起きた…。下校途中に誘拐されたことで、登下校の手段に対策をとの要望が保護者・地域共に強かった。真面目な地域性もあって、班編成での集団に大人たちが付き添わないと登下校ができなくなった。これが今でいうマスクにあたる。しかし、長引けば子どもも親も地域住民も(そしておそらく教員も)疲れるし、強い不安に苛まれるのだ。それは抑えてもなんらかの形をとっていちばん弱い立場の者の身の上に現れる。ひとり親家庭の郵便受けに、協力できずに恩恵を得ようというのかと、手紙が入れられる。登下校時に特定の子どもが仲間はずれにされる。長引けば付き添いが負担になる人たちも出てくる。「あの人はもっと出れるはずだ」との声が出始める。しかしそういうときは微妙な仲間意識や力関係への忖度が働き、『悪く言ってもいい親子』、『悪くいうわけにはいかない親子』が自然とできてくる。マスク警察とか、パチンコ店や飲食店・若者への攻撃に似ている。実際に協力している程度に比例しているとは限らなかった。 地域の住民というだけで、子どもがいなくても無私の心で生活のかなりの時間と労力を割いている人も多かった…けれども………。申し訳ないが、動機と行動が尊くとも、だから全て正しいとするのは単純に過ぎよう。子どもにとっては生活の全てが学びであり成長だ。成長の各過程において、必要なことは変わってくる。保護が必要な時期もあれば、本人の見極めと判断力を磨く時期もある。何でもかんでもまとまりを要求される状況では、臨機応変の判断と行動はむしろ、悪とされることもある。護られているとも言えるけれども、足枷をつけられて拘束され、フットワークを鈍らせられているとも言えた。仮に暴走車が突っ込んで来たら、列を乱さないことが第一に求められている環境では逃げきれないこともあり得る。そのような疑念は、和を乱すものとしてタブーとされ、攻撃された。「とにかく、こう決めたんだ」「できない理由を言い立てるな!どうやったらできるかを前向きに考えろ」「せっかく一生懸命やってくれている人に悪いと思わないのか!」。今も頻繁に発せられるこの言葉があの時も寸分違わず幅をきかせていた。あのころ、晴れた日でも青い空には見えないB29の編成が飛び、聞こえないエンジンのうなりをたて、聞こえない空襲警報が常時鳴り響いていた。隣合った学校区との間に実際には遮蔽物はないのに、透明なカプセルで明らかに覆われて区切られていた。街中が、喪に服しているようだった。子どもたちの暮らしは、供養を第一目的とすることによってのみ存在することを許されているようだった。時折、保護者から出ている要望をまとめたものが通知された。正気かと思わずにいられなかったのはこれ。「名札は危険ではないでしょうか?学年クラス、出席番号を使って例えば、1年1組1番なら1101のようにできないでしょうか?」。…子どもたちは服役囚か?初めて知り合った子を、名前ではなく番号で認識して呼び合うのか?この要望を出した保護者は、今でも自分の発言を覚えているだろうか?今は、幼い時期から、マスクをした大人の顔ばかり見て育つ子の情緒面を心配する声が上がっているのに似ている。非日常な日常下で、子どもたちの学力どころではなかった。子どもたちは、同じ事件にのみ特化したやり方で護られ、全く同じ事件で殺されない為にのみ生きているかのようだった。各家庭に、親が学力担保のための何ができるか…端的に言えば、塾に通わせる余力があるか否かは子どもたちのその後の人生を分けたのではないだろうか。そんな中で迎えた夏休み。子どもを外で遊ばせる為に、私は一緒に外に出て驚いた。保護者などどこにもいない。前の年までの夏休みと全く変わらない光景がそこにはあった。そうか、危険なのは登下校時だけであったか。今で言えば、感染防止の目的で飲食店の営業と酒類提供は20時までとするおふれがこれにあたるか?

シンポジウムで聞いた言葉のひとことひとこと全てが心に沁みる宝だった。署名は今も継続中。この署名活動を通じて全国にネットワークが構築されている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?