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『ニ十世紀』橋本治 ちくま文庫

『二十世紀』上下巻(橋本治/ちくま文庫)は、1900年から2000年までの1年1年について編年体で書かれた、すごい、素敵な本。

  子供の頃の私が、「自分の生きている社会はどっかがへんだ」と思ってい

  て、「どんないきさつで“こんな時代”になったのだろう」ということを、最

  も強く知りたがっていたから(あとがき 下巻335頁)  書いたという。

2019年1月に亡くなった橋本さん、見てますか?あなたが逝ってしまってからたった1年で、『どっかがへんだ』どころじゃなくものすごくへんな社会になりましたよ。 橋本さん、この2年近く、あなたがいてくれたらと何度思ったことか。

1996年を繰り返し読む。

  日本の政治が救済するものは、政界・財界・官界と言われるものと、その周

  辺にたむろする人達だけで、「それをすれば、結果的に日本中が救われるよ

  うになる」と思われていた時代は、とうの昔に終わっていた。(下巻306頁)

…の、次の段落から書かれているのが、薬害エイズ訴訟のことだ。争われていたのは「被告側は、非加熱血液製剤にエイズ・ウイルス感染の危険性があることを承知していたかどうか」。それに関連する資料は見つからないとされていた。それが、菅直人が厚生大臣になって、1996年に「見つかった」。

そうだ、そういうことがあった。ありましたね、橋本さん。私覚えてますよ、とつぶやく。過去に起きたことを記憶して用心することは当たり前の防衛。今は昔とは違うから大丈夫だろうとか、過ぎたことだとか、根拠もなく楽観的すぎる不用心な思い込みはいい大人であれば普通はするもんじゃない。本当にわかっていなかったのとは違って、わかっていたことを隠蔽して誤魔化して他人の苦しみから目をそむけ、嘘をついて(認めたところで被害者の失ったものはた取り返しがつかないけれども、だから知らぬふりを決め込むというのは違うだろう)逃れようとしていたのだからタチが悪すぎる。不誠実な生き方だとわかっていながら故意に悪質な嘘をつくことを辞さないならば、何度でも同じことを繰り返す。悔い改めないままで自然にその悪癖が治癒することはない。そして後日露見したときには、「あのときは仕方がなかった」と言うのだ。仕方がなかったで自己完結されてはたまらない。こう言うと、必ず親切な人が現れる。「そうは言ってもだよ、世の中正論だけで動いているわけじゃないんだ。自分がその立場だったら空気に逆らえたと思うのか?苦しい立場だよ?」と。優しすぎるよ。無関心なまでに優しすぎる。無関心だから優しすぎる。不誠実だから物分かりが良すぎる。もう、いい加減にしたい。この社会はきちんとニ十世紀の総括をしないままニ十一世紀に入り、もう20年あまりが過ぎた。総括をしていないから次のステップに進めていない。私は特定個人を槍玉に上げて人格攻撃をして溜飲を下げたいわけではない。ただ、間違っていることは間違っている。不誠実なことを誠実であるかのように言いつのり、声の大きさで有耶無耶にするのを繰り返すのは、もうやめにしたい。この社会はちっとも成長していない。そんなことを思いながら、『ニ十世紀』を読む。

  書き終わった今、「もう安心してニ十一世紀を生きていけるな」と思いま

  す。それが、ニ十世紀を終えた私の一言です。(あとがき 下巻337頁)

そうなんですね、橋本さん。私はニ十一世紀に入って20年以上過ぎてから、宿題をやらずに二学期を迎えた小学生みたいな自分に気がついたところですよ…。


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