埋まらない「欠乏感」

前回の続き。

この「欠乏感」を自覚し始めたのは、中学3年生の受験を終えた頃からだろう。私は、受験に失敗した。

いや、正確には、土俵に立つ以前に終了した。

推薦合格だったのだ。地元(東京)の公立中学では、成績は上位だったし、塾のクラスも上のクラスで、周囲からも「優等生」の部類には入っていたと思う。

しかしながら、受験期に、高校1年の春から埼玉への引っ越しが決まった。

私は、家族と離れて暮らすなど考えられなかったので、”都立高校入学”という理想は、あっけなく砕けた。親は、周囲の意見とは裏腹、あまり賢くない(と親は思っていた)私を心配してか「ほどほどの大学エスカレーターの高校に入るのが良い」と助言し、私もそれを素直に聞き入れてしまった。

しかし、苦しい現実は、ここから始まった・・・。

仲の良かった友人たちは、難関高校に合格。すごく達成感に満ち溢れていた。私はそこで、「なぜ(一般受験という)努力をしなかったのだろう」と激しく後悔した。「受験」という試練から、私は逃げたのである。埼玉の高校を受けようと思えば、いくらでも受けることは出来ただろう。

それなのに、引っ越しを言い訳に・・・親の言いなりに・・・それを盾に現実から逃げ、楽したから当然の結果だと思った。

ここから、私の心で何かが「欠落」し始めた。

同時に、苦しんで努力することでしか、甘い蜜は吸えないもの(=報酬:楽しい経験・満足)だという刷り込みもされた。

高校・大学は、この穴を埋めるために、常に何かを得ようと必死にだった。高校では、学年1位にもなったし、成績は常に上位10位に入っていた。結局エスカレーターの大学にも行かなかった。チャレンジしたのだ。「欠乏感」を源泉とした「上昇志向」。大学・社会人になっても、止まることをしなかった。

「これを達成したら理想の自分になれる」信じ続け、自分の中にある「欠落した部分」を補おうと、色々とやった。

最近だと、社会人やりながら大学院に2年間通い、論文も書き終えた。

・・・そんなこんなで、やっと気が付いた!

一生埋まらない。

そう、だって、「欠乏感」なんて、幻想のようなものだったのだ。ありのままの自分で良いのに、そのままで無駄に自分を卑下して痛めつけて、叱咤して、そんなことしなくて良かったのに。私はずっと、この心に空いた「穴」のせいで、自分を痛みつけ、悪いことがあったときには「自分のせい」と思い込むようになっていた。自然と、自己肯定感も低くなっていった。「自分」を主張出来なくなっていた。何かが起こると自分のせいだと納得していた。リストカットはしなかったけど、心では同じようなことをしていたのかも。。(これが恋愛にも悪影響を与えていた)


こんな風に、世の中には、ちょっとしたことで「(良くない)思い込み」を抱き、気持ちをすり減らす人が多いのではないか。


でも、私は「私のままでいいんだ。」と思えるようになってきたのである。だから、自分を見つめ直すことで、そうした思い込みもなくせる。

(続く予定)



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