福田村事件を観た

映画「福田村事件」を観た。
観て4日ほど経った。
忘れやすいのでできるだけすぐに感想を記したかったが、どうしても書けなかった。
何度も何度も頭の中でぐるぐると、いろんな考えが回り回っていた。
ようやく何かがまとまりそうなので書き始める。
自分の感想がまだふわふわはっきりしていないけれど、書いているうちになにか掴めれば良いなと思いながら書く。

映画「福田村事件」について

1923年春、澤田智一(井浦新)は教師をしていた日本統治下の京城(現ソウル)を離れ、妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の福田村に帰ってくる。智一は、日本軍が朝鮮で犯した虐殺事件の目撃者であった。しかし、妻の静子にも、その事実を隠していた。その同じころ、行商団一行が関東地方を目指して香川を出発する。9月1日に関東地方を襲った大地震、多くの人々はなす術もなく、流言飛語が飛び交う中で、大混乱に陥る。そして運命の9月6日、行商団の15名は次なる行商の地に向かうために利根川の渡し場に向かう。支配人と渡し守の小さな口論に端を発した行き違いが、興奮した村民の集団心理に火をつけ、阿鼻叫喚のなかで、後に歴史に葬られる大虐殺を引き起こしてしまう。

映画『福田村事件』公式サイト

予告編も見ないまま、あらすじもざっと頭に入れただけの状態で映画館に向かった。
好きな俳優さんが出演されているというだけの理由で観に行ったも同然だった。
関東大震災のとき、混乱しさまざまな根拠のない噂が飛び交い、殺された人々がいるということは日本史の授業で知っていた。知っていたけれど知っていただけだったと気付かされることになった。

感想やら考えたことやら

何から記せばいいのか...頭がぐちゃぐちゃ
時系列がめちゃくちゃになるかもしれません🙇🏻‍♀️

朝鮮人がこんなことをしていた!あんなことをしていた!という噂が飛び交う中、村長が「本当にそれを自分の目で見たのか?」と問うシーンがあった。
問われても、良くないことをしたと気付いたりするわけでもなく、朝鮮人だからしてるでしょうという空気が流れる。
100年前の出来事を画面上で観る立場だから、実際に目撃していないのに広めるのは良くないと簡単に思えてしまうのではないかと思った。
現代にも、真偽不明の情報を広めて不安を煽るような人が多い。
広めている本人は、絶対に正しいと思い込んでいるかもしれない。けれど確固たる根拠はない。
今もなにも変わっていない。
なぜ確実ではない情報でも人は広めたがるのだろうと疑問が湧いた。
自分が初めに情報を得たのだという優越感が欲しいのではないかと考えた。そして自分の大切な人を本気で守りたいがために、その情報をいち早く流し、救おうとしているのではないかと思う。
自分が伝えた情報が事実無根だった場合、それは全くもって救いにならないはずだ。真偽を慎重に確かめることが、大切な人を守るいちばんの手段なのではないかと思った。

朝鮮人と間違われ、殺されてしまう行商人は、部落差別を受けていた人たちだった。だがその中にも、朝鮮人より自分たちが上だ、と差別される立場でありながら差別的な考えを持つ人物がいた。
商人のリーダーは、差別的な考えを持っていないように感じた。差別的な発言をする仲間に注意し、朝鮮アメを買い、もらった扇子をただ暑いからという理由で使用し朝鮮人と間違われてしまう。
部落差別を同じように受けているはずだが考え方がまるで違っていた。差別を受けながら自らも気付かぬうちに差別してしまう。差別を受けたからこそ、差別に立ち向かうことができる。この違いがどこで生まれるのか。ほんの1°ほどの考え方の違いから生じているのではないかと思う。

そして行商人のリーダーが殺される前の最後の言葉
「朝鮮人だったら殺してもいいのか?」
この言葉を聞くことができてよかったと心の底から感じた。観ている間、ずっとこのセリフと同じことを思っていた。日本人だったら大変なことだと言うけれど、どこの国の人だろうと人が人を正当な理由なく殺すなんて良いわけないだろうとずっと感じていた。このセリフが聞けたとき正直安心した。
正当な理由なく殺すなんて良くない、と書いたが当時の人たちは朝鮮人を殺すことに正当な理由があると感じていたのではないかと思えてきた。
自分たちの身を守るために、自分たちが生きるために、自分たちの幸せを脅かす存在は排除しなければいけないという考えが染み付いていたのではないかと思う。
朝鮮人にだって日本人にだって良い人も悪い人もいる。当たり前のことに思うし、現代の人なら大半はこれに納得するのではないかと思う。けれど心の底から納得しているか、本当に何か起きた際、冷静に判断できるのか。改めて根底にある意識から自分の地盤を見つめ直したくなった。

日本人を殺してしまったと気づいた自警団が、こんなことしたくなかった...今更だ(ニュアンスでしか覚えていないです)と嘆くシーンがあった。
日本人を殺してしまったことに対する思いなのか、これまで人を殺してしまってきたことに対する言葉なのか。後者であって欲しいと強く願ってしまう。

みんな名前がある。最後のこのセリフを聞いて、中盤で殺されてしまった朝鮮人の女性のことを思った。間違われて殺された商人たちにも一人一人名前がある。朝鮮人にだって一人一人名前がある。名前を叫んでいた。自分の名前を誇りを持って叫んでいるように見えた。自警団にも一人一人名前がある。みんな人間だ。考え方が1ミリずれ、また1ミリずれ、その1ミリが積み重なって考え方が凝り固まってしまったとき、悲劇しか生まれないのではないかと思う。
みんな人間だ。人間じゃないと言い聞かせようとも人間の形をしている。一人一人に名前があること、この意識を絶対に忘れたくない。すれ違う知らない人にも、匿名のSNSの先にも一人一人名前があって人間の形をしている。


10代でこの映画を観ることができて良かったと個人的に感じる。
観る前の自分となにか少しでも変化がある気がする。

とても素晴らしい映画体験でした!

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