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写真の上手さは人生経験の濃度と関係があるのではないか。

こんにちは。万城目瞬<@0q_xney>です。
フリーランスでエンジニアやフォトグラファー、オンラインサロン「DopeZine」の運営をしていたりしています。

写真というものを考えてみたときに、やはり人生経験の多さに比例するのではないかという仮定を思いついたので書いてみます。

技術的に巧みな写真というのは誰でも撮れるし、カメラとしての性能が発揮された今時代においては特筆すべきものではない。
では写真の上手さや、奥深さとはなんなのか。それは撮り手の人生経験や思慮深さにある程度影響を受けると解釈できる。経験の少ない人は浅い写真になるし、多い人は深い写真にはなる。
ここでいう経験というのは写真だけの経験ではなく、人生そのもので何を成し遂げてきたかではないだろうか。

ビジネスとしての写真では第一に技術が求められる。アーティスト、表現者と言われる人たちの発想はいきなりぽっと湧いて出たものは少ない。粗方自分が経験したきた現実や知識の点と点がつながって出来ているものであると考えられる。

今時代では凡人の発想におけるオリジナリティといえるものはほぼ存在しておらず、その多くは古典からの転用や日本にないものを日本に馴染むようにアレンジされたものが多い。そうなると0から何かを生み出すというものはほぼ無いと言える。特に写真においていえば存在しているものの時や光の反射を記録するモノであるから、多くの場合0→1を生み出す作業というよりも1→2を進める作業が得意なのだろう。

そうなるとまず基となる経験豊富な人のほうが「上手い、奥深い」写真を撮れる。写真を上手くなるには経験が大事、それも写真以外の多種多様な「1」を経験して、それを写真に応用するような手法が面白いのでないかと考えてみる。

写真表現に限らず自己表現をするアートといえるものには正解なんてものは存在しないと思っているし存在しないほうが良い。昨今SNSではいいね数やRT数が多い投稿の写真が良いものだ思われがちだ。

SNSのいいね数を稼ぐことは学校で言うテストで点数を取ることによく似ている。本来学習する内容を理解出来ているかにフォーカスすべきのところがテストの点数を取ることが目的となっているところだ。これに私は実に日本教育らしさを感じている。それほど数字をありがたがる人は多い。

学生のころはテストの数字を追い求めてきて、社会人になるといきなり数字の基準がなくなるため、お金やSNSのいいね数に無理やり意味づけをしているだとも考えられる。

本当に自分が意味が見出すべきなのはどこなのかは経験を通して感じて、考えていくしかないのだと思う。写真に関しては絵画や音楽とは違いまだまだ歴史の浅いジャンルであるし、簡単に誰にでも撮れる。だからこそ写真表現に意味付けするのは難しいし意味付けすることすら意味のないことかもしれない。

ただ写真”表現”の上手さは人生経験の濃度と関係があると思っているので、挑戦と失敗を繰り返した先の自分っぽい何かを醸し出して行くほかないらしい。

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