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ペーパーバックを読む #14

 以前にも書いたように、私がいままでに読んできたペーパーバックの大半はアメリカやイギリスのミステリ小説だった。ブッカー賞というのはイギリスで最も権威のある文学賞で、アメリカを除く(現在はアメリカ人の作品も含まれる)、世界各国の英語で書かれた小説を選考対象にしているのだが、その受賞作を習慣的に私が読むようになったのは何がきっかけだったんだろう。そんなことが気になって、昔の日記を少し調べてみた。見当としては、カズオ・イシグロが1989年にブッカー賞を受賞した"The Remains of the Day"「日の名残り」を読んだことがきっかけだったろうと思っていた。それから、以後の受賞作だけではなく、過去の受賞作にも遡って読むようになったのだと。どうやら違ったようだ。私が"The Remains of the Day"を原文で読んだのは1994年だった。これは、その前年にこの小説が映画化された影響が大きいと考えられる。たぶん私は、その映画に感動して、原作を読む気になったのだ。しかも、私がブッカー賞受賞作を読んだのは、カズオ・イシグロ作品が最初ではなかった。アニタ・ブルックナーの1984年の受賞作 "Hotel du lac"「秋のホテル」が最初だったのだ。これは、 1990年に読んでいる。

 どうしてこんな事を書いているかというと、今回の主題であるマーガレット・アトウッドを読むきっかけになったのが、まさに、ブッカー賞だったからだ。私は、彼女の作品をまだ3作しか読んでいないが、そのうちの2作がブッカー賞の受賞作である。最初に読んだのが、2000年のブッカー賞受賞作、"The BLIND ASSASSIN"「昏き目の暗殺者」だった。私は、受賞直後の2001年にこの小説を読んでいる。当時の日記によると、ほとんど一ヶ月もかかって読んでいる。でも、読後感想の記述は簡単だ。「ブッカー賞受賞の傑作。この作者の作品を読むのは初めてだ。カナダの女流作家で60歳ぐらいの女性だ。詩人でもあるそうで、素晴らしい文章を書く。この小説は構成も見事で、ストーリーテラーとしての才能も大したものだ。小説の中の小説として、SFが出てくるのだが、それがまた楽しい。とにかく大変な才能だ。」それだけ。これを読むと、当時も私は、アトウッドをSF作家としては認識していなかったようだ。しかし、アトウッドは、1987年に、SF作家に与えられる、アーサー・C・クラーク賞を受賞しているのだ。今でもSF海外文学のオールタイムベストテンに数えられる名作「闇の左手」や「ゲド戦記」の作者である、アーシュラ・K・ル=グインと同列に考えても、両者にとって、決して失礼にはあたらない存在だった。しかし私は、その後、今年になるまで、アトウッドの他の小説を読む事はなかった。

 Margaret Atwood (マーガレット・アトウッド)は、1939年11月生まれのカナダ人で、現在、81歳である。カナダだけではなく、現代の世界文学を代表する女性作家の一人で、ノーベル文学賞の候補でもあった。ある英語で書かれた作家紹介の文章で、「カナダ人、フェミニスト、陰鬱な作風。これだけ要素が揃うと、普通は読者の数が限定されるものだが、アトウッドは世界中に数多くの熱心な読者を持っている。」というようなことが書いてあった。どうやら、英語圏の読者にとっても、カナダ人であることはハンデなのらしい。いや、ハンデなのは、カナダ人ではなく、フェミニストの方かな?実は、私もフェミニストは苦手です、なんて書いたら批判されるかな。取り消し。私は、一部の攻撃的なフェミニストは苦手だが、フェミニズム思想そのものには賛成です。人類の半分は女性ですからね。国会や地方議員や企業の役員などの半数は女性にすべきだと本気で思います。話を戻す。私が、長年離れていたアトウッドの作品を再び読むことになったのは何故か。それは、彼女が、再び、ブッカー賞を受賞したからだった。彼女が二度目のブッカー賞を受賞した作品は、2019年度受賞の"The Testaments"「誓願」だった。kindle版が出たので、さっそく読もうと思ったのだが、この作品が、彼女が1985年に発表して高い評価を得た小説、"The Handmaid's Tale"「侍女の物語」の続編であることがわかったので、まずは先月、未読だった "The Handmaid's Tale"を読み、今月になって、"The Testaments" を読んだというわけである。

 まずは、"The Handmaid's Tale"。これはやはり、ディストピア小説と呼んでもいいのだろう。宗教的カルト国家と化した未来のアメリカが舞台の陰鬱な物語である。語り手はHandmaidにされた女性。日本版では侍女と訳されているが、Handmaidとは、放射能の影響なのか、健康な子供が生まれにくくなった世界で、受胎能力があると見なされた身分の低い女性が強制的に任命される、2号さんのような存在である。まさに子供を産む機械で、人権などはない。人権がないのはHandmaidだけではなく、この国ではコマンダーと呼ばれる支配階級以外は全てがそうなのだが。この救いのない物語の白眉というか、もっとも印象に残るシーンは、主人公の Handmaidと、自らが仕える主人とのベッドシーンだろう。これは受胎のためだけの儀式だから、両者に心の交流などはあってはならない。だからHandmaidは、本来の妻である女性の肉体の上に横たわる姿勢で、主人を受け入れるのである。まことに異様な寝室の光景だった。しかし、このカルト国家の支配階級の一員である主人は、この知的な Handmaidに密かに私的な関心を持っていた。そして、妻に隠れて、彼女とさまざまな交流を図る事になる。実は、この主人には生殖能力がない。そして、それを知っている妻は、 Handmaidに対し、密かに、他の、身分は低いが健康な男性との間で子供を作ることを命じる。あまり詳細に書くと、これからこの小説を読む人の邪魔になるから、これくらいにするが、私が違和感を覚えたのは、この優れた未来小説には、登場する必要は全くないのに、日本人が登場することである。それも二度も。一度は、 Handmaidが二人1組で買い物に出かけた際に、日本人の観光客の一団と遭遇する場面。もう一つは、 Handmaidがコマンダーに誘われて、秘密の歓楽場を訪れた際に、やはりその場に日本人がいたこと。どうしてアトウッドは、この小説に必然性のない日本人を登場させたのだろう。その理由が分からない。彼女の身近に日本人スタッフがいたのだろうか。

 次は、"The Testaments"。先ほど書いたように、アトウッドが、35年の歳月を隔てて書いた、"The Handmaid's Tale"の続編である。どうして、彼女は続編を書く気になったのか。それは分からないが、"The Handmaid's Tale"は映画化され、最近ではテレビドラマのシリーズにもなって、アメリカやカナダではとても人気の作品であるようだ。たぶん、そんな熱心なファンの、続編を待望する声に応えたのだろうと思う。そして、この続編は、まことに見事な作品になった。詳しく中身に触れることは避けるが、この続編のテーマは、このカルト宗教国家(ギリアデ)を破壊するために身を捧げた女性たちの物語である。その女性たちの中には、あの"The Handmaid's Tale"の語り手の女性の娘たちがいた。あの小説のラストシーンでは曖昧に書かれていたが、その Handmaidは無事に隣国カナダに脱出し、その後、隣国の不幸な女性たちを救出し、カルト国家を転覆するための地下組織の一員として活動していたのだ。そして、彼女が Handmaid'になる前に産んだ二人の女の子が、この続編の主人公として活躍するのである。しかし、この国家転覆活動の基本となるプランを構想したのは、まさにギリアデの権力の中枢にいた一人の女性だった。この女性こそが、この小説の真の主人公である。ここまで書くとネタバレかな。いや、そんなことで、この小説の面白さは減じることはないと思う。フェミニズム小説などというレッテルとも無縁の傑作だ。


 

 

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