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韓国の旅 #15

対馬から釜山へ 2014年

 過去3回の釜山行きは、博多港からの高速艇「ビートル」、同じく博多港からのフェリー「ニューかめりあ」、下関からの関釜フェリー「はまゆう」と、乗る船は違っても、いずれも海路によるものだった。その航路の途中に見える対馬の長大な島影を見る度に、いずれは対馬に行きたいものだとずっと思っていた。2014年にその願いが叶った。釜山へ行く途中に、対馬へ寄ることにしたのである。家内は30数年ぶり二度目、私は初めての対馬だった。わずか一泊の短い滞在時間だったし、行ったのは厳原市内だけだったのだが、旅の印象は、釜山よりも対馬の方がずっと強かった。この文章のタイトルは「韓国の旅」ではあるが、対馬(厳原)についても、今回の釜山の旅の序章として、以下に触れておくことにする。

 博多埠頭から、九州郵船のジェットホイル「ヴィーナス2」に乗船して、対馬を目指した。「ヴィーナス2」は、2階建ての水中翼船で、定員は257名、速力は約40ノット(約時速80キロ)の船だ。厳原港直行ではなく、途中で、壱岐の芦辺港に寄った。ここで数名が下船した。博多埠頭の出港が、午後3時45分。芦辺港へ着いたのは4時55分。そして、午後6時に対馬の厳原港に着いた時には、あたりはもう暗くなっていた。この夜の宿舎である「ホテル対馬」に電話すると、タクシーが迎えに来てくれた。どうしてタクシーがと思ったが、疑問はホテルに着いてすぐに解けた。このホテルはタクシー会社も経営していたのだ。最上階の7階の部屋を割り当てられた。部屋の扉に「スイートルーム」と書いてあった。たしかに、かなり広い部屋だったが、設備はいかにも田舎のホテルといったものだった。特に浴室が変わっていた。家族そろって入れるくらい広いのだが、浴槽の位置が異常に高くて、一段上がってから更に大きく足をあげないと、浴槽に入れなかった。二階の食堂に降りて夕食を食べた。料理は、野菜や魚の陶板焼き。対馬の名物なんだろうか。それなりに美味しく食べた。料理と一緒に、「対馬やまねこ」という名前の焼酎をロックで飲んだが、とても飲みやすい、おいしい焼酎だった。

 夕食後、夜の厳原の町を散策してみることにした。行ったのは、部屋の窓から見えた大きな白い建物、(たぶん、厳原で最も立派な建物)「対馬市交流センター」だった。イベントホール、図書館、会議室などがある公共の施設のようだったが、一階にはスーパーや飲食店もあった。スーパーに入って驚いた。いや、噂に聞いていた通りだから、別に驚きはしなかったのだが、商品の表示が全て、日本語とハングル文字なのだ。韓国からの観光客のためである事は明らかだった。どうやら、対馬の経済は韓国からの観光客によって成り立っているようだ。その事は、翌日になって、更に思い知ることになった。

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 翌朝、ホテルで朝食を食べたあと、市内散策に出た。まず向かったのは、昨晩の「対馬市交流センター」。その交流センターの裏に、観光バスが何台も停まっている広場があった。どうやら、韓国人の団体が何組も来ているようだ。彼らの向かった場所こそ、私が行きたかった、長崎県立「対馬歴史民俗資料館」だった。ここには、江戸時代、釜山の倭館を拠点にして、日本と李氏朝鮮間の外交を一手に担当した、対馬の宗家の膨大な文書が保管されているのだ。私がかねてから興味を持っている、朝鮮通信使に関する資料も展示されているはずだった。入館料は無料だった。やっぱり無料は無料だ。宗家の文書「毎日記」の一部や、釜山倭館の絵図などが展示されていたが、その量も質も、まったく期待したものではなかった。(展示物には、ハングルでの説明文はついていなかった。)私たちは、館内をざっと一巡した後、館の近くにあった、朝鮮通信使の記念碑や、対馬藩の儒者であり通訳、外交官でもあった雨森芳州の顕彰碑などの写真を撮ってから、資料館を後にした。

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 館を出た後、私たちは、韓国人の団体の後をついて行った。行ったのは、「金石城跡」だった。宗家の城跡だ。復元された櫓門をくぐると、中は公園になっていた。韓国人たちの観光客が目指していたのは、その一角にある、ひとつの古ぼけた石の記念碑だった。「李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑」と彫られていた。明治になって、朝鮮を植民地にした日本は、「内鮮一体化」政策をすすめるために、日本の貴族と朝鮮王族の政略結婚を積極的に図るが、高宗の娘だった徳恵が、対馬の宗武志に嫁いだのも、そのひとつだった。この二人は本当に愛し合ったようで、娘も誕生したそうだが、ホームシックからか、精神を病んだ徳恵は、結局は離婚して韓国へ帰ったという。その彼女を最後まで見守ったのは、同じように韓国の皇太子と結婚し、李方子として、晩年までソウルで日韓交流につくした、梨本宮方子さんだった。(というような事は、今回の旅の後にネットで調べて知ったことなので、不正確かもしれない。)こういう事実は、現在の日本人にはほとんど知られていないが、韓国では有名な史実なのかもしれない。(2020年の註:2017年に日本で公開された韓国映画「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」は、あのソン・イェジンが主演していて話題になったが、内容はほとんどフィクションだった。史実とはほど遠い。なにしろ、徳恵翁主を抗日運動のヒロインに仕立て上げているんだから。でも、やっぱり、ソン・イェジンは魅力的でした。)

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 「旧金石城庭園」は、ながらく埋もれていたのを発掘復元した新しい庭園だが、庭園の奥から、宗家の菩提寺である「万松院」へ通じる門があった。でも、そこは閉まっていて通ることができなかったので、私たちは、元の櫓門まで戻って、遠回りして「万松院」へ向かった。ここも有料だから、庭園と同じように、韓国人観光客はいないと思っていたら、本堂に上がって、なにやら韓国語で講義を聞いている、学生のような集団がいた。私たちは、本堂の見学は後回しにして、宗家代々の墓所の探索に向かった。解説によると、ここは、日本三大墓地のひとつなのだそうだ。後の二つは、加賀の前田家と長州の毛利家。確かに、長い石段を上がって辿り着いた墓地は、巨大な墓石群が林立する立派な墓所だった。残念ながら、宗家の代々の殿様につての知識がないので、何の感慨も湧いてこなかった。でも、対馬の宗家は、日本と朝鮮の間に立って、代々、藩の経営に苦心してきたに違いない。ご苦労なことであった。後で行った本堂には、朝鮮王からの贈りものが飾られ、徳川将軍家代々の立派な位牌もあった。なにやら、江戸時代における、宗家の微妙な立場を象徴しているようだ。

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 「万松院」からの帰りに、「八幡宮神社」という所へ行った。他に行くところがなかったからだ。驚いたことに、ここにも韓国からの観光客のグループがいた。みんな登山服姿である。彼らは、朝早くから近くの山をハイキングしてきたのだ。それはそうと、この神社は、風情はあるけれども、ごくありふれた神社のように見えた。とても観光名所とは思えない。でも、この境内で、興味深い掲示板を発見した。「今宮若宮神社」という、石垣の上の小さな祠の前だ。その神社の祭神は小西マリアだったのだ。対馬藩の初代藩主になったのは、宗家としては19代目の、宗義智だった。彼の妻が、キリシタン大名の小西行長の娘だったのである。洗礼名をマリアという。宗義智と小西行長は、共に、秀吉の朝鮮出兵の先陣として戦った仲だが、関ヶ原の戦いで敗者となった行長は処刑され、キリシタンだった妻マリアを、義智は離縁せざるを得なかった。マリアは長崎で死んだという。だから、「万松院」の宗家の墓地には、マリアの墓はない。それにしても、キリシタンの女性を神社に祀るって、どういう神経なんだろう。いかにも日本らしいけれど。

 腹が減ったので、ホテルの前の川沿いの道に戻り、たまたま見つけた店で昼食をとった。店の名前をメモするのを忘れたが、家族経営の小さい店だった。揚げたてのかき揚げが美味だった。その店から、川向かいにある土産物屋が見えた。韓国人観光客のグループがいた。さて、釜山行きのフェリーの出発時間までの2、3時間をどう過ごすか。主な観光地は回ってしまったし。そこで、観光案内所でもらった印刷物が役に立った。その一枚に、簡単な観光地図が印刷されていたのだ。とりあえず、「半井桃水館」というのと、雨森芳州の墓のある「長寿院」へ行ってみようと決めた。これが、大正解。「半井桃水館」は、かつての武家屋敷町の中にあった。石積み塀が連なる風情ある一画にある、桃水の生家跡にNPOが建てた、とても立派な木造の建物だ。厳原の町おこしの起点として、美術ギャラリーや集会所としても活用されているようだ。ここで、素晴らしい女性に出会った。私たちに展示物の案内をしてくれた方だが、なんとも迂闊なことに、お名前を聞くのを忘れた。対馬の島外から来られた方のようだ。町おこしには「若者・余所者・馬鹿者」の力が必要だとはよく言われることだが、彼女もまた「よそ者」の一人だった。地元の人間が、地元の価値をよく知らないと言うことは、どこにでもあることだ。厳原を中心とする対馬の魅力を広く内外に発信する事業は、既に、始まっているようだ。彼女を見て、私はちょっと安心した。「対馬が韓国人に占領される」などと、煽情的に書き立てる人間はいても、真に対馬の現状や将来を考えている人は、いないのではないかと心配していたからだ。

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 話が進みすぎた。まずは、半井桃水(なからい とうすい)について説明しなければ。樋口一葉の読者には、いまさら説明の要がないが、彼は、一葉の小説の師であり憧れの人でもあった、小説家兼新聞記者だった。旅行に行く前に読んだばかりだった、ドナルド・キーン「百代の過客<続>」には、一葉の日記も採り上げられている。キーンさんはこう書いている。『半井桃水への愛について述べた一葉の記述は、一葉日記のうちで、おそらく一番よく知られた箇所だろう。もし彼女が桃水に会うこともなく、また彼のことを、あれほど生き生きと日記に描き出すことがなかったとしたら、この桃水という作家は、今日世間から、完全に忘れ去られていたにちがいない。』とても厳しい指摘だが、間違いではない。では、一葉は、桃水のことをどう描いていたのだろうか。同じ本に引用がある。『色いと良く面おだやかに少し笑み給へるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へばまことに見上る様になん。』要するに、背の高いイケメンだったんですね。一葉さんは面食いだったようだ。

 「半井桃水館」には、対馬出身で大関にまで出世した力士の等身大の写真が飾ってあった。190センチを越える大男だ。対馬の人には、大陸の血が混じっているのかもしれない。大柄な人が多いそうだ。桃水もそんな人だったのだろう。その桃水が対馬の出身だったとは、ここに来て初めて知った事実だった。館の女性の説明によると、桃水の父親は、釜山の倭館で医者をしていたそうで、桃水自身も釜山暮らしの経験があるということだった。当時は朝鮮の人と漢文でやり取りが出来たのだろうが、ハングルも読めたかもしれない。だから、日本と朝鮮の関係に、とても関心があったという。彼女は、桃水は明治時代の雨森芳州になりえた人だったかもしれないと言った。そんな切口から、今後、新しい桃水像が描けるかもしれない。

 この館で、もうひとつ、嬉しいものを見つけた。辻原登「韃靼の馬」の新聞連載時の切抜き帳だ。この小説の主人公は、釜山の倭館に勤務し、朝鮮通信使の一行に同行して江戸まで行った対馬藩士だった。小説には雨森芳州も登場する。彼女は、松山市が「坂の上の雲」で町おこしをしているように、厳原も「韃靼の馬」で町おこしが出来ないものかと考えたそうだが、残念なことに、対馬の偉い人達は、この小説を読んだことがなかったそうだ。NHKがドラマに採り上げてくれたらなあと、言っていた。なお、彼女は、対馬で偶然知り合った、町おこしの大先輩でもある作家の森まゆみさんと一緒に釜山へ旅して、垢擦りもしたんですよと笑っていた。彼女のような人がいれば、厳原、いや対馬の将来は明るいだろうと希望を持った。やっぱり、名前を聞いておくんだった。

 「半井桃水館」を出た私たちは、素晴らしい石積みの塀が続く、旧武家屋敷街を抜けて、雨森芳州の墓がある「長寿院」をめざした。「長寿院」の門や石積塀は取り壊わされて修復再建工事中だったが、私たちは中に入ることができた。芳州の墓は、本堂の裏の山の上にあった。まるで京都の蕪村の墓みたいだなと思いながら、私たちはちょっとしたハイキング気分を味わった。芳州の墓は、ちゃんと管理されていて、墓前にはお供えもあった。私たちは、ずっと昔のことだが、滋賀県にある芳州の出身地の村落に行ったことがある。対馬藩に仕えてから、芳州は一度も故郷に帰らなかったそうだが、今でも故郷の人達は、芳州のことを慕っているようだった。日本と朝鮮の友好のために生涯を捧げた雨森芳州。今こそ、現代の芳州の出現が待たれていると思いながら、墓前で手を合わせた。その後、ホテルに戻って、預けてあった旅行バッグを受取り、ホテル経営のタクシーで港まで送ってもらった私たちは、3時半発の高速船KOBEEで、釜山に向けて出発した。私たち以外の乗客は、ほとんどが、対馬観光を終えて、土産をたくさん持った韓国人達だった。

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 市役所の観光案内所でもらった資料の中に「対馬歴史観光ガイドブック」があった。その冒頭で、司馬さんの「街道をゆく」が紹介されていた。なんとも迂闊だった。司馬さんが対馬紀行を書いていたことを忘れていたのである。この本も読んでいたのに。というわけで、旅行から戻ってから、さっそく再読した。司馬さんが、対馬を訪れたのは1977年だというから、もう40年以上前である。この「街道をゆく」の旅には、作家の金達寿さんと、考古学者の李進熙さんが同行していたのも、今となっては懐かしい気がする。在日作家の金達寿さんは、今では忘れられてしまったようだが、かつては、「日本の中の朝鮮文化」シリーズで有名だった。考古学者の李さんは、朝鮮通信使の研究でも知られていた。私が朝鮮通信使に興味を持つようになったのも、李さんの著書がきっかけだったかもしれない。当時、対馬の北の果てまで行かれた司馬さん一行は、厳原にはわずかしか滞在しなかったようだが、雨森芳州については、一章を割いて、詳しく紹介している。ひょっとして、私が雨森芳州の名前を知ったのは、この司馬さんの文章がきっかけだったのかもしれない。

 この本で、司馬さんはこんなことも書いている。「壱岐は富国だが、対馬は貧国で、海国というより山国である対馬は稲作に適さず、江戸時代、朝鮮から米の配給を受けていた。倭寇になられるより、その方がましだと李氏朝鮮政府は考えたのだろう。対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたのだ。」かつて、李承晩大統領が対馬を韓国領だと言ったのは、この歴史的事実があるからだろうとも司馬さんは書いていた。現在、対馬の経済が韓国人の観光客に大きく依存している事は、江戸時代以前の昔から、ちっとも変わっていなかったのだと知って、とても面白かった。なお、宗という藩主の姓は、もともとは惟宗だったのを、中国・朝鮮風に宗に改めたのだということも、この本に書いてあった。さすがに司馬さんの本は知識の宝庫だ。でも、その司馬さんも、半井桃水が対馬の人だということまでは知らなかっただろう。いや、司馬さんのことだから、ご存知だったかな?


 厳原港を出港したKOBEEは、午後5時半に釜山港に着いた。家内はもっと来ているが、私にとっては5回目、ほぼ一年ぶりの釜山だった。正直、こんなに釜山に来ることになるとは想像していなかった。海と山に囲まれた釜山は魅力的な街ではあるが、特に世界でここにしかない何かがあるわけでもない。ほんと、どうしてなんだろう。まあ、日本人である私達にとっては、一番気軽に行けて、非日常感を味わえる外国の都市ということなんだろうか。飛行機に乗る必要もないしね。それに、ハングルを習っている家内にとっては、実際に韓国語を使う機会が貴重でもあった。

 今回の釜山は二泊の予定だった。入国手続きを終えて、国際フェリーターミナルを出た私たちは、シャトルバスに乗って釜山駅へ向かった。今回の宿泊先は、「東横イン釜山駅店」。以前も泊まったことのあるホテルで、本当に釜山駅のすぐ横にある、便利なホテルだ。安いし、日本と同じ方式だから安心だ。もう暗くなっていたので、ホテルの部屋に荷物を置いた私たちは、駅構内のなじみのピビンパ店で、簡単に夕食を済ませて、早めに寝ることにした。釜山観光は明日から。

 翌朝、ホテルで朝食を済ませた私たちは、釜山博物館へ向かった。当初の予定では、海雲台かセンタムシティに行ってから、私の希望である「釜山博物館」へ行くつもりだったが、さて出かけようという時に、気が変わった。どちらへも何度も行っているし、遠いし面倒だから、いきなり「釜山博物館」へ行くことにしたのだ。対馬観光で満足してしまっていたのかもしれない。厳原は、半分くらい韓国みたいだったから。韓国人や韓国語があふれていたし。

 釜山博物館は初めてではなかった。初めての韓国旅行で釜山を訪れた時に、ガイド付きで30分くらい見物したことがある。でも、それは20年も前のことだった。その時に何を見たのか、もう記憶がなかった。今回は、朝鮮通信使関連の展示を見たいと思ったのだ。釜山博物館は、地下鉄2号線の大淵駅から歩いて10分のところにあった。近くには、朝鮮戦争で命を落とした国連軍兵士の墓地がある。ここも、最初の釜山旅行の時に、ガイドの案内で見物したことがあった。

 釜山博物館には新館ができていた。本館の裏手に同じデザインの建物があって、ふたつは回廊でつながれていた。その分、展示スペースに余裕ができたんだろう。展示技術も向上していて、充実した展示だった。しかも、入館料は無料。同じ無料でも、韓国の無料は価値がある。期待していた日韓関係の資料は新館の方に展示されていて、朝鮮通信使の歴史が詳しく紹介されていた。さすがに、対馬藩の倭館があった釜山だ。ソウルの中央博物館とは比較にならない充実ぶりだった。こういう展示を、韓国の人達はどういう気持ちで見ているんだろう。釜山と姉妹都市の関係にある大阪では、かつて、大阪歴史博物館で朝鮮通信使の展覧会が開かれたことがあるのだが、常設展示してもらいたいものだと思う。なお、博物館には、小学生などの団体がたくさん来ていた。

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 博物館を出て駅に向かう途中で、ちょっとした出来事があった。韓国人の若い男性に道を聞かれたのだ。家内と私は、ほぼ同時に韓国語で答えた。「イッチョグロ・カセヨ。」こっちですよ。答えてから、二人で顔を見合わせた。まるで、自分たちが韓国人になったみたいだった。そんな事があった後、西面に着いた私たちは、デジクッパ通りを目指した。サラリーマンたちが昼食に出てくる前に昼食を食べてしまおうというわけだった。人気店が並ぶ通りの中で、今回入ったのは、「名家」という名の店だった。この店のデジクッパも美味だった。まあ、この料理は自分でスープに味付けして食べるので、もともと淡泊だから、店によって味に差が出ないのかもしれない。使っている材料が勝負かな。さすがに、豚肉も良い物を使っているようだった。

 食後、腹ごなしに西面にある教保文庫へ行った。家内はハングルの勉強のための絵本、私は、かねてから興味のある、チョン・ヤギョンの伝記本を探しに行ったのだが、どちらも、適当なものが見つからなかった。やはり、センタムシティにある、大きな教保文庫に行った方が良かったようだ。でも、ここで、朝鮮通信使を扱った本を見つけて、買ってきた。まあ、今の私の韓国語の能力では、いつ読めるようになるかわからないが、辞書をひきつつ、少しずつ読む事にしよう。(2020年の註:この釜山で買ってきた朝鮮通信使の本は、仲尾宏さんの著書、岩波新書の「朝鮮通信使」の韓国語訳であることが帰国後にわかった。しかも、私はすでに、この仲尾さんの本を読んでいた。というわけで、この韓国語の本はほとんど読んでいない。)

 いったんホテルに戻って休憩してから、再び、夕方にホテルを出て、観光客にとっては釜山随一の繁華街である、南浦洞へ向かった。釜山は、ソウル以上に、地下鉄での移動が便利な街だ。それに、釜山駅から南浦洞はすぐ近くだった。また、このあたりは、かつて対馬藩の倭館があった場所であり、植民地時代においても、日本人が最も多く住んだ町だった。映画館などの近代的な娯楽は、この地域から韓国中に広まったのだ。大阪で言えば、道頓堀を含めたミナミというところだろうか。ここで、早めに夕食を食べることにした。行ったのは、以前にも行ったことのある有名店「ケミチプ」。ここで、釜山名物「海鮮鍋」を食べた。相変わらずの潮の香りのする風味だった。最後は、ご飯を入れてもらって雑炊を食べた。糖尿病の私は、ほんの少しだけだったが、とてもおいしかった。

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 夜の華やかな灯りが入って、観光客や街の人々で賑わうBIFF広場や国際市場あたりを散策した後、新しくできた、ロッテマートに行った。昨年、釜山を訪れた時にはまだ鉄骨だけだった建物が、立派に完成していた。残すは、円形の高層ホテルだけになった。(当時、円形高層ホテルの建設が予定されていた。)他人事ながら、ロッテ財閥はこんなに大規模な投資をあちこちでしていて、経営は大丈夫なのかと心配するが、余計なお世話でしょうね。ロッテマートの上階には、シネマなども入っているようだが、今回、私たちは、新しいビル自体の内部の見学はせず、向かったのは屋上だった。

 これまでも、ロッテデパートの屋上は、無料で釜山市街の展望を楽しめる場所として、私たちの好きなスポットだったのだが、今回、建物が二倍になって、展望スペースも倍に拡がった。実に見事な景観だ。大阪の、あべのハルカスのような高層ではないが、眼下に港を見下ろす、ここからの眺望は、実に素晴らしいものだった。これから釜山を訪れる観光客の名所になるだろう。今回は、免税店に行かなかったせいか、中国人観光客とあまり出会わなかったが、次に行ったら、この屋上は中国人観光客で溢れているかもしれない。

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 釜山の最終日は、あいにくの雨だった。午後の高速艇で博多へ帰る予定だったので、昼ご飯を食べたらすぐに、ホテルに荷物をとりに戻らないといけない。この日、私たちが向かったのは、「臨時首都記念館」だった。ここも私の希望。朝鮮戦争は、私たち夫婦が生まれた頃に戦われた戦争だ。敗戦後、極度の窮乏状態にあった日本は、この戦争の特需景気によって、息を吹き返した。韓国では、朝鮮戦争ではなく韓国戦争、あるいは、開戦の日付を示す、625(ユギオ)と呼ばれているそうだが、北朝鮮の南侵によって始まったこの戦争は、当初は北朝鮮が優勢で、韓国軍と韓国に駐留していた米軍は、一挙に釜山まで押し込まれてしまった。これを、マッカーサーの仁川上陸作戦によって挽回した米軍は、今度は逆に、北朝鮮軍を圧倒して中国との国境付近にまで迫り、それに危機感をおぼえた中国が義勇軍を派遣して米軍を押し返した。結局は、現在の南北国境付近で見合ったまま、休戦となったというのが、だいたいの戦争の流れだ。

 この日訪れた「臨時首都記念館」は、戦争初期、釜山が臨時の首都だった時に、李承晩大統領の官邸になった建物だった。かつて、植民地時代に建てられた知事官舎だったそうだ。外観は煉瓦造りの洋館だが、内部は和式の造りだった。李承晩は、ここで、アメリカ人の夫人らとともに住み、執務もしたそうだ。建物内部の執務室に入った時、あっと声をあげた。机の向こうに、李承晩の蝋人形が座っていたのだ。どういうわけか、顔色が青白く、死体かと思ってしまった。

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 現在の日韓の反目の源流は李承晩にあるのではないかと思えるほど、日本における李承晩の評価は最悪だ。私が子供の頃に何度も聞いた「李承晩ライン」によって、日本の漁船を何隻も拿捕し、竹島を韓国領に編入した。韓国人にとっても、済州島で大虐殺を命じた大統領として、評判は高くない。結局は国を追われてしまった。朝鮮戦争の時にも、最高指導者であったにも関わらず、国民を見捨てて、真っ先に釜山に逃げてきたと言われている。

 「ベスト&ブライテスト」などの著作で知られる、著名なアメリカのジャーナリストだった、D.ハルバースタムは、その大著「ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争」で、李承晩のことを、「癇癪もちで、けんかっぱやい李承晩は、アメリカに全面的に依存しながら、主人の言うことはきかなかった。」「自分のことを究極の民主主義者だと勘違いしている独裁的指導者」などと酷評している。もっとも、彼は、金日成やマッカーサーのことも酷評しているけれど。ハルバースタムにとって、朝鮮戦争は、愚者と愚者の戦いであったようだ。兵士達だけが勇敢に戦い、そして死んだ。

 付属の建物にある、朝鮮戦争時の遺物などを見物してから、地下鉄で二駅目の、南浦まで戻った。今回の釜山旅行での最後の食事は、ロッテデパートのレストラン街で済ますことにした。食べたのは、ポッサム定食。贅沢な昼食だった。帰りの高速艇は、JR九州の「ビートル」だった。船に乗った時点で、もう日本に帰ったような気分になった。午後2時に釜山国際フェリーターミナルを出港した船は、約3時間後に、無事、博多港国際ターミナルに到着した。博多で一泊してから、翌日、岸和田へ戻った。
 

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