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韓国の旅  #12


ソウルから大邱へ 2012年 秋

 2012年に行ったのは釜山だけではなかった。その年の秋に、ソウルと大邱にも行った。11月12日、月曜日。関空を午前11時10分に離陸した私たちのアシアナ航空機は、予定通りの午後1時にソウル金浦空港に到着した。いちおう、旅行会社のツアーに申し込んでいたのだが、参加者は我々夫婦だけだったようで、出迎えの現地ガイドと一緒に、すぐにホテルに向かった。フリープランだから、ガイドの役目は我々を空港からホテルまで送り迎えするだけである。手はかからないが、金にもならない客だった。今回のホテルは、ロッテホテルの新館である。ここは、チャングム・ツアー以来だから、7年ぶりだ。幸い、すぐに部屋に入れたので、荷物を置いた我々は、すぐに付近の散策にでかけた。ソウルは、昨年の春以来1年半ぶりである。前回は、桜を見るのがめあてだったが、今回は晩秋の景色を楽しみにしていた。この季節のソウルは零下の寒さだと聞いて身構えていたのだが、幸いなことに、今回の滞在中は、さほど日本と変わらない気温だった。

 私たちが最初に向かったのは、ホテルから歩いてすぐの新市庁舎だった。建築ファンである私が、今回のツアーで最も楽しみにしていた場所である。数年がかりの工事が、やっと最近、完成した。空港からホテルまでの車中での、現地女性ガイドの話によると、このガラスばりの斬新な新市庁舎建築の評判は、あまり芳しくないようだ。前もって写真で知っていた私が、旧市庁舎(日本の植民地時代の歴史的建物)を飲み込む津波のようだと言ったら苦笑していた。いよいよ、その実物との対面である。

 なるほど斬新なデザインだった。外観が保存されて、内部が図書館に改装された旧市庁舎とは、いかにもアンバランスである。この妙なガラス外壁の曲線は、何を意図しているのだろう。とにかく、何かの真似ではない、独特なデザインだということには好感は持てた。内部へ入る。中は、巨大な温室のような吹き抜け空間だった。この開放感は悪くない。壁には、本物の緑の観葉植物が養生されていた。この建物のテーマはエコロジーだそうだ。しばらくロビー空間を歩き回った後、いったん外へ出て、図書館に生まれ変わった、旧館の玄関へ向かった。ところが、残念なことに、月曜日は休館日だった。本日の見物はこれで終了。昼食が、あまりおいしくない機内食だけだったので、ちょっと早めの夕食にすることにした。

 地下鉄に乗って、私たちが向かったのは、景福宮の近くにある、「土俗村」という、ソウルに来る日本人観光客の間であまりにも有名な、参鶏湯(サムゲタン)の名店だった。私は初めてだった。いつもは行列が出来ているそうだが、まだ早い時間だったせいか、私たちは、待たずに席につくことができた。さすがに美味しい参鶏湯だった。特に、こんな季節に食べると身体が温まる。私たちは満足して店を出た。しかし、まだホテルに戻るのは早い。再び地下鉄に乗って、光化門へ向かった。

 ソウルに詳しい人はお分かりだろうが、東京以上に地下鉄網が発達したソウルなのに、景福宮から目と鼻の先の光化門に地下鉄で行こうとすると、鐘路3街で乗り換えて、ぐるっと遠回りしないといけない。世宗路を縦に貫く路線がないのだ。本当は、歩いた方が早かったのだが、ソウルに着いたばかりで、私たちは疲れたくなかった。ところが皮肉なことに、地下鉄の利用は、実際は疲れるものだった。年寄りには勧められない。階段の上り下りや、乗り換え時の長い歩行距離を考慮すると、バスかタクシーを利用するのが正解である。とはいえ、今回の旅行中、私たちはもっぱら地下鉄を利用して、バスにもタクシーにも、一度も乗らなかった。たぶん、私たちはソウルの地下鉄が好きなのだろう。私は以前の旅行中に買ったT-moneyカードをチャージして使い、家内は、ペンダント型の新しい交通カード(カードとは言わないか。)を買った。さて、光化門に着いた私たちの目当ては清渓川だった。

 清渓川(チョンゲチョン)は、すっかりソウル市民の憩いの場所、あるいは観光地として定着したようである。私たちは、近くの喫茶店で少し時間待ちをし、暗くなってから清渓川へ向かった。ガイドさんから、清渓川で灯籠まつりが開かれていると聞いていたからである。確かに、そこには、中国人らしい観光客の団体らが群がっていた。縁日の雰囲気だった。川の中に小型のねぶたのような(青森の観光協会のブースもあった。)、紙で造った人型灯籠がたくさん並んでいた。暖かい色をした灯りが水面に映えて、なかなか幻想的な光景である。京都や奈良で行われているような、冬の観光客を誘致するための祭りなのか、昔からあった祭りなのかはわからなかった。たぶん、新しい行事だろう。しばらく、歩きながら見物しているうちに、小雨が降ってきたので、ホテルへ戻ることにした。さほど遠くないので、歩いて帰ることにした。実際、ホテルはすぐそこだった。幸い、雨はすぐにあがったので、私たちは、せっかくだからと、いつも観光客で賑わっている明洞を少し散策してから、ホテルの部屋に戻った。ロッテホテルのメリットのひとつは、明洞から近いということである。


 妻は、韓国へは20回も来ているし、(私は今回が8回目)ソウルもほとんど行き尽くしている。大邱(テグ)へ行くことが、家内の、今回の韓国旅行の目的だった。私はお供である。大邱へ行く目的は、啓明(ケミョン)大学を見るためだった。「冬のソナタ」などの、ユン・ソクホが監督したテレビ・ドラマ「ラブレイン」が、ここで撮影されたのである。しかも、ミッション系の大学である啓明大学は、大阪の桃山学院大学と姉妹校の関係にあって、この夏、妻が受けた韓国語の短期夏季講習の講師は、この啓明大学の教師であり、テキストも、この大学の出版物を使用した。この桃山学院大学の講習に参加しなかった妻の友人が、このテキスト購入を希望し、それなら、ちょうど啓明大学へ行くから、ついでに一冊買ってくるよという事になったのが、今回の旅にもうひとつの目的を加えた。

 韓国第三の都市と言われる、人口約250万人の大邱は韓国南部に位置する。ソウルからよりも釜山から行く方が近い。そこへ日帰りで行くわけだから、当然ながら、韓国の新幹線KTXを利用することにした。朝、ホテルを出た私たちは、地下鉄でソウル駅に着いた。既に馴染みの場所である。新しい、ガラス貼りの巨大なソウル駅舎は、鉄道駅というより空港に近い雰囲気の建物だが、同じような建物である釜山駅とは違い、さすがに首都の駅らしく、朝の通勤客や旅行者で溢れていた。(釜山駅は、無駄に広いという印象。)9時発釜山行きのKTXに間に合いそうだったのだがチケットは売り切れていて、9時半の出発になった。隣の旧駅舎を見物して時間つぶしをしようと思ったが休館だったので、仕方なく、広い駅構内をぶらぶらしながら出発の時間を待った。以前にも書いたが、韓国の鉄道駅には改札口がない。やろうと思えばキセル乗車が可能だが、さすがにKTXには、キセルはいないようだった。いるのかな。

 KTXはフランスのTGVの技術を導入していて、最高時速300Kmを超えて運行されている。故障がちで、乗り心地も良くないと聞いていたが、そんなに悪くはなかった。確かに、日本の新幹線よりは劣る。座席も狭いし、なによりも座席が回転しないので、進行方向に背中を向けて座らねばならない場合があった。(固定座席の向きは、車両の内部で半々に別れている。)フランス風なのか、グレー系統の色調の車内はシックというより暗い感じで、なにか韓国らしくないなという気がした。もっと派手なインテリアにしたらいいのに。しかし、電車はあまり揺れることもなく、無事に東大邱駅に着いた。予定よりわずか5分遅れただけだった

 大邱は大きな街だから、ちゃんと地下鉄がある。駅から出た私たちは、5分ほど歩いて、地下鉄駅へ向かった。路線は2本あった。その2本が、半月堂という駅で交差している。私たちの最初の目的地である明徳駅は、東大邱や大邱駅と同じ線の駅だったので、乗り換える必要はなかった。自動販売機に入れる小銭がなかったので、妻が窓口で乗車券を買った。さすがに伊達に何年もハングル教室に通っているわけではない。これくらいの会話はお手の物。大邱の地下鉄の乗車券は、プラスチックの丸いコイン型をしていた。入場する時は、それをカードと同じように、改札機の指定の場所にタッチし、下車時には穴に投入する仕組みだった。大邱の地下鉄は駅も車両もなかなか綺麗だった。ちゃんとホームドアーもある。明徳駅に着いた。

 実は、大邱の地下鉄には、もうひとつの路線に「啓明大駅」というのがある。ほんの昨夜まで、家内はそこに行くつもりだった。昨夜、たまたま寄った、清渓川近くの韓国観光センターに、「ラブレイン」撮影地案内のパンフレットがあったおかげで、急遽、目的地を変更したのである。パンフレットの表記はハングルだったが、それによると、ドラマが撮影されたのは、本校のキャンパス(城西キャンパス)ではなく、明徳にある旧キャンパス(大明キャンパス)だという。危ういところだった。啓明大学(正式には啓明大学校。20近くある各学部が、それぞれ大学と呼ばれている。)の大明キャンパスは、地下鉄駅からは、かなり距離があった。学生たちはバスで通学しているのだろうが、勝手のわからない私たちは、パンフレットの簡単な地図を頼りに、工事中の埃っぽい道を歩いて行った。

 ようやくキャンパスに着いた。素晴らしいキャンパスだった。建ち並ぶ赤煉瓦の建物が、見事に黄葉した樹木に囲まれて静かに佇んでいる。まさに、ドラマ「ラブレイン」の世界だった。苦労してここまでたどり着いた妻は、思わず感激の涙を流した。(というのは嘘。)いやあ、ほんとに素敵な光景でした。あのユン・ソクホ監督がロケ地に選んだだけのことはある。(ここは他のテレビドラマや映画作品のロケ地にもなっているそうだ。)家内は、ドラマの舞台を探して、キャンパスの隅々まで歩いた。私は、所々で写真をとりながら、彼女について歩いた。黄色い落ち葉が道を絨毯のように覆い、絵の中を歩いているような気分だった。こんな景色の中にいたら、恋も生まれるだろう。こちらは、いささか歳をとりすぎているのが残念だった。

 ここで、「ラブレイン」の説明をしておいた方がいいだろう。知らない人には、何がなんだかわからない。このドラマは、日本でも人気の若手俳優、チャン・グンソクと、人気K-POPグループ「少女時代」のユナが主演するラブ・ストーリーである。監督は、「冬のソナタ」のユン・ソクホ。「冬のソナタ」も、親たちの世代の恋愛模様が、ペ・ヨンジュンやチェ・ジウら子供世代の関係に大きな影を落としたという物語だが、この「ラブレイン」も、基本的な構造は同じである。大学時代に愛しあいながら別れた恋人たちのそれぞれの子供が、またもや運命的な恋に落ちるという、「親の因果が子に報い」る話だ。「冬ソナ」と違うのは、チャン・グンソクとユナが、70年代の若き日の親世代と、現代の子世代の恋人を、それぞれ一人二役で演じていることである。(その演じわけが、二人ともなかなかうまいのだが、このストーリーや一人二役の設定が、ソン・イェジンが主演した韓国映画「ラブストーリー」のパクリだと言われ、訴訟ざたになったらしい。)その親世代というのが、既に私たちよりも年下の世代であることには、ちょっとがっかりするが(我々夫婦も歳をとったものだ。)、いちおう70年代だから、自分自身の大学時代を思い出して懐かしくもあった。その、若き日の親たちが出会い恋に落ちた現場であり、時を経て、かつての恋人の男性は教授になり、女性の娘もまた通っている大学が、この啓明大学のキャンパスを借りて撮影された、架空の韓国大学というわけだ。

 このドラマはフジテレビで放映されたらしいが、妻も私もTSUTAYAで借りたビデオで見た。(旅行に行った時点では、まだ途中で、最終話までは見ていなかった。)さすがにユン・ソクホ監督らしい、鋭敏な色彩感覚と音楽のセンスが光る作品だと思う。チャン・グンソクは好きな役者ではないが、このドラマでの演技はさすがに悪くない。意外にもユナが素晴らしかった。今後、彼女は歌手じゃなく、女優として生きていくべきだろうと思うほど魅力的だった。「少女時代」では、誰が誰だかわからなかったのに。(覚える気もないが。)さすがに、若い女優を魅力的に撮ることに定評があるソクホ監督というところで、このドラマの解説は終了。(2020年の註:ユナは今どうしているのかな。「少女時代」は解散したの?最近は、K POPというとBTSの話題ばかりだが。)

 啓明大学校の大明キャンパスで、「ラブレイン」の世界を堪能した私たちだが、ここでは来訪目的の片方しか果たせなかった。購買部がなく、韓国語のテキストが買えなかったのである。やはり、城西キャンパスの方に行かないといけないようだ。昼をとっくに過ぎていて、腹が減って仕方なかったのだが、学生食堂らしきものも見つからず、(だいたい、ほとんど学生の姿を見かけなかった。)キャンパスを出た私たちは、結局、地下鉄駅付近まで戻ってしまった。ここでも良さそうな店が見つからず、結局は、中国料理の店に飛び込んだ。中華なら、漢字のメニューもあるだろうし、どんな料理か見当がつくと思ったのだが、残念ながら、メニューは全てハングルだった。日本の食堂のように料理サンプルが並んでいるわけでもなく、料理の写真がメニューに印刷されているわけでもなかった。かろうじて、一つだけ写真があったものを指さした。とにかく炭水化物ではなさそうだったから。出てきたものを見たら、酢豚らしかったが、日本のものとは味も見た目も違った。でも、まあまあ食べられたのは幸運だった。家内は、ジャージャー麺を注文した。とりあえず、これで空腹はおさまった。

 再び地下鉄に乗って、啓明大駅で降りた。今度のキャンパスは駅のすぐ上である。それにしても、実に広大なキャンパスだった。大明キャンパスの5倍以上の広さだろう。これではとても歩き回るわけにはいかない。妻は、警備の人に購買部の場所をたずねた。彼女のハングルはなんとか通じたようで、親切に方角を教えてくれた。それでも場所がわからず、もう一度、別の警備の人にたずね、ようやく、それらしい建物を見つけた。中に入って、私はすぐに間違いに気がついた。ドアに英語で「press」という文字が書かれていたからである。ここは購買部ではなく出版部だろう。部屋の中に入ると、事務所の中に、男女一名ずつが仕事をしていた。妻は「アンニョンハセヨ」と言っただけで黙ってしまった。何というべきかわからなかったのだろう。やむを得ず、私が英語で事情を説明した。そして、家を出る前に撮影しておいた、テキストの写真をデジカメで見せて、この本が欲しいんですと言った。

 互いに状況がわかったので、それからは妻がハングルで受け答えした。相手の女性の話はたぶん、こういう事である。そのテキストはここでは売っていないから、書店へ行ってほしい。妻は、その書店にはどう行くんですかと尋ねた。その間に、男性職員がどこかに電話をしていた。どうやら、書店に連絡しているようだが、その様子では在庫がないということらしい。そこで、その男性職員は女性に指示して、隣の部屋から、私たちが探していたテキストを持ってこさせた。同時にコンピュータを操作して、なにやら納品書らしいものをプリントアウトした。ああ、ここで売ってくれるんだと思ったら、そうではなかった。しばらくすると、若い男の子が現れて、その本を受け取ると、我々に一緒についてくるように行った。私たちは、男女の職員に礼を言って、その男性に付いていった。

 その男性が行った先は、キャンパスのすぐ外にある書店だった。どうやら、彼はこの書店の店員らしかった。たぶん、大学の出版部では直接に本を販売することができないので、書店を通したということだったのだろう。もし、事前になんらかの情報を得て、我々が先にこの書店に来ていたとしたら、在庫はありませんという事で話は終わっていたかもしれないから、何も知らずに出版部に飛び込んだのは、結果的には正解だったことになる。ここでも、我々は幸運だった。というわけで、大邱での小さな冒険が終わり、私たちは、無事にソウルに帰りついた。

 すっかり夜になっていたが、夕食前にソウル駅の横にある「ロッテマート」で買い物をした。家内のハングル教室の仲間への土産を買うためである。最近の日韓情勢を反映して、ソウルでは日本人観光客が減り、中国人ばかりだと聞いていたが、周囲から聞こえてくるのは、日本語ばかりだった。我々を含め、何度も韓国に来ているような人にとっては、政治は関係ないのである。買い物を済ませた私たちは、ホテルの隣にあるロッテデパートのレストラン街で夕食を食べてからホテルに戻った。食事をした店の名前は「ヌルプルンプル」(たぶん。)食べたのは豆腐付きのポッサムである。ゆでた豚肉を葉野菜で包んで食べる料理だ。とてもヘルシー。糖尿病患者の私にぴったりだ。この店には以前にも来たことがあって、とても美味しかった。それで選んだのだが、今回も満足した。

 金浦空港からロッテホテルに送ってもらう車中で、現地ガイドの女性といろんな話をした。こちらが何度もソウルに来ていることがわかったので、初歩的な説明は必要ないと思ったのだろう。その中で、最近の日本人旅行者は韓国人以上に韓国の歴史に詳しくて、ガイド泣かせだという話があった。いうまでもなく、韓国歴史ドラマの影響である。そう言えば私も「チャングムの誓い」に始まって、「イ・サン」「トンイ」「王女の男」と、ずっとNHKが放送する韓国ドラマを見ている。以前にも書いたことがあるが、私は40年前の大学時代に、朝鮮史を勉強したことがある。その時に、李氏朝鮮の時代は陰湿な朋党の争いばかりで、なんと暗い嫌な歴史だろうと思い、その中でかろうじて、西洋の科学を導入しようとした18世紀の(まさにイ・サンの時代)実学者の一群を発見して、卒業論文のテーマにした。朝鮮が近代化に遅れて、ついには日本の植民地になったのは、日本が長崎出島を窓口とする洋学の伝統を持っていたのに対して、これら実学者たちの試みが政治的弾圧によって挫折してしまったからであるというのが、論文のだいたいの趣旨だった。当時の私の大学には、朝鮮史の講座も専門の研究者もいなかったから、それは独学に過ぎなかったし、その後、私は専門の研究者になることもなかった。なにしろ、当時は、ハングルも覚えなかったくらいだから。

 それが、最近、歴史ドラマを見るようになって、李氏朝鮮の時代が、がぜん興味深くなってきた。歴史の本を読むのとは違って、映像で見ると、実にイメージが鮮やかだし、人物も生き生きと躍動している。もちろん、ドラマは作り物だから、実際の歴史とは別物なのだが、私は、学生時代にこんなドラマがあったら、本格的に朝鮮史研究者の道に進んでいたかもしれないなと思い始めていた。3日目のソウル探訪は、私のそんな今の気分を反映したものになった。

 朝、ホテルを出てまず向かったのは、宗廟である。ここは世界遺産に指定されているから、ソウル観光の目玉のひとつなのだが、私は訪れたことがなかった。妻は二度目だが、私につきあってくれた。市庁駅から地下鉄1号線に乗って、鐘路3街で降りた。(ついでに書いておくと、ソウルの地下鉄は、日本と逆の右側通行だが、この1号線だけは左側通行だ。調べてみると、日本の植民地時代に建設された国鉄が今でも左側通行を維持しており、この地下鉄1号線は、国鉄との相互乗り入れをする関係で、左側通行を採用しているのだそうである。これからソウルを旅行する人は注意してください。以上は余談。)宗廟はすぐ近くにあった。私たちが宗廟の門前に着いた時、人だかりがしていた。ほとんどが日本人だった。中に、鮮やかな衣装を着たガイドらしい女性が数人いた。現在、土曜日以外、宗廟にはガイド付きでないと入れない。私たちが着いたのは9時半だが、日本語ガイドのツアーが、10分後に始まることがわかった。ラッキーだった。ガイドに付いて、多数の日本人観光客と一緒に中に入った。呉(オウ)さんという、長身の女性ガイドだった。ハキハキした人で、日本語もほぼ完璧だった。寒いから説明は簡単にすると言ったが、よく解かる話し方だった。所々、笑いを入れた内容もよく練られている。彼女の説明によると、宗廟は、李氏朝鮮王朝歴代の王や王妃の位牌を祀る廟所である。墓地ではない。秀吉の朝鮮侵攻で焼かれたが、後に再建され増築された。現在では、旧李王家の血筋をひく人たちが主催して、年に一度祭礼がある。来年はゴールデンウイークの日になるようだ。見物したい人は無料で見られるという。その祭祀がユネスコの世界無形遺産に指定されている。この宗廟は、有形遺産と無形遺産の両方で指定されているわけだ。

 宗廟の建物は、王宮に較べると規模も小さく質素であったが、高貴な死者達の霊が宿っている場所だけに、なにやら神聖な雰囲気が漂っていた。チャングムの王様中宗、実学者たちを抜擢したイ・サンこと正祖、その祖父であり、トンイの息子でもある英祖、そしてトンイを愛した粛宗。韓国歴史ドラマでお馴染みの王たちが、皆ここにいると思うと、親しみの念が一層湧いてきた。昔、歴史の本だけで知っていた時には、歴代王達のイメージはほとんどなかったのに。やはり、物語や映像の力は大きい。

 宗廟を出た私たちが次に向かったのは、東大門だった。ここでの目当ては歴史的建造物ではなく、現代あるいは未来の建物だった。韓国旅行から帰ってしばらく後、新しい東京国立競技場のデザイン案が、ザハ・ハディットのものに決まったという発表があった。私たち夫婦と同い年で、イラク出身ロンドン在住の国際的女性建築家であるザハ・ハディットの作品こそ、私たちがこれから見に行く建築なのだ。「東大門デザインパーク&プラザ」である。2年前の夏にここに来た時には、建物はまだ鉄骨の枠組みでしかなかった。まだまだ完成までには時間がかかるとは言え、(工事は予定よりかなり遅れているようである。)今回、ほぼその外観を見ることができた。あの、異形の宇宙船のような、斬新極まる建物が、実際に地上に出現しているのである。現代建築のファンでもある私は、心が弾むのを感じた。完成して、その内部に入れる日が楽しみだ。日本の競技場の方は、途方もない建設費の問題など、まだまだいろいろ解決すべき課題があって、いつ見られるかわからないが、東大門の建物の方は、確実に「近いうち」である。(2020年の註:周知のように、ハディドの国立競技場は幻に終わった。代わってできたのは、隈研吾さんの競技場。個人的には、ハディッドの競技場を見たかった。隈さんに建築も大好きだけれど。)

 既に出来ている、東大門文化公園内の喫茶店で休憩した後、せっかく東大門に来たのだからと妻が言うので、周囲にたくさんあるショッピングビルのいくつかで、衣類やバッグ類のウインドウ・ショッピングにつきあった。それにしても、こんなにたくさん店があって、みんな経営が成り立っているのが不思議だ。多くの店が夕方になってから開店するそうで、昼なのにまだ閉まっているのは、いかにも「眠らない街」東大門らしかった。見物の後、旅行前から決めてあった店で昼食をとることにした。例によって、妻が韓国情報ブログで見つけた店である。店名は「ヌティナム」。日本人旅行者にも人気の名店らしいが、近所のサラリーマンが普通に昼食を食べに来る店のようだから、気楽な雰囲気だった。食べたのは、もちろん、この店の名物のソルロンタン。肉と麺が入った薄味の(自分で塩胡椒をする。)白いスープだが、キムチと一緒に食べると実に暖まる。私はご飯を食べられないので、お腹一杯というわけにはいかないが、さすがにコクのある味だった。

 昼食を終えて、次の目的地へ。またもや地下鉄に乗った。「東大門歴史文化公園駅」から5号線に乗って、「往十里」という駅で、新しく開通した盆唐線に乗り換え、漢江を地下で渡って江南の「宣靖陵駅」で降りた。ソウルの地下鉄網は東京以上に複雑だが、更に成長を続けている。この路線は、発達する江南地区の郊外を都心と結ぶ新線だ。(余談だが、今、PSYというデブの韓国人男性歌手の「江南スタイル」という曲が世界を席巻しているのだが、日本でだけは、全く火が点かない。もちろん竹島問題の影響なのだが、PSY君にとっては気の毒な事だった。韓国人歌手の収入の大半は、日本での稼ぎだと聞いたことがあるから。この曲は、江南という、韓国ではお洒落だと言われる地域に住む人たちのライフスタイルを皮肉った歌詞らしい。)いかにも韓国らしいが、「宣靖陵駅」はもう開通しているのに、まだ一部で工事が続いていて、実に埃っぽい駅だった。新品のはずのエスカレーターが、既に汚れていた。

 駅から少し歩くと、広い公園らしいものの塀が見えてきた。うっそうとした樹木が見事に紅葉していて、公園の横は美しい散歩道になっている。これが、私たちのめざす「三陵公園」だった。ここに、宣陵、靖陵、貞顕王后御墓の三つの陵がある。宣陵は第9代、成宗の墓、貞顕王后御墓はその皇后、靖陵は、二人の子供である中宗(チャングムの王様だ。)の墓である。ソウル周辺にたくさんある、これらの王陵はまとめてユネスコ世界遺産に登録されている。

 日本をたつ前、私たち夫婦の間で、ちょっとした論争があった。私のような中国語の初学者にとって、大きな壁は四声の存在だが、(同じ音でも、上がり下がりの違いで言葉の意味が変わる。)韓国語学習の場合は、リエゾンや音の変化の存在だろう。ご存知のように、李朝の世宗大王が制定したハングル文字はアルファベットと同じ表音文字である。だから、ローマ字を覚えるように、読むだけならすぐに誰でも習得できるのだが、実際の発音は、ハングル通りではない。リエゾン(前後の単語をつなげて発音する。)や、音節の前後関係による音の変化があるからだ。綴りと発音が違うといっても、英語ほどアナーキーな事はなくて、規則を覚えればいいのだが、それでも、初心者にとっては、これは大きなつまづきの石になっている。宣陵、靖陵が、その例だった。どちらも、ハングル文字通り発音すると、「ソンルン」「ジョンルン」だが、韓国情報で有名なネットサイト「ソウルナビ」には、「ソンルン」「ジョンヌン」と表記されている。ちょっと面倒だが、「ソン」と「ジョン」の「ン」は、前者は「N」、後者は「NG」にあたるハングル文字で表記されている。「NG」音の後に「L」音がつづくと、その「L」音は「N」音に変化するという規則があるから、「ジョンルン」が「ジョンヌン」になることは良くわかるのだが、問題は「ソンルン」だった。「N」音の後に「L」音がつづくと、「N」音が「L」音に変化するという規則があるのだ。だから、本来ならば、「ソンルン」は、「ソルルン」にならないといけないわけだ。事実、同じソウルナビの別の箇所には、「ソルルン」という表記もあった。さて、どっちが正しいのだろうというのが、出発前の私たちの疑問だった。実を言えば、私の考えは、「ソンルン」でも「ソルルン」でもなく、「ソンヌン」だろうというものだった。この説は、どの規則にものっとっていないのが弱点だった。

 ソウルに着いた初日、さっそく迎えのガイドにこの疑問をぶつけてみた。ガイドの答えは、私と同じ、「ソンヌン」だった。この日、「三陵公園」のチケット売り場のおばさんに妻が尋ねたところ、やはり「ソンヌン」と答えた。しかし、看板の英語表記は「ソルルン」という音を示していた。疑問は解けない。最後に、広い公園内を一周して、公園内の「歴史文化館」を訪れた時に、学芸員らしい男性に家内が同じ質問をした。彼の答えは「ソルルン」だった。韓国語は難しい。「ソルルン」が正しいが、たぶん「ジョンヌン」にひきずられて、一般の人たちは「ソンヌン」と呼んでいるのだろうというのが、とりあえずの結論である。(付記:妻がハングル教室の先生から聞いた話では、「陵」という言葉は、現在の韓国語では「ルン」ではなく「ヌン」と発音されているので、音の変化以前のこととして、「ソンヌン」が普通だということだった。)

 話が横道にそれた。「三陵公園」に戻ろう。公園に入った私たちは、まず成宗の墓「宣陵」へ向かった。大きな芝生の丘陵の上にいくつかの石像が立っていて、その横に半球状の芝生の墳墓があった。(巨大な緑の鏡餅の上の早生ミカンのようだ。)円い墳墓の周りを干支の動物の石像が囲んでいる。私たちは、丘陵を登って円墳のすぐそばまで行くことができた。成宗をモデルにした「王と私」というドラマがあるそうだが、私は見ていないので、この人がどういう人かは知らない。今見ている「王女の男」で悪役として登場している世祖(彼は世宗大王の次男だったが、兄の後を継いだ年少の甥の王位を簒奪して、自ら王位についた。)の孫にあたる。若くして王になり、その治世は25年間に及ぶ長期政権になった。安定政権だったと言われている。成宗は悪名高い燕山君の父親でもある。燕山君の母親だった最初の王后を、素行の悪さから廃して死を命じたことが、後に燕山君に誤解されて、彼を暴君に変貌させたのだという説がある。燕山君は廃されたので、宗廟にも入れてもらえなかった。可哀相な人だったとも言える。

 成宗の二番目の王后であり、中宗の母となった貞顕王后御墓は、成宗の陵とほとんど同じだった。大きさもさほど違わない。この女性は「チャングムの誓い」にもたびたび登場したから、なんとなく親しみを感じる。実際は全く知らない人なのに。最後が中宗の「靖陵」だった。この陵は、公園の反対側の端にあった。そのため、広大な公園を横断した。ほとんど人気がない、秋深い公園は、黄葉や紅葉が見事だった。アップダウンがあって、ちょっとしたハイキングの気分である。山の中にいるようだった。中宗の墓も、父親の成宗の陵と同じ構造である。チャングムの王様、中宗は、クーデター(反正)によって燕山君が追放された後に、その異母弟として、官僚たちに推戴されて王位を継いだ。開明的な王だったようだが、在任中に両班官僚達の朋党争いに苦しんだ事は、「チャングムの誓い」にも鮮やかに描かれている。李朝の宿痾となった朋党争いは、結局、どの王にも解決できなかった。それなのに、李氏朝鮮時代が室町から明治まで、秀吉の侵攻を乗り越えて、あんなにも長く続いたのは何故だろう。朋党争いといっても、今の世界の政党間の争い程度のものだったのかもしれない。国を分裂させるまでには至らなかったのだろう。しかし、国の近代化を遅らせ、亡国の原因になったのだから、両班たちの朋党争いは罪が深い。

 再び地下鉄に乗って、市庁駅に戻った。ホテルに戻る前に、初日に見物できなかった図書館をのぞいて行くことにした。素晴らしい施設だった。どの程度の蔵書があるのかわからないし、まだ作業中らしく、書架にはまだ隙間がかなりあったが、読書好きにはたまらない空間だった。ソウル市民が羨ましい。じっくり本を眺めたいが、残念ながら、ハングルの本は、書名さえわからないので、ざっと雰囲気を味わうだけだった。

 韓国に来てから、連日のように2万歩近く歩いたのだが、この日は特によく歩いて、すっかりくたびれた。だから、夜はロッテデパートの地下で食料を仕入れ、ホテルの部屋で食べながら、NHK衛星放送でサッカーの日本対オマーン戦を観て、早めに寝ることにした。日本はアウエーの危ない試合を勝って、W杯出場を確実にした。いい気持ちで眠ることができた。

 最終日である。帰りの飛行機は夜の便なので、午後3時頃までは時間があった。朝、ホテルをチェックアウトして、ロビーで荷物をあずけ、地下道づたいに、まず向かったのは、市庁の近くにある徳寿宮(トクスグン)だった。韓国近代史の重要な舞台である。ここには、昨年も桜を見にきたのだが、秋の風情も味わってみたかった。それに、ずっと工事中だった洋館の「石造殿」の現状も気になっていた。観光用の衛兵交替式のリハーサルをしている大漢門から中に入ってみると、「石造殿」の改修工事はまだ続いていた。美術館の方も休館中。仕方なく、落葉を踏みしめながら、ただ歩き回って、秋の空気を楽しむことにした。改めて見たいものはない。でもここは、都心なのに、いつも静かで心が落ち着く場所ではあった。それにしても、工事はいつ終わるのか。

 徳寿宮を出て市庁の方へ歩いて行くと、市庁舎前の広場で催しの準備がすすんでいた。下にビニールシートを敷き詰め、長テーブルが何列も並び、テーブルの上に、ピンク色をしたプラスチック製のボウルがずらりと並んでいた。何をするのだろう。広場を囲むようにテントが並び、そこに横断幕が取り付けられていた。幕には、「キムチ漬けフェスティバル」という意味のハングルが印刷されていた。この旅行中ずっと読んでいた、蓮池薫さんの「半島へ、ふたたび」によると、北朝鮮でも、この季節のキムチ漬けは、一年でもっとも重要な行事だったという。会社を2日間ほど休んで、一家総出でキムチを漬けたそうだ。一家で、トラック数台分も白菜が届くそうである。キムチを入れた甕がたくさんできる。冬の間は、ほとんどキムチだけが副菜なので、それはとても大切なことなのだ。食糧事情が豊かな韓国でも、キムチの重要性は変わらないようだった。午後から始まるらしい、フェスティバルの本番を見たいと思ったが、私たちはまた地下鉄に乗った。今度の行き先は、ソウルに来れば必ず寄る、仁寺洞である。

 最寄りの安国駅に着いたが、私たちは仁寺洞(インサドン)へはすぐには行かず、近くの日本大使館を見物することにした。いや、見物するのは大使館の建物ではなく、その道路の反対側の歩道にある、いわゆる「従軍慰安婦少女の像」である。竹島と並んで、日韓間の対立の焦点になっている「従軍慰安婦問題」の象徴的なモニュメントだ。私たちが近づくと、大使館の前に何台も停まっている機動隊のバスの中や路上から、警備の機動隊員らしき人たちがいっせいにこちらを見るのがわかった。こちらも緊張して歩き、少女像の背面の写真を撮って、そのまま通り過ぎた。ちょっとドキドキした。いい歳をして、バカな事をする。

 今度の総選挙で総理大臣になりそうな安倍晋三氏は、政権をとったら、この従軍慰安婦問題の、いわゆる「河野談話」を見直すと言明している。私も、慰安婦と勤労動員の女子挺身隊を(故意に?)混同しているような韓国側の認識は改められるべきだと考えているが、「河野談話」見直しは危険だと思う。下手にやると、拉致問題を否定する北朝鮮のように、人権意識のない国だと世界から見られる事になる。核武装論にしてもそうだが、今選挙を戦おうとしている右寄りの勢力は、日本の北朝鮮化をはかっているとしか思えない。とても心配だ。(2020年の註:長かった安倍政権が終わったけれど、安倍政権が任期中に朴政権と交わした、慰安婦問題の最終的な解決は、現在の文政権に反故にされてしまった。)

 脱線した。仁寺洞に行こう。今回、仁寺洞へ行ったのは、買い物が目的ではなかった。妻が、帰国の前に韓定食を食べたいと言ったからである。しかしながら、事前に調査をしていなかったので、いい店が見つからなかった。日本大使館へ寄り道したこともあって、歩き疲れて腹も減ってきた。結局、韓定食はあきらめて、流行っている、目に付いた店に入ることにした。というわけで、その店の名前はよくわからない。看板には「休」という漢字が書いてあったが。それでも、ここで食べた「豆腐チゲ」とパジョンはとてもおいしかった。韓定食よりもずっと安くついたし。

 再び、地下鉄に乗って、市庁へ戻った。地下からエスカレーターを上がると、目の前が広場だった。あたりにトウガラシの臭いがたちこめている。キムチ漬けの作業が始まっていた。数え切れないくらいの女性達が、揃いの衣装でキムチを漬けている。看板によると、このフェスティバルは、韓国ヤクルトが主催者のひとつになっている。今、集団でキムチを漬けているのは、きっと韓国のヤクルトおばさん達に違いなかった。それにしても、なんという量だろう。キムチで一杯になったプラスチック容器が、次から次に運び出されている。きっと、福祉施設にでも寄付されるのだろう。メディアのカメラマンもたくさん取材にきていた。妻と二人で、おばさん達に近づいて見物していたら、エプロンの紐がほどけたので結んでくれと、妻がおばさんの一人に頼まれた。実におおらかだ。試食するかと声をかけられたが遠慮した。食べればよかったかもしれない。

 むんむんするキムチの臭いとともに、今回の韓国旅行は終わった。今回は、久しぶりに、仁川空港から帰った。相変わらず巨大な空港である。こんなに大きい必要があるのかと思うほどだ。韓国は、もうすぐ大統領選だ。保守の朴候補と革新の文候補の一騎打ちになるようである。日本も総選挙の結果、政権交代があるだろう。新しい両国の首脳たちが、これ以上、日韓の緊張を深めることだけはないようにと祈るような気持ちだ。(註:願いは叶わなかった。)


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