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韓国の旅  #13


関釜フェリーの旅 2013年

 2013年の釜山旅行では、下関と釜山を結ぶ、関釜フェリーを利用した。関釜フェリーの前身である関釜連絡船は日韓併合前から存在していて、日本と朝鮮半島や大陸をつなぐ動脈として活躍したが、日本の敗戦で、その歴史はいったん途絶えた。復活したのは、大阪万博の年、1970年である。1983年から、日韓の共同運航により、毎日夜間に運航されることになった。私たちが往復乗船した「はまゆう」は、1998年の就航である。以上は、ウイキペディアの記述の要約。出航の夜、下関港国際ターミナルには人が溢れていた。「はまゆう」の乗客定員は460名だが、この夜は、300名以上が乗船するようだ。でも、チェックイン前の列を見ると、その中、一般客は50名ほどで、他はすべて何組かの韓国人団体客だった。乗船手続きは、団体客から先に進められた。「順番が違う。一般客が先だろう。」と思ったが、それが習慣なら仕方なかった。私たちは、バス・トイレ付きの特別室を予約していたから、急いで乗船する必要はない。

 私たちの船室は3階にあった。エレベータで上る。船内の様子は、かつて福岡港から乗った「ニューかめりあ」とほとんど違いがなかった。部屋は、ビジネス・ホテルのツインルームとほとんど同じである。今回の旅行は格安旅行だったので、釜山での宿は、東横イン西面店にしたのだが、室内の様子は、船室の方が少し狭いかなという程度で違いはなかった。今回の航海では、海がずっと平穏で、ほとんど揺れを感じる事がなかったので、とても快適だった。船室で、日韓両国のテレビ番組も見ることができたし。翌朝、目が覚めると、そこは釜山だった。

 深夜、既に釜山港外に停泊していたフェリーは、夜明けとともに、港へ向けて動き始めた。朝、身支度をした私たちは、甲板に出て、釜山港の朝の光景を見物した。釜山は一年半ぶりである。そのわずかな期間に、釜山港は変貌していた。巨大なコンクリートの主柱だけだった、北港大橋にワイヤーが張られ、翼を広げたような、斜張橋の優美な姿を見せていたし、海沿いにある、ロッテ百貨店南浦店で、なにやら増設工事が始まっていた。接岸して、下船したのは朝8時だった。入国手続きを終えた私たちは、急いで、宿のある西面(ソミョン)に向かった。船内で朝ご飯を食べなかったので、お腹が空いていた。ホテルに行く前に、どこかで朝食をとればよかったのに。なお、今回のツアーは、まったくガイドのいない、二人だけの旅だった。

 東横イン釜山西面店は、地下鉄の西面駅から少し距離があった。旧ミリオレの前である。この辺りは、釜山の繁華街西面にあっても、ロッテホテル周辺と違って、少し寂れているように見えた。チェックインをしたが、部屋に入れるのは午後4時以降である。フロントに荷物を預けた私たちは、朝食をとりに元の道を戻った。家内には、あてがあった。ロッテ百貨店の近くにある「食いしん坊通り」、別名、「デジクッパ通り」である。ここで、釜山名物のデジクッパ(豚のスープ)を食べる事が、今回の釜山旅行の、家内の目的のひとつになっていたのである。それで、今まで、朝食を我慢していたのだった。

 その名の通り、「デジクッパ通り」には、デジクッパを売りにする店が、何軒も軒を連ねていた。私たちは、「慶州朴家」という店に入った。店内に、大統領になる前の、朴槿恵さんの来店時の写真が飾ってあったから、有名店なのだろうと思う。さて、出てきたスープはというと、豚肉の臭みがなく、あっさりと淡泊な味だった。ソルロンタンの牛肉を豚肉に変えたものだと考えればいいのだろう。食べ方も似ていた。各自の好みで味付けをしながら食べる。これなら、いくらでも食べられそうだった。店によっては、スープの中にご飯が入っているようだが、ここのクッパには、ソーメンのような細い麺が入っていた。美味しかったので、また来ようと家内は言ったが、結局、今回の釜山旅行の期間中には、再訪することができなかった。

 お腹が大きくなったところで、釜山探訪の開始である。私たちがまず向かったのは海雲台(ヘウンデ)だった。過去何度か訪れたり宿泊したりしたことがある、釜山、いや韓国を代表する、海のリゾート地である。西面から地下鉄で、かなり距離がある。地下鉄を降りた私たちは、タクシーで、タルマジコゲ(月見の丘)をめざした。もう、夏のシーズンは終わっていたから、車の渋滞はなかった。タジマジコゲは、ビーチ沿いに高級ホテルが建ち並ぶ、海海台海水浴場の東側に突き出した、小高い丘のような岬である。そこには、お洒落なギャラリーやカフェが建ち並び、タルマジキル(月見道)という、海沿いのハイキングコースもあるという。きっと素晴らしい景観に違いなかった。

 タクシーの運転手が、(たぶん)タルマジコゲの中心だと言って、私たちを降ろしたのは、「海月亭」という、韓国風展望台の前だった。誰も人がいない。でも、せっかくだからと、あがって見たが、成長した松林に邪魔されて、そこから海は見えなかった。仕方なく、私たちは、タクシーで来たばかりの道を、徒歩で引き返すことにした。途中で、景色のいい場所があったような気がする。歩道部分はボードウオークになっていて、下り坂の道だから、とても快適だった。緑が美しい。確かに、道路脇には、お洒落なカフェやギャラリーの建物が多かった。時々、ハイキングの人たちとすれ違った。タルマジキルへ行くのだろう。かなり下って、観光遊覧船の乗り場の近くまで来たときに、一気に視界が開けた。眼下に、海雲台のビーチや、冬柏の岬、広安大橋、マリンシティの高層ビル群などが見えた。素晴らしい景色だった。ここまでやって来たかいがあった。(帰国後に知った事だが、タルマジコゲを観光するためには、地下鉄を「海雲台」で降りるのではなく、一駅先の「中洞」駅で降りると便利だそうだ。その辺りには、「猟奇的な彼女」のロケ地になったカフェもあるという。)

 その辺りで、ちょうどやってきたタクシーを拾った私たちは、海雲台ビーチを挟んだ反対側にある、冬柏(トンベク)ヘ向かい、ウエスティン朝鮮ホテルの前で車を降りた。予定外だったが、喉も渇いたので、ホテルのロビー奥の海岸側にある、カフェでちょっと休憩することにした。これが大正解。先ほど見た景色の正反対の方向からの海雲台ビーチの光景が、パノラマのように眼前に広がっていた。海に浸かって遊ぶ子供や女性達の姿が、すぐそこに見えた。素晴らしい。かつて宿泊したホテルは、ビーチの真ん中あたりにあり、ホテルを出ればすぐ砂浜だったが、こうして、横から海水浴場の全景を見渡すことができるのは、更に贅沢な眺めだと思った。

 ウエスティン朝鮮ホテルは、冬柏の小さい岬の根元にあった。岬は「冬柏公園」になっていて、遊歩道で一周できた。岬の突端に、2005年のAPECの会場になった、「ヌリマルAPECハウス」があった。途中にある、観光名所になっている人魚像を過ぎて少し歩くと、岬の突端の灯台が見えて来た。その横に、APECハウスはあった。円形のガラス建築である。内部は無料で公開されていた。当時の会議室がそのまま保存公開されている。(2020年の註:この時、大阪城西の丸庭園のAPEC会場跡地は、今、どうなっているんだろう?と思ったのだが、2019年に大阪でG20が開催された時に、夜の宴会場として使われましたね。)誰がどこに座ったかもわかった。当時の韓国大統領は盧武鉉、日本の首相は小泉純一郎、アメリカ大統領はブッシュ息子である。こここから見る景色は絶景だった。会議の合間に、各国の首脳達は、この絵のような風景を大いに楽しんだことだろう。

 APECハウスを出て、岬の反対側を戻ると、マリンシティの超高層ビル群が目の前に見えて来た。韓国は地震がないせいか、釜山でもソウルでも、マンションもオフィスも、高層ビルを林立させている。日本にはちょっとない風景だ。しばらく歩いて、ウエスティン朝鮮ホテルの前に戻った。ここからタクシーに乗った。いよいよ、今回の旅の目的のひとつ、広安大橋を渡るのだ。数年前、広安里海水浴場の沖を通る、この巨大な吊り橋を見て以来、家内も私も、ここを車で渡りたいと思っていた。いよいよ、それが実現する。

 橋上ドライブはあっという間だった。それでも、私たちは、その短い体験を十分楽しんだ。(夜のドライブも良いだろうな。)タクシーは、一気に西面に帰り着いた。そろそろ、ちょっと遅めの昼食の時間である。昼食は、ロッテデパート上階のレストラン街ですますことにした。選んだのは、海鮮しゃぶしゃぶの店だった。やっぱり、釜山は海産物がおいしい。出てきたのは、透明な、つまり、辛くない出汁の海鮮鍋だだった。ビールを飲みながらの鍋は、絶品だった。

 昼食の後、しばらくロッテデパートや、西面の町を散策した。でも、なにやら疲れたので、少し早いが、東横インに行くことにした。ロビーで少し待ったが、ようやく、部屋に入ることができた。ベッドで休憩。元気を回復したところで、夕食を兼ねて、夜の西面探訪に出かけた。朝行った、デジクッパ通りも歩いたが、結局、何の事前知識もない店に入ることにした。旅には、冒険が必要だ。店の人に、辛くないものをと>家内が注文した。勧められたのは、私の好物であるパジョンと、海鮮焼きめしだった。平たく大きな鉄鍋にのせて出てきた、焼きめしもパジョンも、とても美味しかった。さすがは「食いしん坊通り」。どの店も、水準は高いようである。夕食に満足した私たちは、ホテルに戻って風呂に入り、早めに寝ることにした。この日は、船を下りてから、2万歩近く歩いた。明日も、かなり歩くことになる。

 韓国第二の都市釜山は、大阪と神戸を足したような大都会だが、海と山がある地形は、神戸に似ている。でも、神戸と違って、直接外洋に接している釜山の海岸線は、とても入り組んでいた。小さいけれど、いくつもの岬が海に突き出ている。岬と岬の間が、美しい砂浜の海水浴場になっていた。前日に続いて、二日目に私たちが行ったのは、そんな岬のひとつ、太宗台(テジョンデ)だった。ここも、釜山の代表的な観光地のひとつなのである。岬の突端にある展望台から、対馬が見えることで有名だった。

 南浦洞のロッテデパートの横から、太宗台行きのバスに乗った。この岬には、韓国海洋大学があって、学生らしい乗客もたくさんいた。太宗台方面へ行くバスは多い。かなり長い距離を乗った。私たちが終点で降りた時には、乗客は二人きりだった。バスを降りてしばらく上り坂を歩くと、「太宗台遊園地」の入口が見えた。後で知ったことだが、ここから岬の突端まではかなりの距離があるが、バスも一般車両も、進入禁止になっていた。その代わり、岬の遊園地を一周する、三両連結の乗り物(タヌビ)があった。入口から少し歩くと、そのチケット売場と停留所があり、大勢の観光客が並んでいた。後で、彼らの多数が、幼稚園児を除くと、中国人の団体だということが<br>わかった。今、韓国を訪れる観光客の半分が中国人である。

 私たちは、展望台駅で降りて、一駅向こうの灯台駅で、次のタヌビに乗って帰った。チケットを見せると、タヌビは、どの駅からでも自由に乗ることができる。タヌビは、平日には、30分間隔で運航されているから、私たちの太宗台観光は、実質わずか30分で終わったことになる。この日、太宗台展望台からは、対馬がかすかに見えた。(たぶん。自信はない。)灯台までは、海岸近くまで階段を下りないといけないので、遠望だけに留めた。これでは、本当に太宗台を観光したことになるのかどうか<br>わからない。でも、太宗台は、遊覧船で海から見る方が面白そうだ。

 太宗台からの帰りもバスを利用するつもりだったが、何時に出発するのかわからないので、タクシーで戻ることにした。その運転手は、日本、それも大阪市の生野区や八尾と釜山を行ったり来たりしているという人で、ここ数年、韓国語を学習している妻にとっては、絶好の会話練習相手になった。日本語と韓国語チャンポンの会話が続いた。運転手は、釜山はロッテ財閥の町で、ひとつの市にロッテデパートが4つもある。それは、会長の親の出身地が釜山だったからだ、というような話をした。妻のハングルは、ある程度、通じたようである。

 私たちは、釜山駅前でタクシーを降りた。わざわざここに来たのは、最終日の日程を考えたからである。チェックアウト後、西面のホテルに荷物を預けておく方法もあるが、釜山駅のコインロッカーに預けて、観光が終わってから、駅前からのバスで、釜山港国際旅客ターミナルに行く方が効率的ではないかと思ったのである。それで、釜山駅のコインロッカーを確認しに行ったのだった。

 結局、荷物は、旅客ターミナルに歩いて行ける、地下鉄中央駅のコインロッカーに預けることにしたので、これは無駄に終わったのだが、おかげで、私たちは釜山駅構内の懐かしい店で、石焼きビビンパと海鮮鍋の昼食を食べることができた。数年前に釜山に来た時、釜山駅横の東横インに泊まったので、釜山駅では、何度も食事をしたことがあったのだ。昼食の後、隣の喫茶店で、家内はパッピンスを食べた。韓国風のかき氷である。これも、韓国でやりたかったことらしい。

 釜山駅から地下鉄で南浦(ナンポ)へ行った。チャガルチ市場、国際市場、釜山タワーなどがある、南浦洞一帯は、初めて釜山を訪れた旅行者は必ず行く、人気随一の観光地である。私たちは既に何度も来ているが、それでも飽きることがない。お洒落な店と猥雑な露店が混在している光景は、人間臭い、混沌の魅力を持っていた。今回、私たちは、南浦洞にありながら、まだ行ったことがなかった場所へ行くことにした。釜山タワーの近くにある、「釜山近代歴史館」である。

 この建物は、元々は、植民地時代に日本の企業が建てたものだが、戦後、アメリカに接収され、朝鮮戦争時、釜山が臨時首都になった時には、ここがアメリカ大使館になったという、歴史的にも由緒のあるものだそうだ。20年前に韓国政府に返還されて、近代歴史館に生まれ変わった。釜山の近代史がテーマだが、日本の植民地支配にいかに苦しみ、それからいかに脱したかというストーリーになっているのは、やむを得ないとは言え、日本人としては、やや公平性を欠いた展示のように思えた。パネル展示されている、李朝末期の釜山の写真を見ると、その貧しさは明らかで、日本の植民地時代に釜山が大発展したことは否定できないからである。

 江戸時代には、今、釜山タワーがあるあたりに、対馬藩の大使館のような役割をした「倭館」があったこともあって、植民地になってから、南浦洞一帯には日本人が多く住んだ。このあたりの町は日本人がつくった、とも言えるのである。でも、釜山の人が、そんな事に感謝するはずはなかった。この歴史館の一階の休憩所には、大画面のテレビが置いてあって、その画面に映っているのは、独島(竹島)のライブの映像なのだった。今までも今回も、韓国の町を歩いていて、反日的な雰囲気を感じることは一度もなかったが、これはこれで、現実の一面である。

 ここで、参考までに、館内にあった「日本語」のパンフレットの記事を紹介しておこう。韓国のナショナリズムというものがよく解る文章である。「釜山近代歴史館は1929年に建てられ、日本植民地時代は日本帝国主義の植民地収奪機関の東洋拓殖株式会社の釜山支店として、解放後の1947年7月からは米国海外広報処の米国文化院に使われました。このように外国勢力浸入のシンボルだったこの建物が釜山市民の力によって米国政府から完全に返還されました。釜山市は、70年ぶりに外国勢力から解放され韓国民族のもとに戻ってきたこの建物を、激動の<br>近現代史について理解し教育するスペースとして活用するため、約3年間におよぶ改>修工事を経て、現在の釜山近代歴史館に2003年7月3日開館しました。」

 夕食までの時間、南浦のロッテデパートで、一階の大噴水のショーを見たり、屋上<br>から釜山の港を眺めたりした。以前にも何度かしたことがある時間つぶしだ。ここはそのためには良い場所だった。現在、ロッテデパートの隣で、超高層のロッテホテルの建設が始まっている。西面に既にロッテホテルがあるのに、過剰投資ではないのかとも思うが、ロッテ財閥の指導者には、ちゃんと成算があるのだろう。いずれにしても、数年後、このホテルが完成した頃に、また釜山に来ようと思った。ここの高層階から見る景色は、昼も夜も、きっと素晴らしいだろう。私たちは、ロッテデパートのレストラン街で、この日の夕食を済ませた。プルコギだった。明日はいよいよ最終日、たぶん、また歩き回るから、牛肉で精をつけておかないと。

 釜山の最終日は、「センタムシティ」で過ごすことにした。釜山の誇る新都心、一種の未来都市である。街路樹と公園の緑が美しい、幅広い道路の整然とした街並みに、高層ビルが建ち並ぶ。景色としては良いが、住み心地はどうだろうという街だ。もともと、この辺りには、現在の金海国際空港がオープンする前には、国際空港があった。その広大な跡地に、釜山市は未来都市を計画したのである。地下鉄「センタムシティ」駅は、「広安」駅と「海雲台」駅の中間あたりにあった。ここに、新世界(シンセゲ)デパートが、ギネス認定世界一の巨大百貨店を建てた時、ロッテデパートが対抗して、すぐ隣にデパートを建てた事は、「1メートル戦争」として、当時、日本でも報道された。二つのデパートの間隔が、1メートルしか離れていなかったからだ。2009年のことである。(逆に、ロッテデパートの進出が先に決まっていたのに、新世界デパートが後から殴り込んだのだという説もある。)

 地下鉄で「センタムシティ」に着いた私たちが、まず目指したのは、「映画の殿堂」だった。ここには、2年前に来ている。建築ファンの私が、ここを見たいと希望したのだが、その時には、出来たばかりなのに、雨漏り補修工事中で、中には入れな<br>かった。(その時の事は過去記事参照。)今回は、家内の希望だった。釜山国際映画祭の主会場として、内外のスターが集う場所を、実際に見てみたかったのだろう。 「映画の殿堂」の建築の独特な形状は健在だった。2年前には空き地だったり建築中だったりした、大学や放送局などの、周囲の建物もほとんど完成していた。「センタムシティ」は、街として、徐々に完成しつつあるようである。構内の広場には、野外映画館の設備があった。驚くほど大きい。国際映画祭の式典は、ここでやるのだろうか。私は、ここを見ただけで既に満足してしまったが、今回は、幸いなことに、「映画の殿堂」の館内にも入ることができた。建物の中は、シネマコンプレックスになっているようである。映画のポスターが貼ってあった。私たちは、社会見学の高校生らしい集団に続くように、中に入った。内部も素晴らしかった。

 吹き抜けのロビーフロアーからエスカレーターを上がると、シネマコンプレックスになっていた。先ほどの高校生(中学生?)達は、どうやら映画を見るらしい。賑やかに、あちこち歩き回っていたので、私たちも気兼ねなく、館内を歩き回ることが出来た。館内に掲示されているポスターや垂れ幕の中に、若尾文子の若い頃の写真があった。どうやら、今年7月から11月にかけて、大映映画の「増村保造&市川崑」両監督の映画回顧上映会が、ここで開催されているようである。いい趣味だと思った。こんな所でも、日韓の文化交流は静かに行われている。

 この日の昼食は、シンセゲデパートのレストラン街で食べることにした。いろいろと高級な店が揃っているが、私たちが選んだのは、一番庶民的なビビンパの店だった。とても上品な味だった。食後、レストランフロアから直接出ることが出来る屋上へ出た。ここは、どうしてなのかわからないが、「ZOORAJI」という名前の、恐竜たち(もちろん作り物)が並ぶ遊園地になっていた。平日なので、あまり見物人はいなかった。ここをざっと一回りしてから、階下に降りて、館内を見物することにした。「映画の殿堂」で日傘を置き忘れてきた妻が、ここの特売会場で日傘を買うということがあったが、その他には特に買い物はしなかった。さすがに、店内は広大だった。これなら、十分、館内でまる一日過ごせるだろう。

 館内に、韓国一の書店、「教保文庫」の、とても広い売り場があった。あらゆる書籍が揃っている。韓国でも日本の作家の小説は人気があり、この時も、村上春樹の新作「色彩のない多崎つくると、その巡礼の年」の韓国語訳本が大量に平積みされていた。韓国でのハルキの人気はとても高い。日本と韓国を行き来している韓国人の若い日本研究者が、この小説を読んで、「自分も日韓和解の巡礼の旅に出たい。」と最近のコラムで書いていた。日韓両国民にとって、歴史との和解はとても難しいと思うが、諦めてはいけない。他の日本人には、私たちのように、韓国の映画やドラマを見、どんどん韓国に出かけて、生の韓国を体験して欲しいと願うばかりだ。私自身の今後の課題は、韓国の小説を読むこと、そして、韓国語を学ぶこと、かな。(2020年の註:ここ数年、韓国、特に女性作家の作品が日本でブームになっている。同時に、多和田葉子さん、川上未映子さんらの日本の女性作家の作品も欧米で高い評価を受けてるようになった。つい最近も、柳美里さんの小説が全米図書賞の翻訳部門で受賞した。欧米の視点で見ると、日本も韓国も同じようなものかもしれない。つまり、東アジアの文学全般が評価されているということだろう。既に、韓国人女性作家、ハン・ガンの作品がブッカー国際賞を受賞している。なお、私自身も、現在、韓国語を少しずつ独学しています。進歩は遅い。それでも、「愛の不時着」のセリフは、ところどころ聴き取れた。)

 この、デパートと呼ぶより、巨大なショッピングセンターと言った方が相応しい建物には、他に、アイススケートのリンクや温泉施設までがあった。もちろん、シネマコンプレックスも。歩き疲れた私たちは、館内のカフェで少し休んだ後、次の目的地へ向かった。BEXCOである。BEXCOとは、釜山国際展示場のことだ。延床面積92,761平方メートルの広大な施設である。大規模展示会や各種会議、イベント、スポーツイベントなどが、ここで開催されている。センタムシティの場所は、かつて国際飛行場があった所だと言うことは、既に紹介したが、このBEXCOの建物は、仁川空港がそのまま引っ越してきたかと思うような、巨大な現代建築だった。本当に大きい。これだけ大きいと、施設の全てを使ったイベントは希だろう。私たちが訪れた時には、会場の一部だけを使った、就職説明会のイベントが開かれていて、学生らしい人たちが大勢出入りしていた。施設の広さを実感してみようと、少し歩き回ってみたが、疲れた。自転車で移動できればよかったのに。(ちなみに、国際会議場を除いた、幕張メッセの延床面積は、ここよりも更に大きかった。132,697平方メートルである。さすが。)

 次に訪れたのは、釜山市立美術館だった。美術が好きで、日本ではよく美術館に行くが、韓国の美術館に入るのは、ソウルのサムソン美術館Leeum以来のことだった。すぐそこにあるし、時間が余ったから、入ることにしたのである。展示内容に興味はなかった。それ以前に、どんな展覧会が開かれているのかも知らなかった。入館料はいらなかった。美術館の外観は、倉庫のようで無機質だったが、内部は、床と壁が大理石に覆われていて、美術の殿堂という風格があった。その日の展示は、在日の実業家が釜山市に寄付したらしい、個人コレクションの展示だった。ルオーから、アンディ・ウオーホルまで、雑多なコレクションだが、なかなかレベルの高い作品が揃っているように見えた。日本人作家の彫刻作品もあった。思いつきで入っておいて良かったと思う。欧米以外の国で、なかなか美術館に入る気にならないのは、日本人の傲慢な偏見かもしれない。

 帰国のフェリーの手続きがあるので、夕食は早い時間に済まさないといけない。夕食は、新世界(シンセゲ)ではなく、隣のロッテデパートのレストラン街でとる事にした。その前に、ロッテデパートの内部を探訪。ここにも、シネマコンプレックスがあった。韓国でもファンが多い、宮崎駿さんの「風立ちぬ」が上映されていた。ロッテデパートで食べた、釜山最後の夕食は、韓国料理ではなく、イタリア料理だった。韓国のイタリア料理ってどうなんだろう。そんな興味があった。家内はパスタを、糖質制限をしている私は、ハンバーグ(イタリア料理?)を注文した。噂によると、韓国のハンバーグにはトウガラシが入っているらしい。日本のハンバーグとは違う味だなとは思ったが、特に辛くはなかった。味は、いまいちだったけれど。食事を終えた私たちは、地下鉄で中央駅へ向かい、荷物をコインロッカーから出して、歩いて旅客ターミナルへ向かった。

 「はまゆう」の出港予定は午後8時だったが、積荷の都合があって、出港は少し遅れるというアナウンスがあった。でも、どうせ余裕があるから、下関到着は予定通りということだった。私たちは、7時に乗船した。甲板に出て、釜山の街の夜景を眺めた。山の中腹付近まで拡がる建物の窓や街路灯の灯りが暖かく、そして美しく輝いて見えた。長い航海を終えた昔の船乗り達は、こんな光景をみると涙ぐんだのではないだろうか。山と海に囲まれた釜山の街は、街全体がクリスマスツリーになったような、幻想的な光景だった。これで釜山とはお別れです。次に、「釜山港に帰る」のは、いつの事だろうか。

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