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ダイプリの旅1 長崎

 7日午後に横浜港を出てから太平洋を南西に向けて航行したダイヤモンド・プリンセスは、5月9日の朝9時、予定通りに長崎港の松ヶ枝国際ターミナルに着岸した。目の前に、芝生が地上から丸く盛り上がったような蒲鉾形の洒落たコンクリート打ちっぱなしのターミナルビルが見えた。(後で入出国検査をするターミナルビルは別にあることがわかったのだが。)近代的な美しい埠頭だ。入港と出港の光景こそが船旅の最大の魅力の一つだと先に書いた。各地の良港がみんなそうであるように、長崎港も湾が奥深く陸地に入り込んでいて、海と言うよりも大河をさかのぼっていくような気分だった。タグボートの誘導で巨大な船が一回転して接岸した。私たちの船室は左舷、つまりポートサイドにあったから、出港時に地元の観光協会のひとたちが岸壁で催してくれる見送りイベントなどの絶好の観覧場所になった。長崎でも、出港時に中学生か高校生のブラスバンドが見事な演奏を披露してくれた。でもそれは出港時の話。今はまだ入港時である。ビルの八階くらいの高さにある私たちの船室のデッキからは、緑に包まれたグラバー邸らしい建物の屋根と、大浦天主堂らしい塔の先端が見えた。久しぶりの長崎だ。胸が高鳴った。

 ダイヤモンド・プリンセスでは、寄港地ごとにエクスカージョンと称するオプションツアーがいくつも用意されていた。長崎の場合は、市内観光の他にハウステンボスや雲仙に行くツアーなどが用意されていた。でも私たちはどのツアーにも申し込まなかった。初めての街ではないし、行きたい場所が決まっていたからである。私が見たかったのは、江戸時代の姿を復元した出島(ただしくは出島和蘭商館跡)と、西九州新幹線が開通して大変貌を遂げつつある長崎駅周辺だった。家内が見たかったのはシーボルト記念館と坂本龍馬の亀山社中趾。いずれも敬愛する司馬遼太郎の小説にゆかりの場所で、本来ならば私の方から行こうと提案すべき場所だった。

 家内と二人で長崎に来たのは二度目だった。前回来たのは1991年。32年も前のことだ。その時はレンタカーで、平戸やハウステンボスの前身である「長崎オランダ村」をめぐった後に長崎市内に入り、ここで一泊して、グラバー邸や平和公園などの市内の主な名所を見物してから、お隣の佐賀県の伊万里へ向かった。その時の記憶は今もある。長崎はぜひとももう一度訪れたい魅力のある街だった。私たちは大きな期待とともに船を降りた。最初に向かったのは出島。クルーズターミナルは比較的都心近くにあったので、私たちは出島まで歩いていくことにした。

 新京都学派のリーダーだった桑原武夫教授は、東アジアで日本だけが近代化に成功したのは出島があったからだと言っておられた。世界に国を鎖したた江戸時代にも4カ所の窓があった。その一つで最も輝かしい窓が出島だった。出島から世界の最新知識が日本にもたらされた。明治以降に周囲を埋め立てられて島ではなくなった出島を過去の姿に復元する計画は戦後まもない頃に始まったそうだが、本格的な復元工事が始まったのは1996年のことだった。その後着々と工事は進み、現在、ほぼ完成に近づいた。私たちは正面の長い歩道橋を渡って出島に入った。中にはいくつもの建物が復元されていた。昔の絵を見て想像を広げるのも悪くはないが、こうして物体として復元された数々の建物を間近に見たり中に入ったりして、はじめて出島という場所を実感することができた。復元された出島は実際のものよりもやや狭いそうだが、それにしても狭い。こういう場所に、はるばる日本にやってきたオランダ人たちは閉じ込められていたのだ。

 かつての4つの窓のひとつだった、釜山の倭館に関する本を読んだことがある。幕府から朝鮮との外交を委任されていた対馬藩が現在釜山タワーが建っているあたりに建設したものだが、ここでは朝鮮の女性を倭館に招き入れたといって本国に召還された武士の話が出ていた。さすがに切腹にはならなかったようだ。この出島では、どうやら丸山の遊女などの出入りが許されていたようだし、後に述べるシーボルトのように、外出も許されていたようなので、さほど厳重に閉じ込められていたわけでもなかったようではある。そういえば、江戸時代の出島を舞台にしたデヴィッド・ミッチェルの「出島の千の秋」という小説を読んだことがある。詳細は忘れたが、たしか出島に出入りする女性と商館の書記との淡い恋の物語だった。今でも記憶に残っているシーンがある。英国との覇権争いに敗れてオランダの国際的な地位が低下しつつある時期に出島に英国の軍艦が侵入した。オランダ国旗が奪われようとした時に、主人公は決死の覚悟でそれを守る。今や、アジアでオランダ国旗が堂々と掲揚されている場所はこの出島だけなのだ、どうしても守らなければならない、というようなシーンだった。

 出島にいくつも復元された建物の中でも最も大きい建物である「カピタン部屋」が一番面白かった。二階にクリスマスを祝う宴会の様子などが再現展示されていた。当時の和蘭商館駐在オランダ人たちの生活の一端がうかがえた。医官として赴任してきたシーボルトもかつてここにいたのだと考えると興趣はさらに深まった。

 出島を出た私たちが次に向かったのは長崎駅だった。今度は路面電車に乗っていくことにした。長崎は路面電車の街である。出島の次の大波止という駅から乗って二つ目の駅が長崎駅だった。JR西日本の交通カードであるICOCAカードが使えた。西九州新幹線の開通で大きな変貌をとげつつある駅周辺はまだ工事中である。でも今年中には完成しそうだ。これとは別に、駅の北部ではサッカースタジアム、アリーナ、ホテルなどの複合施設の建設が始まっている。主な事業主は長崎に本拠を置くジャパネット・タカダだ。これが完成すれば、長崎駅やその横の出島メッセなどと合わせて、この周辺一帯は国際的な集客エリアになるだろう。間違いなく、長崎の中心はここになる。かつて、JR京都駅や博多駅がそれぞれの街の中心を従来の繁華街から移動させたことが長崎でも起こるだろうと思った。でも、今までの長崎市の中心ってどこだったのかな。思案橋かな?いずれにしても、建築や都市計画に興味と関心のある私にとって、長崎駅周辺の工事中の光景は見飽きないものだった。完成したら新幹線に乗って見物に来よう。

 さて、私の見たい場所を先に見終えたので、次は家内の番である。駅の案内所でたずねたら路面電車が便利だというので駅前から再び路面電車に乗った。今度は市の東側、蛍茶屋行きの電車である。かなりの距離を移動して新中川町という停留所で降りた。長崎はなかなか大きい街だ。停留所から徒歩7分ということだったが、上り坂の狭い道を10分以上歩いたように思う。ようやく鳴滝のシーボルト記念館に到着した。家内がここに来たかったのは、結婚前のまだ二十代だったころに友人と来たことがある場所だったからだ。その頃にはまだシーボルト記念館はなかったが、鳴滝塾跡にシーボルトの像が立っているのを見たという。当時の記念写真も残っているそうだ。ほとんど半世紀ぶりにその像に再会して家内は感激していた。

 シーボルト記念館はヨーロッパにあるシーボルト邸を参考にしたという洋館風の立派な建物だった。展示もかなり充実していた。でも、都心部から遠いせいか観光客はあまり来ないようで、この時の入館者は我々二人だけだった。この記念館はかつての鳴滝塾の跡の隣の敷地に建っている。出島の商館の医官だったシーボルトは幕府に許されて、出島から遠く隔たったこの鳴滝の地で塾を開くことを許され、日本各地から俊秀がここに集まった。その中に高野長英もいた。記念館の展示物のひとつにシーボルトの家系図があり、そこにシーボルトの娘であり日本初の女医だった楠本いねの名前と写真があった。司馬遼太郎の作品の中でも私が特に好きな「花神」は大村益次郎を主人公にしているが、彼が維新後に京都で刺客に襲われた時、最後まで病床につきそったのが楠本いねだった。小説は益次郎といねの淡い恋を描いている。この小説はNHKの大河ドラマにもなっていて、益次郎を演じたのは前進座の中村梅之助、浅丘ルリ子がいねを演じた。シーボルトは日本に西洋医学や博物学を伝えたが、いねという美しい女医も残したのである。

 次に向かったのは亀山社中記念館である。いうまでもなく、坂本龍馬の海援隊の本拠地だ。路面電車を一駅戻って新大工町で下車した。そこから標識を頼りに細い坂道をあがっていった。これがなかなかわかりにくい道で、途中で迷ってしまった。途中出会った人に尋ねて再び歩き始める。墓地の間をうねるように続く実に狭い坂道をのぼっていると、この道であっているのかどうか不安になったが、なんとか到着した。知らないうちにかなり高台に上がってきたようで、眼下に長崎市街がきれいに見えた。長崎の地形は釜山に似ているなと思った。山の斜面に沿って人家がびっしり建ち並んいるところなどそっくりだ。遠くに海が見えるところも。そんな景色を眺める龍馬のぶーつ像を過ぎると、すぐ横が亀山社中記念館だった。龍馬はどうしてこんな不便な所に本拠地を置いたのか、もっと良い場所があっただろうにと思った。それほどの坂道だった。後で観光案内を読んだら、風頭山のバス停でバスを降り、龍馬像や現代の龍馬のイメージを決定的に生み出した司馬さんの「竜馬がゆく」文学碑がある風頭公園を経て、龍馬通りをつたってここに来るのが、ずっと下り道だから楽なルートだったようだ。記念館の中にはさしたるものはなかった。ちなみに、この記念館の名誉館長は有名な龍馬ファンで知られる武田鉄矢さんだそうである。彼が寄贈した龍馬像の掛け軸が飾ってあった。

 全ての見物を終えて昼をとっくに過ぎてしまった。中華街で長崎ちゃんぽんを食べなければいけない。亀山社中から中島川のあたりまで歩いて降りてきたが、さすがに疲れたのでタクシーに乗ることにした。運転手に行き先を告げると、長崎新地中華街はもう昼休みの時間だから、行っても無駄になるかもしれないと言う。これは大変だ、昼食を食いっぱぐれるかもしれないと思ったが、とにかく中華街に行ってもらった。そして、中華街の入り口にあった「京華園」という店に飛び込んだ。滑り込みセーフだった。もうラストオーダーの時間だが閉店まではあと30分あるという。とりあえず、ちゃんぽんと麻婆豆腐とカニ玉を注文した。二人でシェアして食べる。糖質制限をしている私はちゃんぽんを食べられないので、家内から一口だけ分けてもらった。美味しかった。

 なんとか今回の長崎見物は無事に終わった。あまりに時間が少なかったが仕方がない。サッカースタジアムなど、駅前の整備が完成した頃に長崎にはまた来よう。午後6時にはダイヤモンド・プリンセスは済州島に向けて出港の予定である。それまでに出国手続きを済まさなければならない。中華街から路面電車に乗ってクルーズターミナルまで帰ろうと思ったが、スマホの地図を見ると、中華街から港までは思ったよりも近かったので歩いて帰ることにした。途中にオランダ坂があったが、今回はスルー。

 今回の全ての旅を終えて帰宅してから、司馬さんの「街道をゆく」を読みかえした。「肥前の諸街道」の中に長崎に関する記述があった。この知の宝庫ともいうべきシリーズは文庫本で全巻そろえていたのだが、司馬遼太郎全集を買った時に、重複するからと全て処分してしまった。失敗だった。文庫本なら辞書のようにいつでも簡単に読み返せるし、今回の旅にも持っていくことができたのだから。読んでみて、今回の旅の参考にはならなかったなと思った。シーボルトや龍馬の名前も出てくるが、ここで司馬さんが書こうとしていたのは江戸期の長崎ではなく、その前の南蛮時代の長崎だったからである。だから長崎よりも平戸の記述が多かった。面白かったのは長崎という地名の由来である。この地を支配した大村氏の配下に長崎という武士がいた。普通は地名が先で、国侍はその地名を名乗ることが多いのだが、長崎の場合は東国から移ってきた長崎氏の名前が地名になった可能性があるという。いずれにしても、長崎という天然の良港を発見したのは長崎氏だった。その長崎氏が仕えたキリシタン大名の大村氏が、良港を持つ長崎の地を南蛮人の宣教師に寄進したことがきっかけで長崎の街が出現したのである。実に興味深い。なお、旅行から帰ってから調べたのは「街道をゆく」だけではなかった。前回、二人で長崎に行った時にもちゃんぽんを食べた記憶があるのだが、それはどの店でだったのかということも調べた。当時の日記をパソコンで探したらファイルが壊れているとかで開けなかった。こんな事もあるんだ。それなら紙に書いておくほうが確かだった。でも、アルバムに当時の写真が見つかった。四海楼だった。昭和天皇も訪れたという、有名なちゃんぽん発祥の老舗だ。この店は中華街とは違う場所にあったが、ダイヤモンド・プリンセスから建物が見えていた。惜しいことをした。次回、長崎に行くことがあればぜひ寄ってみよう。


 

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