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「連載第四回」

 「鼓二郎起きろ!」兄の声で鼓二郎は目覚めた。子供の頃から皷二郎は寝起きが悪く、父母や兄からよく叱られていた。とっくに元服した今、兄の声で目覚めるのは随分久しぶりの事だった。
 「何やら韓人らが騒がしい。何か起こったようだ。お前、行って何があったか確かめてきてくれ。」藩の重役である自身では動きにくい、かといって、家臣の報告では心許ない。ここは鼓二郎の出番だった。的確な観察眼と判断力を持つ皷二郎は、子供の頃から兄に信頼されていた。兄は町民の扮装をして、だんじりの屋根に上がるような乱暴な少年だったが、鼓二郎は子供の頃から冷静沈着だった。鼓二郎は急いで服装を整え、使節団が起居する宿舎へ向かった。複雑に入り組んだ廊下には何人もの人が慌ただしく行き交い、何か事件が起こったことは明らかだった。通信使一行が滞在している一画に近づいた時、皷二郎は見覚えのある顔に気づいて声をかけた。
 「阿比留さんじゃありませんか。一体、何が起きたんですか。」阿比留は対馬藩の侍の一人だった。伝蔵の上司で、岸和田にも一緒に来たことがあった。
 「あっ、これは嶽様。どうも大変なことが起こったようです。
韓人が刺された上に、どうやら刺したのは日本人らしいんです。」
 「で、その韓人は死んだんですか?」
 「まだ分かりません。ただ、日本人に刺されたと人に話したようなので、刺されてすぐに死んではいないようです。なんとか助かってほしいものですが、それにしても刺したのが対馬藩の人間じゃないといいんですが、心配です。」

 阿比留が知っているのはその程度らしかった。鼓二郎は、さらに事情を調べるべく、さらに廊下の奥に進んだ。しかし、それ以上の情報は得られず、とりあえず戻って兄に現状を報告することにした。この七日未明に発生した事件の概要がようやく明らかになったのは十三日になってからである。この事件をどうしても国際問題にしたくなかった対馬藩は、この事件は朝鮮人同士の諍いか、あるいは死んだ崔天宗の自殺であると主張した。崔天宗は朝鮮政府の中官で都訓導。司訳院に所属し日本語が専門だった。しかし、通信使側は、対馬藩の主張に真っ向から反論した。これは殺人事件であり、犯人は日本人である。被害者は、鏡泥棒の日本人にやられたと死ぬ前に言っているし、目撃証人もいる。犯人を捕まえて処罰しない限り、我々は大坂を動かないと。結局、国際問題になった。町奉行に加えて、幕府が本格的に動き始めた。真っ先に調べられたのは、崔天宗と最も深く関わっていた、対馬藩の通詞たちである。片っ端しに捕縛され、厳しい吟味を受ける事になった。結局、彼らの口から、鈴木伝蔵の名前が挙がった。崔天宗の死ぬ前のおぼろげな証言と、韓人による逃走中の犯人の後ろ姿の目撃証言等から、犯人は、対馬藩の通詞、鈴木伝蔵に間違いないと断定された。伝蔵は、まだ逃走中で行方は不明だった。前代未聞の大事件である。こじらせては、朝鮮国と日本国との国と国との争いにもなりかねない。多くの人々が心配したのは、まずはそのことだった。事件の解決を急がねばならない。大坂で生じた炎は大坂で鎮火しておかねばならない。江戸にも漢城(ソウル)にも飛び火させてはいけないのだ。そのためには、まずは犯人を一刻も早く捕縛することだった。皷二郎もまたそう考えた。

 「兄上が、大坂での警備役である岸和田藩への幕閣からの責めをどう軽くするかを考えるのは、お役目柄から言って仕方がないことですが、今回の事件は、岡部家の責任云々を超えて、幕府や日本国そのものの威信に関わることです。ここは、我々の預かり知らないことだと主張するのではなく、大坂ご城代や町奉行の方々さらには対馬藩とも力を合わせて、問題が大きくならないように動いてください。私は、これから伝蔵の行方を捜します。心当たりがなくもありません。」
 「心当たりって、一体何だ?」
 「実は、伝蔵の通詞仲間数人から話を聞いています。彼らの仲間がどうやら伝蔵の逃走を助けているらしいんです。ひょっとすると、お咲きも関係しているかもしれない。」
 「お咲きが?どうしてお咲きがここに出てくるんだ。」
 「お咲きと伝蔵はずっと恋仲でした。どうやら大坂でも二人は会っていたようです。ひょっとすると、事件の後、伝蔵はお咲きに会いに行っているかも知れません。」
 「ふーん、それは初耳だ。驚いたなあ。とにかく、そちらの探索はお前に任す、俺はとりあえず殿様と相談して、幕閣の方々に連絡を取ってみる。もし伝蔵の逃走先がわかったら、すぐに町奉行に報告しろ。俺はその後でいい。いやあ、それにしても大変なことになったなあ。」

 兄にはそう言ったものの、鼓二郎にお咲きの居所のあてがあったわけではなかった。こんなところでも、近頃のお咲きと自分との間の距離の遠さを実感するのだった。自分はお咲の事をこんなに思い続けているのに、お咲きの頭の中に自分の存在はひとかけらもないのだ。鼓二郎は、とりあえず伝蔵と親しかった通詞から話を聞く事にした。先日、他の通詞たちから、伝蔵の逃走の助けをしたのではないかと言われていた人物がいる。その時には、当人は町奉行所で事情を聞かれていて会えなかった。その男が、何日かの厳しい吟味の後、ようやく解放されていた。岸和田を訪れる時、伝蔵は多くの同僚を連れてきたので、この壮介という人物とも、鼓二郎は顔なじみだった。久しぶりに会う壮介の顔は、ところどころ青黒くなっていた。吟味の厳しさが想像できた。

 「ずいぶん手酷くやられたようですね、壮介さん。」
 「鼓二郎さん、いや、嶽様、私は悔しいです。死んでも伝蔵の行方を吐かないつもりでした。でも、藩命で仕方なく喋ってしまったんです。」
 「ということは、追手が向かったということですね。もう伝蔵は捕まったんですか?」
 「いや、まだです。どうやら、一脚違いで逃げたようです。このまま逃げ切れるといいんですが。」
 「ひょっとして、お咲も一緒に逃げているんですか?」
 「わかりません。私が知っているのは、寺町の誓福寺で伝蔵を匿って、伝蔵の頼みで、お咲さんもそこへ呼んだというところまでです。その後、とりあえず京都へ逃げて、そこから何としても対馬にまで伝蔵を帰らそうと相談していました。私は他の通詞仲間と策を練るために、一旦、宿館に戻ったところを町奉行に捕まってしまったんです。」

 鼓二郎はお咲のことが気になって、すぐにでも誓福寺に行きたいと思ったのだが、今から寺に行っても多分お咲はいないだろうし、壮介が何かを訴えようとしている様子だったので、そのまま壮介の話を聞くことにした。その後、壮介が話したことは、鼓二郎にとっても驚くようなことばかりだった。

 「対馬藩が朝鮮国なしには生きていけない事は、私たちもよく承知しています。米だって毎年もらっているし。何しろ、対馬は山ばかりで米が取れませんからね。朝鮮政府だって、外国に只で米を援助するわけにはいかないから、形式的には対馬は朝鮮に属する一地方に過ぎない事になっているんです。多くの日本人は知らない事ですがね。対馬の人間は朝鮮政府の中央の役人たちから今まで随分とひどい扱いを受けてきました。彼らは、私たちを自分たちよりずっと品性の卑しい下等な人間だと思っている。辺鄙な地方に住む華夷秩序を知らない野蛮人だと。昔、太閤に攻められた時の怨みがまだ残っているのかと思いましたが、もっと根が深い感情だと私は思います。雨森芳洲先生は隣国との「誠信の交わり」の大切さを説かれたし、朝鮮でも、ずっと昔の人ですが、世宗王にも信頼され、通信使として日本に来たこともある申叔舟という高官は、その遺言で日本との友好の大切さを説いたそうです。どちらも、とても立派な考えです。でも、現実はそうではないんです。私の同僚には、通信使の人間から顔に唾を吐かれたり、日本の料理は食べ飽きたから、鶏を捕まえて持ってこいと無理を言われたりして困っていました。どの大名家も苦しい台所事情の中、幕府の目を気にして精一杯の接待をしているのに、彼らはそれを当然だと思っているんです。殿様はそんな事情をご存知だから、もしも武士の体面を汚されるようなことがあれば、朝鮮人を斬っても構わない。その時は切腹もするな。対馬まで密かに逃げ帰れと私たちに話されたんです。伝蔵もよく知っていると思います。だから、伝蔵は逃げたんです。そして、私たちはその伝蔵を助けようとしたんです。」


 「つまり、伝蔵は、殺された崔天宗という韓人に武士の体面を汚されたということですね。一体何があったんですか。」


 「伝蔵の話では、衆人環視の中で、鏡泥棒と罵られただけではなく、頭を打擲されたそうです。鏡泥棒は身に覚えのないことでしたが、弁解を全く聞いてくれなかったそうです。その場ではなんとか我慢したものの、夜になってもどうしても気持ちが収まらず、殿様の言葉を思い出して、未明に崔天宗の寝所に忍び込んで半槍で刺したという事でした。刺してしまった後、大変なことをしたと気がついて、私達通詞仲間のところへやって来たんです。私たちはすぐに伝蔵を逃す手はずを考えました。まず、以前から対馬藩と深い付き合いのある誓福寺に匿い、その後、有馬温泉で一旦身を隠し、丹波方面に向かい、山陰の山中か海沿いに九州まで至るという道筋を考えていました。多分、伝蔵は今その行程を逃げていると思いますが、もう町奉行もその事を知っていますから、逃げきれないでしょう。それもこれも、私が白状してしまったからです。本当に情けない。伝蔵とは子供の頃からの一番の友だったのに。」

 そう言って泣く壮介を慰めて時間を費やした鼓二郎は、ようやく誓福寺に向かうことができた。今更行ってもお咲きはもういないだろうと思ったが、他に行く宛がなかった。とりあえず、自分の目で確かめるしかない。果たして、誓福寺にお咲きはいなかった。それどころか、誰もいなかった。対馬藩の通詞連中だけではなく、寺の住職たちも町奉行所に連れて行かれたという。ただ、小坊主が一人残されていた。その小坊主の話で、お咲は町奉行所の役人たちが来る前に、伝蔵と一緒に旅立った事を知った。一人で逃げるという伝蔵にお咲が無理やり同行したのだと言う。その時に、この小坊主は意外な話を聞いた。伝蔵は本当に韓人から鏡を盗んだのだ。しかも、その鏡は、韓人が持っているのを見て、お咲が欲しがっていた鏡なのだという。つまり、伝蔵は、お咲のために盗みを働いた事になる。それなのに、打擲されたのを逆恨みして罪のない韓人を殺したのだ。

 「この事は、他の通詞の皆も知っているのか?」
 「いいえ、お二人の話を立ち聞きしたのは私だけです。まだどなたにもお話していません。」
 「それはよかった。できれば、この事はこれからも誰にも話さないでもらいたい。そうだ、ここに私の銭袋がある。生憎、今はこれだけしか持ち合わせがないが、これで何か美味しいものでも買いなさい。」
 「これは口止め料ですか?」
 「いや、そういうことではない。お咲や伝蔵が世話になった礼だ。」
 「そういう事でしたら遠慮なくいただきます。ご心配はいりません。誰にも話しませんから。」

 鼓二郎にできる事はもう何もなかった。兄に状況を説明した後、鼓二郎はただ、西本願寺別院で知らせが入るのを待ち続けた。日本側の対応に不満を持つ通信使の一行もまた、犯人が捕まるまで大坂にこのまま止まると宣言していたからである。伝蔵が捕縛されたのは十八日だった。摂津池田村での目撃情報を受け、大坂町奉行所の与力達が近くの小川村でついに伝蔵を発見したのである。伝蔵は、一人で有馬に向かう途中だったという。お咲は一緒ではなかった。その翌日、幕府から目付の曲淵勝次郎が派遣されて、対馬藩に対して厳しい吟味を要求した。一旦釈放されていた通詞仲間ら、関係者一同が再び牢に入れられた。その関係者の中に、お咲の姿はなかった。お咲はどこへ行った。皷二郎は焦った。でも、どうしようもなかった。

 伝蔵や通詞仲間らは、拷問に近い厳しい取調を受けた。その結果、逮捕後十日目に死罪の判決が出た。本来、大坂町奉行所で死罪の判決を出すには老中の許可が必要である。しかし、曲淵はそれを無視した。事は国と国との関係に関わる一大事である。何しろ、徳川幕府が正式な国交を持っているのは朝鮮国ただ一国なのだ。全権を委任されていた曲淵は強硬だった。対馬藩は抵抗した。これはそもそも私闘に過ぎない。崔天宗にも非があった。伝蔵は武士の面目を守ろうとしただけである。閉門謹慎が適切である。これが国と国との問題だというのなら、そもそも幕府から朝鮮との応接は権現様以来、当対馬藩が一任されている。どうか我々に通信使の方々と折衝させていただきたい。しかし、これらの抗弁は曲淵に受け入れられる事はなかった。

 五月二日、鈴木伝蔵は、木津川口の月正島処刑場で斬首された。通信使の一行の内、三使をはじめとする五十数名が対岸の船からこの処刑を見守った。その間も対馬藩は必死に動き続けた。その結果、幕府から朝鮮政府への直接の結果報告はしないことになった。対馬藩主の自発的謹慎や伝蔵の親族の謹慎も解除された。つまり、処分は、事実上、伝蔵だけのものになったのである。対馬藩への処分は一切なかった。伝蔵の処刑を見届けた通信使一行は七月に漢城(ソウル)に帰りついた。事件の報告を受けた英祖王は、これを私的な争いとして処理し、国としては問題にしないと決めた。これで全てが終わった。しかしながら、必ずしもこの伝蔵の事件のせいばかりとは言えないとしても、歴史的事実として、漢城と江戸を往来する通信使はこれが最後になった。次の通信使は対馬止まりとされ、その後、廃止された。しかし、これは後々の事である。この時、鼓二郎達は、そんな事を想像するよしもなかった。

                         (つづく)


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