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中国の旅 #4


 2度目の上海   2009年

 私たち夫婦が、2度目に上海を訪れたのは2009年のことだった。最初の旅から18年が経過していた。上海はまったく別の都市に変貌していた。リーマン・ショック後の世界経済の牽引車役を一身に期待されている中国、その経済的首都である上海は、翌年の万博開催を控えて、街中が工事や化粧直しの真っ最中で、人々は活気に溢れていた。私たちは、上海が世界の中心のひとつであることを実感した。

 前回の伊丹空港ではなく、関空を飛び立った全日空機は、約2時間半後に着陸態勢に入った。いつものように窓際の座席に座っていた私は、飛行機が着陸するまで、子供のように、ずっと下界を眺め続けた。まず目に入ってきたのは、泥の色をした水面である。それが海なのか河なのかわからなかったが、船が何艘も浮かんでいた。船は静止しているように見えた。水面には、まっすぐな線がひかれていた。この線は何だろう。ここは干拓地なのだろうか。そんな事を考えているうちに、下界は水から陸地へと変わった。見事に整備された農地の拡がりである。長方形に区切られた農地が延々とつらなり、農地の間に、橙色した屋根の集落があちこちに見えた。農地は水田なのか畑なのかはわからなかったが、とても豊かな田園風景だった。日本で、これと似た景色を飛行機から見たことがある。八郎潟の干拓地だ。今、眼下に拡がる農地は、それよりもずっと規模が大きいように思えた。

 飛行機は、どんどん高度を下げて、やがて滑走路に着陸した。上海浦東空港である。18年前には、たぶん存在しなかったのではないか。あの時は、古びた虹橋空港へ着いた。海べりにある上海浦東空港は広大なピカピカの空港だった。その、だだっ広さも、現代的な空港の建物のデザインも、ソウルの仁川空港を思わせるものだった。つまり、関空をはるかに凌駕する巨大空港だった。来年の上海万博の準備は、空港に関する限り、完了しているようだった。あまりに巨大すぎて、上海浦東空港は閑散としていた。現地旅行社の車で、空港からホテルへ向かった。約1時間半の行程である。同乗者は3組いたが、それぞれが違うホテルに泊まるようだった。まず向かったのは、浦東にあるインターコンチネンタル・ホテル。おかげで、今回の旅の大きな目的のひとつだった、上海環球金融中心(上海ワールド・フィナンシャルセンター)ビルやテレビ塔(東方明珠塔)を、いきなり間近で見ることになった。これらの建物群に車がだんだん近づいていく時の感覚は、21年前、初めてのニューヨーク旅行で、マンハッタンの超高層ビル群が、影絵のように遠方に見えてきた時の感動に近いものだった。私は、とにかく超高層ビルが大好きなのである。
 
 今回、私たちが泊まったJWマリオット・ホテルは、浦東地区ではなく、市役所や人民広場に近い、南京西路地区にあった。尖塔のようなデザインの、超近代的高層建築だった。このホテルを選択したのは家内だったのだが、結果的には正解だったと思う。なによりも、眺望が素晴らしかった。建物の38階にあるフロントでチェックインした時、あまりに凄い景色に舞い上がってしまって、手続きそっちのけで、窓外の写真をとりまくった。眼下の緑の拡がりは人民広場だ。かつてのイギリス租界当時、競馬場だったところである。44階の私たちの部屋からの景色も素晴らしかった。見渡す限り山の姿が見えないところは東京に似ている。高速道路が走り、高層ビルの林立する上海は、まさに21世紀の大都市だった。ビルとビルの谷間にかろうじて残っている、古い上海を思い出させる低層の建物群は、今度、上海に来たときには存在しているだろうか。

 前回、上海へ来た時には自由時間がほとんどなかったので、魯迅の墓参りをすることができなかった。せっかく上海に来たのに、魯迅に挨拶しないわけにはいかない。というわけで、ホテルのチェックインを済ませた私たちがまず目指したのは、魯迅の墓のある魯迅公園だった。午後2時、時間はまだたっぷりとあった。私たちは、ホテルからほど近い、人民広場駅から地下鉄2号線に乗って、魯迅公園のある虹口足球場駅へ向かった。広大な人民公園の地下は、大阪の梅田のような巨大地下街になっていて、地下鉄の路線も3本が乗り入れていた。迷路であるが、さすがに国際都市上海、標識がしっかりしているので、迷うことはなかった。今回とても助かったのは、現地旅行社に、公共交通のプリペイドカードをもらっていたことである。日本と同じようなタッチ式のカードである。いちいち窓口でチケットを買う必要がなく、これがとても便利だった。上海の地下鉄は快適だった。ホームには、安全のためのガラス・ウオールが設置されている。駅の行き先表示もわかりやすく、車内も清潔だった。

 駅名でわかるように、魯迅公園は大きなサッカー場の隣にあった。広大な公園で、真ん中に池や芝生の広場がある。緑が豊かだった。この日は5月1日。労働者の祭日である。この日から3日間は、中国でも連休だということで、公園には人が溢れていた。かつては虹口公園という名前だったのが、生前の魯迅がよく散歩をしていたことから、魯迅公園と改称された。虹口地区は、かつて、日本租界だったところである。戦前戦中の上海は、イギリス租界、フランス租界と、日本租界にほぼ三分されていた。かつて日本に医学生として留学し、日本の文学にも精通していた魯迅は、内山書店との関係などもあって、晩年を虹口地区で過ごして、ここで亡くなった。

 魯迅公園には、魯迅の墓、魯迅の銅像の他に、魯迅紀念館があった。墓に詣でたあと、この紀念館を見物した。厳めしい人民軍の軍人みたいな人が玄関にいて、入場は無料だった。孫文と毛沢東をつなぐ位置にいた魯迅は、今でも中国の国民的作家として尊敬を受けているようで、多くの写真や資料、映像などの展示に見いる入場者は、皆、なかなかに真剣な表情だった。中には、魯迅が着用したコートと帽子の展示があったが、漱石に似て小柄な人だったんだなと、感慨をおぼえた。館内には、内山書店を再現したミュージアム・ショップがあって、魯迅の著作などを売っていたが、何も買わずに出てきてしまった。今思うと、残念なことをした。

 かなりな暑さの中、広大な魯迅公園を歩き回って疲れた私たちは、公園の前で見つけたホテルのロビーで休憩することにした。JWマリオットでもそうだったが、中国ではほとんど日本語が通じない。ここでも、係の可愛い女の子とのカタコトの英語でのやりとりで、やっとカフェラテとサンドイッチを注文できた。どちらもなかなか美味しかった。元気を回復して、行動再開。次に向かったのは、近くにある「多倫路文化名人街」である。上海政府が10年ほど前から観光用に整備してきた地区で、このあたりには、魯迅や郭沫若などの、日本に所縁のある中国文人の他、金子光晴、松本重治、尾崎秀実などの日本の文化人が多く住んでいた。上海における日本の文化サロンだった内山書店も、このすぐ近くにあった。後日、豫園商場や新天地を見た時にも感じたことだが、上海は、経済だけではなく、国際的な観光地としての都市整備にも、相当な労力と資金を費やしているようである。大阪などは、大いに見習うべきだと思った。なにしろ、現代は、国ではなく、都市間競争の時代なのだから。まず、醜い電柱と電線をなくすことから始めよう。多倫路文化名人街は、気持ちの良い通りだった。見事に舗装された石畳の道と、ところどころに配置された、所縁の文化人達の銅像。通りの両側には洒落た飲食店や、書画骨董などを商う店舗が並んでいた。いずれも、古い建物を改装したものである。全体的な雰囲気はソウルの仁寺洞に似ている。気に入った。

 虹口地区の散策を終えて、人民広場に戻った。そのままホテルに戻ってもよかったのだが、まだ明るかったので、市役所の隣にある「上海城市規劃展示館」を見学してから帰ることにした。ここには上海の巨大な都市計画模型があるのだ。3年前に、雑誌「東京人」の上海特集で、橋爪紳也さんが紹介していたのを見てから、建築ファンである私は、上海を訪れることがあったら、絶対に見に行こうと思っていたのである。事前の計画では最終日に行く予定だったのが、初日になった。感動した。高空を飛ぶ鳥になった気分である。眼下に500分の1のスケールで、上海市の中心部を精密に再現したパノラマが拡がる。たかが模型とはいえ、これだけの規模になると、驚嘆するしかない。1時間でも2時間でも、この壮大な都市パノラマを眺めていたいという気になった。もし私一人だったら、実際に、2時間くらいはここで粘ったに違いないが、あいにく、横には家内がいたので、ざっと一巡して、写真を撮るだけにした。それにしても、日本でも、そこそこの規模の都市は全て、都市計画に基づく現状と将来像を、このような模型にして、市民に広く見せるべきだろうと思う。都市計画への関心が一気に高まるだろう。かえって不都合かな?

 下のフロアには、ちょうど一年後に開幕する、上海万博の会場の模型などが飾られていた。こちらも面白かった。会場全体の完成予想模型や、テーマ館の模型などが並んでいた。上海万博は、浦東の高層ビル群と外灘の間を蛇行して流れる黄浦江を少し遡った地点の両岸で、翌年5月から、開催されることになっていた。既に、会場の建設工事が進み、上海の街中には、どこに行っても、万博開催を告知するポスターやフラッグや、キャラクターの「海宝(ハイバオ)」人形が飾られていた。大阪万博をリアルタイムで体験している私たちは、混雑を避けて、あえて1年前に上海を訪れたわけだが、完成した会場を見てみたいなという気持ちもないわけではない。家内は反対のようだが。

 上海2日目は、半日観光のオプションツアーを申し込んであった。さすがに、夫婦二人で広大な上海の街を歩き回る自信はなかったからである。ツアーに入ると楽だし、効率的に観光地を回ることができる。それに、とりあえず、昼食の心配をすることがないのが有り難かった。もともとグルメではなかったが、糖尿病を患って以来、普通の人々にとっては大きな旅の楽しみのひとつである食事が、私にとっては注意を要するものになっている。特に、糖質の多い中華料理には用心が必要だった。二人だけで動いていると、どうしても自分たちで店を探す必要がある。それが億劫なのだ。ツアーだと飲食店の選択に迷うことがないので気楽なのだった。面倒な話である。昨夜も、結局はホテルで夕食を食べた。ついでに書いておくと、この日の夕食も、やっぱりホテルで済ませたのである。せっかく美食の都上海にまで来て、実にもったいないことであった。さて、オプションツアーだ。朝、現地ガイドと運転手が、ホテルまで迎えに来てくれた。参加者は、私たちと、もう1組のカップルだった。(もう一組はずっと若くて、どうやら、夫婦ではなかったようだ。)最初の目的地は、昨夏、浦東新区に完成した森ビル、つまり、上海ワールドフィナンシャルセンター(上海環球金融中心)ビルだった。

 その前年に行った、台北の101ビルと同じく、上海ワールドフィナンシャルセンター・ビルは101階建てだが、その展望台の高さでは、現在、世界一だそうである。家内は、お隣のテレビ塔の方に上がりたかったようだが、私は、とにかく高い所へ上がりたかった。より眺望がきくからである。そして、その眺望は、期待通りの素晴らしいものだった。昨日眺めた模型の上海市街が、今、実際に車や船が動き、1千万人を越える人々が生活している生きた都市となって眼下に息づいているのである。それにしても、話は逆なのだが、姿形は昨日見た模型とそっくりだった。子供の頃に見た人形劇の主人公のように、僕は今、宇宙船から未来都市を見下ろしているのだ。上海はまさに、未来都市だった。展望台からは、遠く、来年の上海万博の会場予定地も見えた。

 展望台で、何時までもぼうっと下界を眺めていたかったが、ツアーの予定があるから、そんな訳にはいかなかった。次の予定地は川向こうの外灘だった。かつてのイギリス租界を象徴する地である。黄浦江沿いに、かつて銀行や商館だった、歴史を経た格調高い洋式の建築群が建ち並ぶ。最近では、建物の内部が改装されて、観光客に人気のお洒落なスポットになっていると聞いた。黄浦江はトンネルで渡った。上海政府が観光用に作った有料隧道である。車ではなく、専用の無人軌道車で移動する。トンネルの内部は七色の電飾が輝いていた。まるで、テーマパークのアトラクションのようである。ちょっと子供だましではないかと思ったが、上海政府が観光に力を入れていることは、よくわかった。

 外灘はあちこちが工事中だった。万博を機に、街中が化粧直しをしているようである。かつて、黄浦江沿いに散歩に適した公園があったはずだが、今は、工事の塀で囲まれている。道路も掘り返されていた。ガイドに案内されて、かろうじて川辺のプロムナードに入った。そこには人が溢れていた。無理もない。ここは外灘の洋館群と浦東の超高層ビル群を一度に見物できる、絶好のビューポイントなのだから。まさに建築の博物館、上海見物の特等席なのだった。建築ファンでなくても、この景色を見るために、ここで記念写真を撮るために、世界中から人が訪れるのは当然だった。私たちも、ガイドさんに記念写真を撮ってもらった。それにしても、人が多い。散歩どころではなかった。18年前、ここから黄浦江下りの観光船に乗って、半日かけて長江まで往復したのだが、その時には、浦東には何もなかった。この変貌ぶりはどうだろう。先ほど通った川底の観光隧道は、きっと、タイムトンネルだったに違いない。 

 そろそろ昼前だった。僕たちは豫園に向かった。豫園は、かつて上海城と呼ばれた地域にある。租界とは違って、昔から中国人が街造りをして住んできたところである。ガイドによると、今でも、豫園こそが上海最大の観光地なのだ。私たちも、18年前の旅行で、清代の名庭園である豫園を訪れた。でも、今回のツアーで訪れたのは、豫園そのものではなく、その門前町である豫園商城だった。そこはまるで、押井守のアニメ映画「イノセンス」の世界だった。過剰なまでの中国的なイメージの奔流。その中に人間が溢れている。圧倒された。ここもまた、明清時代の街並みを再現した計画的な商業施設である。上海の都市プランナーは、なかなかやるなと思った。

 ガイドに、豫園商城の中にある老舗のお茶屋さんに案内されて、中国茶の試飲で、お腹がダボダボになった。それから昼食である。お茶は昼食の後にして欲しかったなと思ったが、ちゃんと残さずに食べた。場所は、豫園商場の近くに昨年オープンした新しい集客施設、「豫龍坊」の中「鼎泰豊」である。昨年台湾を訪れた時、この台北の小籠包の名店に行けなかったのだが、まさか、上海で味わえるとは思っていなかった。上海には、地元の有名店もあったからである。この「鼎泰豊豫龍坊店」は、現代的でお洒落な店だったが、さすがに小籠包は美味しかった。食後に、しばらく付近を散策した。さすがに、この辺りには古い中国風の街並みが残っているようだったが、やはり、上海万博の準備なのか、あちこちで、化粧直しが行われているようだった。浦東や外灘も悪くないが、やはり、こんな、歴史と人間の暮らしを感じさせる界隈を歩くことが、旅の最大の魅力なのである。

 今回の上海半日ツアーは、どうやら、上海の最新スポットを選んでいるようである。次に訪れたのは、上海のソーホーと呼ばれている「田子坊」(ティエンツーファン)だった。今、若い人たちや観光客に最も注目されているエリアである。古い街並みの中にある建物を改装して、雑貨店や飲食店、アートギャラリーなどが続々とオープンしている。高樹のぶ子さんが日経新聞に連載している小説「甘苦上海」にも登場していた。私たちがここに着いたとき、あいにく、雨が降ってきた。傘をさして、細い路地のあちこちを歩き回った。狭いエリアなので、ざっと見て歩くだけなら、あまり時間はかからない。西洋人の姿がめだった。集合まで少し時間があったので、新規開店したばかりらしいギャラリーに入った。フォトギャラリーだった。展示と即売をしている。外灘と浦東の建築群を空撮した白黒写真が気に入ったので、旅行の記念に買うことにした。帰国後に額装して、今は、私の書斎に飾ってある。写真そのものよりも、額装の値段の方が高かった。

 半日ツアー最後の訪問地は、上海の銀座とも言える「南京東路」だった。イギリス租界時代からの立派な洋館が立ち並ぶこの地区には、デパートやショッピングセンターなどがあり、いつも多くの人たちを集めている。最近では、歩行者天国になっているようで、買い物にはとても便利な場所だった。しかし、雨はますます強くなってきた。少し、自由時間があったのだが、傘をさしての散歩はあまり楽しくなく、デパートに入ってみることにした。中は、買い物客で溢れていた。そう、客が多いということが、日本のデパートとの唯一の違いで、他はほとんど同じだった。オプションツアーを終えて、ホテルまで送り届けてもらった。この夜は、外灘に出て夜景を見物しようかと思っていたのだが、この雨で気勢をそがれた。夕食をホテルで済ませ、夜は部屋でテレビを見て過ごした。(つづく)


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