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「世界の名著」を読む #08

マルクス  その2

 今回はいよいよ「世界の名著」のマルクス・エンゲルスの巻を読む。最初に断っておきますが、「資本論」をちゃんと最初から最後まで精読するには数年はかかる。今回はざっと斜め読みしただけ。それでも、一応最後まで目を通したのは、これが初めてだった。その感想はと言えば、最近、やたらと「資本論」がもてはやされているけれど、やっぱり万人向けの本ではないなということだった。若くて体力も時間も十分にあった頃ならともかく、私のような古希を過ぎた老人は、解説本を読むだけで満足すべきだったということですね。でも、そんな事を言っていたら書くことがなくなってしまうので、今回の斜め読みの成果を以下に。

 「世界の名著」マルクス・エンゲルスの巻は1973年に刊行された。もちろん、ソビエト連邦がまだ健在だった時期だ。責任編集者は鈴木鴻一郎東大名誉教授。この方のことは当時も今もよく知らないが、付録に鈴木さんと先輩の大内兵衛さんの対談が収録されていて、「資本論」が日本に紹介された頃の翻訳をめぐるエピソードが面白かった。マルクスは売れるということで、各出版社が競争して学者の争奪戦をしたんですね。大内兵衛と言っても、私の年代でももうご老人だったから、今では知らない人が多いだろう。当時は、日本を代表するマルクス経済学者で、東大教授や法政大学の総長をつとめた。いまはなき社会党左派のブレーンでもあり、美濃部東京都知事の誕生に尽力した。私の両親と同じく、淡路島の出身でもある。

 以上は余談。まずは、鈴木鴻一郎さんの書いた解説の話から。鈴木さんは、もう、「資本論」を聖書にするのはやめようと主張して、「資本論」についてこう書いている。「近代社会の経済的運動法則を明らかにするという『資本論』の究極目的は、全三巻をあげてはじめて達成されるが、現行の三部構成は再構成する必要がある。この際、「経済的運動法則」とは、「価値法則」としてとらえるべきである。これこそは、『資本論』を石女たる危険から解放し、これを正しく生かすゆえんではないか。」石女(うまずめ)というのは、女性蔑視で、現在では許されない表現だが、言わんとしていることは、柄谷行人風に言えば、「資本論」の可能性の中心は、「価値法則」論にあるということでしょうね。

 鈴木さんは、この解説で、「資本論」の難点を多数指摘している。マルクスは分析の対象を見失っている。それは労働価値論を前提としたことによる誤りだ。必要労働時間をもってする労働力商品の価値規定は、資本主義的生産に先行する前提ではなく、資本主義的生産を介してはじめて生ずる成果としてとらえられなければならない。このことは、労働力商品についてだけではなく、他の一般商品についてもいえるであろう。というように、この解説は「資本論」の「難点」と鈴木さんが考えるものの指摘に終始していた。これは、マルクスほどの天才にしても、歴史的制約があったからだと鈴木さんは言う。それはそうだと私も思った。

 というところで、実際の「資本論」の内容に入っていきたいのだが、最初に書いたように、たくさん解説書があるなかで、いまさら私のような素人が、ざっと斜め読みした内容を紹介しても仕方がないので、以下に、私なりに面白かった文章を引用したい。つまり、「資本論」でマルクスが何を書いたかではなく、どう書いたか、自分なりに面白く感じた片言隻句を紹介することにした。なにしろ、マルクスの文章の切れ味の見事さは、たとえば、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」という本を読めばあきらかなように、ステファン・ツバイクにも劣らない面白さを持っている。この「資本論」でも、経済についてのややこしい理論よりも、時々挟まれる、歴史についての記述の方が面白かった。どうやら、私が好きなマルクスは、経済学者マルクスや革命家マルクスではなく、ジャーナリストまたは歴史家マルクスだったようだ。

 では、「資本論」本文からの引用。まずは、第三編、第五章、第一節「労働過程」から。

 紡績過程そのものにおいて、亜麻や紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それは、消化作用においてパンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の労働の生産物であることがどうでもよいのと同じことである。反対に、労働過程において生産手段が過去の労働の生産物としての性格を主張するとしたら、それはその労働手段の欠陥のせいなのである。切れないナイフ、たえず切れる糸などは、刃物屋のAや蝋引き屋のEを、まざまざと思いださせる。できのよい生産物にあっては、その使用上の特性が過去の労働に媒介されていることは、消えさっているのだ。

 さすがに現代とはほど遠い昔に書かれただけあって、手工業時代を思わせる牧歌的な文章ではあるが、「消化作用」なんて表現にはぐっときますね。さすがにマルクス。次は、「本源的蓄積」について書かれた章から。

 イギリス東インド会社は、周知のように、東インドの政治的支配の他に、茶貿易でも中国貿易一般でも、またヨーロッパとの貨物輸送でも、排他的な独占権を得ていた。(略)職員たちは自分勝手に価格をきめて、不幸なインド人を思うままに搾りあげた。総督もこの私的取引に加わった。彼のお気に入りの者たちは、錬金術師よりも巧みに、無から金をつくるような条件で契約を受け取った。巨大な財産が雨後のたけのこのように一日で出現し、本源的蓄積は一シリングの前貸しもなしに進行した。
 植民制度は商業と航海を温室的に育成した。(略)ヨーロッパの外で直接に掠奪、奴隷化、強盗殺人によって分捕られた財宝は、母国に流れこんで、そこで資本に転化された。植民制度を最初に完成させたオランダは、1648年にはすでにその商業の繁栄の頂点に立っていた。
 公債は本源的蓄積の最も強力なてこの一つになる。それは、魔法の杖をふるうかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてこれを資本に転化させるのであるが、そのさいこの貨幣は、産業投資にも高利貸的投資にさえもつきものの骨折りや危険を冒す必要がない。国家に対する債権者は現実に何ら裏切られることはないのだ。なぜなら、貸し付けた金額はたやすく譲渡できる公債証書にかえられ、この公債証書は、同額の現金と同じように、彼らの手もとで機能を続けるからである。(略)国債は、株式会社、各種有価証券の取引、株式売買を、一言でいえば、証券投資と近代的銀行支配とを進めさせたのである。
 マニュファクチャ期をつうじて資本主義的生産が発展していくとともに、ヨーロッパの世論は羞恥心と良心の最後の一滴までなくしてしまった。国民は資本蓄積の手段であるどういう非行も恥ずかしげもなく自慢した。(略)リヴァプールは、奴隷貿易の基礎のうえで大きく成長した。奴隷貿易は本源的蓄積のリヴァプール的方法であった。
資本は、頭の先から爪の先まで、毛穴という毛穴から、血と脂をしたたらせながら生まれてくるものなのである。

 どうです。まるで、現代のグローバル資本主義や強欲資本主義を批判しているかのようですね。たしかに、マルクスは今読んでも面白い、部分もある。でも、おおむね退屈な読書でした。この「世界の名著」には、「資本論」全三巻の抄訳が収録されている。周知のように、生前のマルクスが完成させたのは第一巻のみであり、後の巻は、盟友だったエンゲルスがマルクスの残した草稿をまとめて出版したものである。今回初めて、第二巻、第三巻にもざっと目を通したのだが、それらはおおむね、第一巻の内容をあらためて詳述したような、今ではとても役立ちそうにない、経済学の理論的な文章だった。だから、ここでは紹介しない。でも、いちおう最後まで目を通した証拠として、第三巻第七編の第五十一章と五十二章から引用しておく。五十一章は「分配関係と生産関係」、五十二章は「諸階級」と題されている。まずは、五一章から。

 いわゆる分配関係なるものは、生産過程と、人間が人間生活の再生産過程でたがいに結びあう関係との、歴史的にきめられた特殊な社会形態に見合ったものであり、またこの形態から生ずるものである。この分配関係の史的な性格は生産関係の史的な性格にほかならないわけで、分配関係は生産関係の一面を表現するにすぎないものなのである。資本主義的分配は他の生産様式から生ずる分配形態とは違っているが、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに見合っている特定の生産形態とともに消滅する。

 岸田新政権の誕生時、「分配」ということが与野党で問題になったが、マルクスは、労働者の有利になるように分配すべきだというような事は、「資本論」の中では述べていないわけですね。次は、五二章の冒頭の文章。この章の途中で、マルクスの残した「資本論」の草稿は中断している。つまり、マルクスの書いた最後の文章。

 労賃、利潤、地代をそれぞれの所得源泉とする、たんなる労働力の所有者、資本の所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義的生産様式にもとづく近代社会の三大階級を形成している。


 最後に、この「世界の名著」に収録された第一巻の最後の節、「資本主義的蓄積の史的傾向」から、かつてのマルクスボーイたちを興奮させたであろう、いかにもマルクスらしい文章を引用して、今回の読書報告の終わりとしたい。

 (前略)世界市場の網のなかへのすべての国民の組み入れが発展し、それとともに、資本主義体制の国際的性格が発展する。こういう転化過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数がたえず減少していくとともに、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取は増大していくが、しかしまた労働者階級の反抗も増大していくのであって、この階級はその数をたえず増大させつつ、資本主義的生産過程そのものの仕組みによって、訓練され結合され組織されていくのである。資本独占が、それとともに開花しそれのもとで開花した生産様式の桎梏となるのだ。生産手段の集中も労働の社会化も、それらの資本主義的外皮とは調和できなくなる点に達する。外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

 


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