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中国の旅 #7

2度目の北京(つづき)  2011年

 3日目は自由行動の日である。実は、本来ならこの日は天津への日帰り旅行の予定だった。しかし、7月の新幹線事故(中国新幹線の車両が脱線して高架から転落した。当局は、あろうことか車両ごと地中に埋めて、事故を隠蔽しようとした。)を見て、急遽キャンセルしたのである。北京と天津の往復は、時速350キロの中国新幹線を利用する事になっていたから、それは、あまりに冒険だった。というわけで、まる一日が空いた。さて、その一日をどう使うか。旅行前の予定では、老舎記念館、頤和園、北京大学、オリンピック公園、工人体育場、そして前門というコースを想定していた。時間があまれば、王府井と北京飯店へも行こう。なかなか、盛りだくさんだ。一日で回れるかどうかわからなかった。ところが、思いがけないことに、前日の内に頤和園と鳥の巣の見物が済んでしまった。余裕の一日が始まった。

 前日より遅めにホテルを出た我々は、金魚胡同を王府井の方向に歩いた。王府井大街の歩行者天国に着いたところで右折すると、前方に王府井天主堂のクラシックな建築が見えてきた。教会の前の広場で、いかにも中国らしく、多くの人が集まって太極拳をしていた。剣を持ってする太極拳だった。しばらく眺めて、ついでに教会の内部を見物した。清潔で厳かな雰囲気である。教会の先の交差点で王府井の大通りを横断した。路は少し狭くなる。少し歩くと、右側にさらに狭い路地、つまり昔ながらの胡同が現れた。大きく育った街路樹の緑が深い。由緒のありそうな胡同だ。「富強胡同」とあった。その路地の一本向こうが、私のめざしていた「豊富胡同」だった。(簡体字だと、豊という文字は、三本線に縦棒)ここに、老舎の記念館があった。

 今回、北京旅行を企画したあとに、何冊かの参考書籍を読んだ。その一冊が、老舎の「駱駝祥子」だった。中国の現代文学を代表する作家、老舎の名は昔から知っていたが、この名作を読んだのは、恥ずかしながら初めてだった。この小説を書いた時、老舎は38歳だった。初期の名作である。もちろん戦前の作品だ。「ラクダのシャンツ」と呼ばれた、北京の人力車夫の一代記である。今のような自転車で曳く人力車ではなく、明治の日本で発明された、人間が走って曳く人力車である。体力があり、働き者だった若きシャンツは、怠惰な仲間の車夫たちに混じることなく、懸命に働き続けて、ついに自前の人力車を手に入れた。ピカピカの高級人力車である。シャンツの前途は洋洋のはずだった。しかし、人生は、シャンツの思うようにはならなかった。シャンツの人柄に共感した読者は、襲い来る苦難の数々を、きっとシャンツは克服してくれるだろう、最後には幸福が訪れるに違いないという期待で小説を読み進める。でも、その望みは最後まで叶えられない。老舎は小説の最後をこうしめくくる。

  あのいなせな、がんばり屋の、希望にあふれた、わが身ひとつをいとおしんだ、個人的な、たくましかった、偉大な祥子は、いまや、何度人の葬式に立ちあったことだろう。そして、いつかは、どこかに彼自身を埋めることになるはずだ。この堕落した、我利我利亡者の、不幸な、病める社会の子、個人主義のなれのはてを!(立間祥介訳)

 あまりにクールな描写だが、老舎が祥子を愛していたのは確かである。でないと、この小説があんなにも面白くはならなかったろう。若き老舎は、見事に祥子という血の通った人物像を生み出した。この小説を読んで、私は今度の旅行で、この小説の舞台を訪れたいと思ったのだが、うれしいことに、老舎記念館というものがある事を、旅行のガイドブックで知ったのである。老舎は、最下級ではあるが、満洲旗人の家柄に生まれた、親代々の生粋の北京っ子(老北京という。)である。1899年(光緒24年)に北京の旧市街で生まれた。西太后がまだ生きていた時だ。その西太后が北京を捨てて西安まで逃げた、例の北京の55日の闘いの時、父親が戦死した。老舎は1歳だった。苦学して師範学校を卒業し、若くして小学校の校長になった。さらに、北京市の視学官に出世した。しかし、官僚生活になじめず退職。中学の非常勤講師などをしながら、アメリカが賠償金で建てた燕京大学で英語を学んだ。そこで知り合った英国人の紹介で、ロンドンに英語留学をすることになった。27歳の時だ。老舎が小説を書き始めたのは、この頃のことである。ホームシックの自己治療の意味合いがあったという。帰国後は、大学で教鞭をとりながら、創作活動を続けた。中には、「猫城記」というSFもあるという。

 日中戦争勃発後、老舎は抗日文芸運動の指導者として活躍し、延安に毛沢東を訪ねたりしている。戦後、アメリカ国務省の招きで渡米した。「駱駝祥子」が英訳されて、ベストセラーになったからである。しばらくニューヨークに滞在した。その後、中華人民共和国の建国にあたって、郭沫若らの呼びかけにこたえて帰国。以後、文化界の重鎮として活躍した。特に戯曲に力を入れた。一昨夜、私が王府井で買った「茶館」はその代表的な作品であり、1957年に発表された。1961年の冬、日中友好団の一員として北京を訪れた武田泰淳は、「北京の飛行場に、有名な老舎さんが出迎えてくださったのは恐縮だった。国家から乗用車をあたえられた、谷崎さんクラスの老文豪が、痛む脚をひきずって、寒風に吹かれながら、おくれた飛行機を待ちうけていてくれたのだから。」と書いている。当時、老舎は、中国を代表する世界的文豪だったのである。その老舎が、1966年8月、文化大革命の初期に、「反革命分子」として暴行を受け、北京市内の太平湖で入水自殺をとげた。67歳だった。その時、老舎が何を思っていたのか、今では知るよしもない。もちろん、老舎は、その後、名誉を回復された。だから、こうして、かつての住居が記念館として公開されているのである。

 私たちが「老舎記念館」に着いたのは、開館時間の少し前だったが、ちょうど門から出てきた人が、中に入れてくれた。日本人(リーベンレン)だと言うと、管理人らしき男性が入場チケットをくれた。入場は無料である。記念館は、中庭を4つの建物が囲んだ四合院だった。あまり広くはない。でも、とても居心地の良さそうな家だった。二つの棟に、自筆原稿や書籍、写真パネルなどの展示があり、他の棟では、居間と書斎が保存されていた。老舎の生前のままかどうかわからないが、書斎は狭く、横にはベッドが置かれていた。老舎の着た背広や靴や眼鏡も展示されていて、老舎が一気に親しみのある存在になった。記念館の一隅に、来館者用の署名簿がおいてあった。いちおう、姓名を記入したが、大きなコメント欄があったので、思いつきで、"From Japan with love"と書いておいた。すると、いつのまにか現れた男が、私の書いたものをじっと読んでいる。いったい何者だろうと気味悪く思ったが、深く詮索しないことにした。老舎をいじめた紅衛兵の末裔かもしれないから。

 記念館を出て、王府井へ向かった。20年前に景徳鎮の湯飲みを買った、懐かしい「北京市百貨大楼」へ行こうと思ったのだが、残念ながら、まだ店が開いていなかった。多くの人々が開店を待ってたむろしている。我々は、待つほどのこともないので、そのまま歩を進めた。「王府井小吃街」という派手な中華風の門があったので、その路地に入ることにした。両側に、屋台の飲食店が並ぶ、賑やかな通りだった。よく旅行番組などで紹介されている通りだ。中に、タツノオトシゴやサソリ、クモなどの下手物を売っている店もあった。私たちは、女性レポーターのように、キャーなどとは叫ばず、ただ静かに通り過ぎた。しばらく歩いて、北京飯店の前に出た。

 旅行前に読んだ本の中に、中薗英助さんの「北京飯店旧館にて」という、読売文学賞を受賞した小説がある。41年ぶりに、青春の地、北京を訪れた中薗さんの、紀行文のような回想記のような短編連作集である。素晴らしい作品だった。これを読んで、北京へ行ったら、ぜひとも北京飯店の旧館でお茶を飲もうと思ったのだが、現地へ着いてみると、どれが旧館なのかわからなかった。北京飯店は巨大なホテルである。外観を見る限り、みんな化粧直しをして、新しそうに見えた。中に、玄関前に古そうな噴水のある、立派な建物があったので入ったら、中は、ホテルではなく、劇場かホールのようだった。高い天井に、立派な大理石の太い柱が何本も立ち、とても豪華な玄関ホールだった。怖そうな守衛がいたので、写真も撮らずにひきあげた。

 結局、北京飯店には入らず、ホテルの前の王府井駅から、地下鉄1号線に乗った。めざすは、2つめの駅、建国門駅である。ここには、20年前に我々が宿泊した、「長富宮飯店」がある。思い出の地への再訪だった。我々が帰国してから数日して、上海の地下鉄で事故があった。あの新幹線事故とよく似た事故だ。幸い、死者は出なかったが、もし、この事故が、我々が北京を訪れる前に起こっていたら、地下鉄を利用しなかったかもしれない。その場合は、長富宮にはいかなかっただろう。建国門へは、工人体育場へ行く、地下鉄の乗り継ぎ駅として行ったのだから。長富宮は、ニューオータニが経営する日系のホテルだ。外観は、20年前の記憶とほとんど違わなかったが、付近の景観や、ホテル内部のインテリアは、かなり変わっていたようである。昔の記憶が曖昧なので、比較のしようがないのだが。とにかく、ここでは、珈琲を飲んで休憩だけするつもりで来たのだが、ついでだから、昼食もここですることにした。ホテル内にある中国料理のレストラン「牡丹苑」に、オープン時間前に入れてもらって、それぞれ好みのランチ定食を注文した。日本人向きにトレイに乗せた一人分の定食になっている料理は、味付けも日本人好みで、量的にも安心して食べることができた。

 ホテルを出て、再び、地下鉄の建国門駅へ戻った。今度は2号線に乗る。書き忘れたが、北京の地下鉄では、簡単な手荷物検査がある。チケットは、非接触カード式で、改札口に触れるだけでゲートが開く。下車する時には、カードを穴に差し込むと回収されてゲートが開く仕組みだった。乗車距離に関係なく、1回2元(約26円)である。我々の乗った区間は、20年前に既にあった、古い路線だから、上海の地下鉄のような最新のものではなかった。東京や大阪の地下鉄と印象は変わらない。中国語の学習成果というには、おこがましいが、チケットは中国語で簡単に買えた。車内は通勤時間ではないせいか、案外空いていて、乗客のお行儀もよかった。

 建国門から私たちが次にめざしたのは、東四十条という駅だった。SMAPが公演した工人体育場の前で写真を撮るのだ。これは家内の希望だった。前回、北京に来た時に痛感したはずだが、北京は歩く街ではない。あまりに広すぎる。地図の上で想像するのと、実際に歩いてみるのとでは全く違うのだ。どの道の沿道にも、見事な街路樹の巨木が深い緑の陰をつくってくれているのだが、歩いても歩いても、目的地に着かないといやになる。今回、東四十条の駅から工人体育場へ、さらに、三里屯まで歩いて、そのことを痛いほど思い知らされた。北京では、地下鉄+タクシーを利用すること。歩くのはやめたほうがよい。SMAPが公演したのが、ふたつ並んでいる、工人体育館か工人体育場か、その時にはよくわからなくて、両方の場所で記念撮影をしてきた。結局は、大きな方の、体育場であったわけだ。空席もあり、屋外競技場なので、公演中に雨が降ったそうである。この公演が、中国政府の思惑による政治的なものであったことは間違いないが、そんな風に利用されるなんて、SMAPは大したものだったともいえる。

 三里屯は、今、北京で最も新しいお洒落な街だと言われている。敬愛する日本の建築家、隅研吾さんが設計した建物があるというので、建築や都市計画に興味のある私は、ぜひとも三里屯を見ておきたかった。もともと、各国の大使館が集まる三里屯は、国際的な開けた街だったのだが、「三里屯SOHO」や、南と北ブロックの「三里屯ビレッジ」などの新しい街ができて、ますます外国租界風になってきた。歩きくたびれた私たちは、三里屯ビレッジの南地区をざっと見物するのがやっとだった。ここには、ユニクロ、アディダス、アップル、さらに、スターバックスや世界各国の料理を売る飲食店などが、複雑な迷路のような街をつくっていた。広場もあって、ここで半日を過ごすことができそうだった。よく出来ている。でも、ここはニューヨークでも、東京でも、世界中のどこにあってもいい街だ。北京の人にはいいだろうが、外国人が北京に観光にきて、わざわざ訪れる場所ではないだろうと思った。たぶん、疲れていたのだろう。元気な時に行けば、また違う感想になったかもしれない。

 再び、東四十条駅へ戻って、地下鉄に乗った。今度の目的地は前門である。前門(ちぇんめん)は、かつての北京城の南の正門だった正陽門のことである。位置をいうと、天安門広場にある毛主席記念堂の南側になる。前門は、北京を守備する重要な門だから、門を守る要塞「箭楼」というのが、さらに南に付属していた。地下鉄の駅は、その前門と箭楼の間にあった。地上へ出て、箭楼をくぐり抜けた。目の前に、南に向かって一直線に延びるのが前門大街である。驚いて、ぽかんとしてしまった。記憶にあった繁華街、前門がない。代わりにあったのは、まるで映画のセットのような、テーマパークのような町だった。後で調べると、都市デベロッパーが、古い図面をもとに、過去の前門の街並みを再現したのだという。北京五輪を機会にオープンしたそうだ。私は、以前から、京都や奈良は、醜い電柱電線や看板を整理して、町全体をテーマパークのように整備するべきだと思っていたが、実際にここまでやられてみると、異様だとしか言いようがなかった。町全体が灰色の煉瓦造りのせいもあって、これで観光客の姿がなかったら、まるで、出来たてのゴーストタウンだなと思った。まだテナントが入っていない建物があったり、整備中の横丁もあり、町はまだ建設途中のようだったが、実際に町が完成するのは、建物ができるだけではなく、あと数十年たって、町全体に人間の垢と臭いがしみついてからだろうと思う。この町の真価が問われるのは、その時だ。それにしても、中国という国は、さすがに思い切った事をする。土地の権利がいりくんでいる日本のような資本主義国家では、とても、こんな町づくりはできないだろう。

 歩き疲れたので、前門の新しい店舗のひとつ、ケンタッキー(中国では肯徳基)に入って、珈琲を飲んだ。店内は、風情のない今風である。しばらく休憩してから大柵欄の通りを散策した。ここは、清朝の時代からある老舗がたち並ぶ、繁華な商店街である。いつも観光客や買い物客で溢れている。20年前には、ここを抜けて、文房四宝の町、瑠璃廠まで歩いた。今回は、瑠璃廠には行かない。大観楼の映画館あたりまで歩いて、引き返した。途中、京都なら呉服屋ということになる、これも老舗の絹織物の店に入った。美しく洒落た中国服がたくさんあったが、何も買わなかった。ここで、奇妙なことが起こった。家内が、どこかの店に入って、私が一人、通りで待っていた時のことだ。中国人らしい、若い小柄な女性が、いきなり私の肩をつついて、「I am hungry.Thank you.」と繰り返した。一瞬、何のことかわからなかったが、しばらくして、金をくれと言っているのだとわかった。日本人のカモだと思われたようである。ここで金を出して、財布のある場所を覚えられると、仲間のスリに狙われるという、ガイドの任さんの話を思い出して、「I have no money.」と、こちらも繰り返した。何回か押し問答をして、やっと退散してくれたが、やっぱり、仲間の女性が近くにいたことがわかって、ひやりとした。中国で、こんな経験をしたのは初めてだった。何事もなかったので、これも、旅の経験としては悪くないだろう。ということで、ここに記録しておくことにした。皆さんも、ご注意を。

 もう、疲れが限界に達したので、まだまだ早かったが、前門からタクシーに乗って、ホテルまで戻った。ホテルでもらったカードを見せて、中国語で、ここへ行ってくれと言ったのである。ペニンシュラと言っても、通じなかっただろう。その夜の食事は、ホテルのレストランですませた。洋食である。私は、中国のワインを飲みたかったが、ボトルしかないというので、チリの赤ワインをグラスで頼んだ。北京の旅3日目の自由行動は、こうして終わった。

 いよいよ最終日である。ホテルのチェックアウトを済ませた私たちは、いつものように7時半に、ロビーで任さんと待ち合わせた。中国の朝は早い。昼には空港に行かないといけないので、この日の観光は、午前中だけだった。
まず向かったのは、北京動物園である。場所は、西直門外大街、つまり、旧市街をわずかに西に出たところである。北京動物園は、故宮と変わらないくらいの面積を持つ、広大な動物園だった。しかし、我々が見物したのは大熊猫、つまり、パンダだけだった。(レッサーパンダと金糸猴もちらりと見た。)今年、白浜でたくさんのパンダを見てきたばかりなので、あまりワクワクもしなかったが、本場で見るパンダはひと味違うかもしれないと期待もしていた。

 期待は半ば満たされた。だいたいは白浜と変わらないが、白浜より優れていたのは、飼育場の広さと緑の豊富さである。より自然に近い飼育環境が確保されているように思えた。今回は、子供のパンダを含めて、6頭ほどのパンダを見ることができた。やっぱり、どこで見てもパンダは愛らしい。こういう動物が地球上に生息しているのは、うれしいことだ。世界中の子供たちが、パンダの可愛さを満喫できる世の中になればいいなと思う。そういえば、東北の被災地の子供たちは、無料で上野のパンダを見ることができるという話をきいたような気がする。いいことだ。

 次に向かった北京最後の観光地は、旅行ガイドなどには「北京の表参道」と書いてある、「南鑼鼓巷」(なんるおぐーしゃん)だった。その昔、太鼓や銅鑼を造る職人たちが集まって住んだ地域だそうである。立派な並木道のある、風情のある胡同だったが、10年ほど前から、オシャレなカフェなどが店を開くようになって、西洋人や北京の若者たちが集まるエリアになった。車は進入禁止なので、ガイドの任さんたちは大通りで待機して、我々二人で、通りの端から端まで、歩いて往復した。まだ朝が早かったので、開いていない店も多かったのは残念だった。「たこ焼き」の店もしまっていた。この通りは、日中に来るよりも、夜の散策のほうが面白いかもしれない。私の印象としては、表参道ではなく、緑の豊かなアメリカ村か堀江である。(大阪の人間にしかわからないか。)あまり高級な店はなく、若者向けの店が多い印象だった。中に、Tシャツなどを売る店があり、よくあちこちで紹介されている、オバマ大統領が毛沢東の格好をしている「obamao」Tシャツがあったので、自分用の土産に買った。今回の旅行で買ったのは、この種のパッケージツアーではつきものの、ショッピングに連れていかれた蒲団屋で買った、太極拳などで着る中国服と、このTシャツだけである。(それと剪紙。)いずれも自分用のものだった。会社を辞めてから、同僚たちに土産を買ってかえる必要がなくなったのは、気楽だけれど、淋しいような気もする。

 任さんとスキンヘッドのドライバー氏に北京首都空港まで送ってもらい、今回の北京旅行は無事に全日程を終えた。空港で、任さんは、記念にと言って、万里長城の記念入場券をくれた。この種のチケットは、旅行会社への領収書がわりなので、普通は、旅行者には渡さないものなのだそうである。これは、任さんが家族旅行で手に入れた、個人的に持っていた貴重なチケットなのだという。チケットは別に欲しくはなかったが、任さんの、その心遣いがうれしかった。こちらから渡すものが何もなかったのは申し訳なかった。とにかく、これで旅は終わった。任さん、ドライバー君、ありがとう。再見!


 ここで、当時の旅行の前に私が参考書として読んだ本を紹介したい。まず、新書本を2冊。最初は、加藤嘉一「中国人は本当に そんなに日本人が嫌いなのか」という長いタイトルの本。加藤さんは、1984年生まれの(当時)26歳。高校を出て、北京大学へ単身留学した。短期間で中国語をマスターし、新聞・雑誌のコラムやブログで発信を続け、今では、中国で最も有名な日本人だと言われている。というような事情は、日本でもだいぶ知られるようになってきた。この本は、そんな加藤さんが、中国で出版した本に加筆した日本語版である。私は、この本を読む前から加藤さんに注目していて、いろんな言動をウオッチしている。頭も口も、よく回転する若者で、行動力があり、しかも考え方にバランスがとれている。悪く言えば優等生である。だからこそ、中国政府の首脳にも信頼されているのだろう。今後、彼がどう変貌していくのか楽しみだ。それとともに、第2第3の加藤さんが、中国だけではなく、アメリカにもヨーロッパにも韓国にも、どんどん出現してもらいたいと思う。(加藤さんは最近どうしているのかな。)

 次は、加藤徹さんの「西太后」。こちらの加藤さんも、中国学者として、最近、私が贔屓にしている人である。本業の研究だけではなく、エッセーも実に巧みだ。なにしろ、変名で小説も書くという人なのだから、文章が素晴らしいのは言うまでもない。この「西太后」も、新書という長さの制約がありながら、歴史的事実やエピソードの選び方、語り口が実に見事で、西太后の人物像とともに、清朝末期の政治状況を生き生きと再現してくれた。これを読むと、浅田次郎の新たな西太后像が、最近の研究を踏まえた、じゅうぶん納得できるものであったことがわかる。頤和園を訪れた時、光緒帝が幽閉されたという堂を見物した。このあたりの事情も、この「西太后」を読めばわかる。加藤さんによると、日清戦争に敗れたということは、中国にとっての黒船であった。当然ながら、変法維新の動きが生じる。光緒帝は、この動きに同調した。西太后に対して、クーデターを企てたのである。この経緯が面白い。1898年(明治31年)、総理大臣を辞職して自由の身になっていた伊藤博文が、北京を訪れた。かつての敵ではあるが、日本の近代化を成功させた大政治家として、清は伊藤を国賓待遇で迎え、光緒帝も引見した。その時、帝は伊藤に清国の顧問に就任を要請するのではないかという噂が拡がった。実際、それは、根も葉もない噂ではなかった。もし、維新派が日本と手を組んだら、自分の地位が危なくなると心配した西太后は、光緒帝と伊藤の会見の間、屏風の後ろに控えて、光緒帝を牽制した。光緒帝は、会見で踏み込んだ話をすることはできなかった。光緒帝が、西太后の命で、逮捕、幽閉されたのは、伊藤との引見の翌日のことである。加藤さんは、「伊藤は、突然の政変劇に目を白黒させた。」と書いている。ねっ、面白いでしょう?さすがに加藤さんは、西太后がいなかったなら、中国は、朝鮮と同じように、日本に併合されていただろう、とまでは書いていません。

 もうひとつ、「西太后」で教えられたことを書いておきたい。陰惨な事実である。西太后の陵墓が、国民党の時代に入って盗掘された。死後二十年経っていたが、西太后の遺体は、まだ生前の面影を残していたという。映画「ラストエンペラー」でおなじみの、遺体の口の中の珠や豪華な副葬品はもちろん、服や靴、下着なども持ち去られ、西太后は裸にされた。もっとひどいことがあったようだが、ここには書かない。とにかく、西太后は、死んでからも劇的だった。

 以下は、文庫本の紹介。老舎の「駱駝祥子」については、既に紹介した。ここでは、余談を書いておきたい。老舎が英語を学んだ燕京大学は、ミッション系だったので、解放後は廃校になった。その跡地に、現在の北京大学が建っている。毛沢東が亡くなる直前に、日本作家代表団の一員として北京を訪れた司馬遼太郎は、北京大学を訪れて、その豊かな自然と広大な敷地に感嘆している。(「長安から北京へ」)上記の二人の加藤さんは、時代は違うが、ともに北京大学で学んだ。

 中薗英助さんの「北京飯店旧館にて」も既に紹介した。スパイ小説の大家として知られた中薗さんは、1937年、旧制中学を卒業した17歳の時に、旧満洲に渡った。20歳の時から北京に住み、邦字紙の記者をつとめた。同時に創作をはじめる。結婚生活も北京でおくった。敗戦後1年して、日本へ引き揚げた。その後、作家となり、AA作家会議に加わって、国際的に活躍するが、中国を訪れることはなかった。そんな中薗さんが、北京を再訪したのは41年後、67歳の時だった。この「北京飯店旧館にて」は、その時の体験をもとにした連作短編集である。私は、清岡卓行さんの「アカシアの大連」という小説が大好きで、いつか大連に行くことを切望しているのだが、この中薗さんの小説は、その清岡さんの小説を彷彿とさせてくれた。長年抑えてきた北京への思いが、41年ぶりの再訪で、一気に爆発したように中薗さんをとらえた。その心の揺れを冷静な筆致で記録する文章は、なんとも心に染みる。これは、一個人の魂の記録としてだけではなく、日中の交流の歴史記録としても、とても重要な作品だと思う。
 
 この連作小説は、10の話で構成されている。そのひとつが、書名になった「北京飯店旧館にて」である。考えて見れば、この小説の題材となった、中薗さんの北京再訪は、既に24年も前の話である。私たちが最初に北京へ行った時よりも、更に前のことだ。だから、私たちが、現在の北京飯店へ行って、途方にくれたのも無理はない。中薗さん自身、懐かしい北京飯店を再訪した時、「このホテルはもう別物なのだ」と嘆声をあげたのだから。ただ、旅行から帰って、この部分を再読したら、我々が見た、重厚なホールのようなものが、まさに、中薗さんの言う、北京飯店旧館であったことがわかった。連作の第7話「彷徨湖」は、老舎をめぐる物語である。中薗さんは、老舎の愛読者だった。魯迅の鋭利な深刻さより、老舎のユーモラスな低回趣味を愛したという。だから、老舎の無残な死に衝撃を受けた。北京を再訪した中薗さんは、老舎が入水したという太平湖をさがす。もし太平湖が、老舎が生前愛し、毎日のように眺めた湖と違う場所だったなら、老舎は自殺ではなく、他殺だったかもしれない。しかし、その太平湖は地図上に存在しなかった。後は、みなさん、ご自身でお読みください。

 最後に紹介するのは、リービ英雄さんの「天安門」と「我的中国」。2冊セットのような作品である。前者が小説、後者は紀行記だが、その区別は微妙だ。互いの要素が浸入しあっている。だからこそ、とても魅力的だ。リービ英雄さんは、少年時代を台湾で送った。外交官だった父親のもとには、大陸から逃れてきた国民党の重鎮たちがよく訪れたという。だから、日本語で小説を書くリービさんの、最初の外国語は日本語ではなく中国語だった。中国が国を開いて以後、日本に住むリービさんが日中間を頻繁に往復し、その体験を、私小説や紀行文の形で発表してきたのは、リービさんにとって、子供時代への回帰なのかもしれない。


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