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立山奇譚(短編小説)


 世界中で新型コロナが流行って、みんなが巣ごもり生活をしていた頃の話だ。もちろん、当時の流行語でもあった三密を避けて、室内でもマスクをしての話だが、いつもの仲間が集まって、「デカメロン」ごっこをしたことがある。「デカメロン」というのは14世紀のイタリアの作家、ジョヴァンニ・ボッカッチョの小説で、当時、フィレンツェでペストが蔓延した時に、上流階級の人々が森の館に避難して、毎日交代で面白い話を披露するという物語。以下に紹介するのは、その時の仲間の一人だった、紀平歩美さんが披露した話だ。

                  ✻
 
 スターバックスやドトールのようなコーヒー・チェーン店が主流になった現在でも、私は昔ながらの喫茶店が好きでした。幸いなことに、職場にも近い神田界隈には、そんな店がまだ数軒残っていました。私が、時々、遅い昼食のサンドイッチを食べたりしていた「喫茶雷鳥」もそんな喫茶店の一つでした。場所柄からか、常連客には学生が多かったんですが、私もまた、学生時代からの常連客の一人でした。大学は神田から遠いのに、滋賀県大津市で乾物屋を営む父親が、親戚が住む神田にアパートを見つけてきたんです。そして、親戚のおじさんに、娘の世話という名目の監視を頼んだというわけ。大学時代は通学距離が遠くて、大学の近くに下宿している友人たちが羨ましかったんですが、就職して、職場が近くなってみると、神田に住んでいてよかったと思うようになりました。「人間万事塞翁が馬」というわけですね。私が通った大学は、卒業生がマスコミや出版社、雑誌社に多く就職することで知られていました。私も、大学の先輩のつてを頼って、学生時代から雑誌社でアルバイトをしていたんですが、現在の勤め先は、そんな縁故で採用されたんです。女性向けの月刊誌を編集発行している小さな雑誌社だから、大学生の就職先人気ランキングに載るような有名な出版社とは違うんですが、かねてからマスコミか出版関連企業で仕事をしたいと考えていた私はそれで満足でした。これからますますインターネットやデジタルの時代になるのに、わざわざ紙媒体の雑誌社に就職するなんて、自分は時代遅れなのかもしれないと思わないでもなかったんですが、紙媒体だろうとデジタル・メディアだろうと、人間に取材して文章を書くことは同じで、これからも自分のような人間は必要とされるだろうというのが私の考えでした。今もその考えは変わっていません。

 「喫茶雷鳥」は、その店名の示すように、富山県出身の登山好きの店主が、学生客を目当てに始めた山小屋風の店で、現在の店主はその息子でした。息子といっても、今ではもうかなりの年齢になっています。彼の悩みは、店の跡を継ぐ三代目がいないことでした。一人娘がいるんですが、彼女は喫茶店を継ぐ意思がなかった。実は、その娘こそ私の大学の先輩で、私に今の職場を紹介してくれた人物なのでした。今でも頭があがりません。

「歩美ちゃんは、相変わらず大口開けてサンドイッチを頬張るねえ。そんな色気のないことじゃ、男が逃げていくよ。彼氏の前では、もっと上品に食べないと。」
「残念ながら、彼氏なんていませんよ。だいたい、いまどき、彼氏なんて言う?それじゃ、まるで寅さんの時代でしょ。」

 そんな、マスターとの会話も、この店の常連客になってから、ずっと繰り返えされてきたものでした。それにしても、マスターが作る玉子サンドは絶品でした。その日も、私は、午前中の取材で遅くなった昼食を大好物の玉子サンドイッチと珈琲で済ますために、一人で、この「喫茶雷鳥」にやって来たのでした。私は、ゆっくり本を読みたい時は、喫茶店の片隅の席に陣取るんですが、普段はカウンター席に座って、マスターが忙しくなければの話ですが、こうして、マスターとのたわいの無い会話を楽しんでいました。サンドイッチを食べ終え、食後のコーヒーを味わっていた時、なにやら背後に視線を感じました。店に入って来た時、普段の客層と違うタイプの客がいることに気づいていましたが、どうやら、視線はそちらの方向から来るようでした。背後からの視線に対しては、私には淡い思い出がありました。高校生の頃のことです。図書室で本を読んでいる時、背後に視線を感じることが度々あったんです。何度かは振り返ってみました。その時、いつも同じ男子生徒の姿を発見しました。映画や小説の世界なら、恋の物語が始まるところです。でも、結局は、何も起こらなかった。今では、その男子高校生の顔も覚えていません。そもそも、そんな出来事が本当にあったのかどうかも今では曖昧になっています。でも、この時の経験は、不思議と私の記憶に残っていました。今、感じている背後の視線の感覚は、あの時の事を思い出させました。今度こそ、恋物語が始まるのかもしれない。そんな風に考えている間に、背後で人の動く気配がしました。「お勘定」という言葉とともに、男女のカップルのうちの男性の方がレジにやってきました。私はちらっと男性の横顔を見ました。眼鏡をかけた中年のサラリーマン風で、あまり特徴のない顔でした。男性は支払いを済ませて、そのまま店を出て行きました。あれ? 女性は一緒じゃないのと思っているうちに、背後から声が聞こえました。

 「違っていたらごめんなさい。ひょっとして、紀平さんじゃない?立山でお会いした。」

 そう言われて振り向いたら、目の前に見覚えのある顔がありました。「立山」という言葉で、その女性が誰なのかすぐにわかりました。でも、名前が思い出せない。返事をためらっていると、私の表情で状況を察したのか、女性はさらに続けました。

 「やっぱり紀平さんね。渡辺ゆかりです。松本のホテルで別れて以来ね。たまたま通りかかったら「雷鳥」という名前の喫茶店があったので入ってみたの。で、ちょうどあなた達の事を思い出していたら、なんと、ご本人がそこにいるじゃない。びっくりしたわ。」
 「大学時代から近所に住んでいて、馴染みの店なんです。今では職場も近くて、ここにはよく来るんですよ。」
 「あらそうなの?そうそう、あの時のもう一人の女性、確か、大橋さんといったわね、今どうしてらっしゃるの。お元気?」
 「実は、大橋節子さんは、このマスターの娘さんなんですよ。今は別のところに住んでますけど、元気です。」
 「へえー、そうだったの。」
 「それにしても、渡辺さん。一度会っただけなのに、よく私たちの名前を覚えていましたね?」
 「私は人の名前を覚えるのが得意なのよ。司法書士という商売柄もあるけれどもね。」

 渡辺さんはさらに話したそうだったが、喫茶店の前で、先ほどの男性が待っていることに気づいたようで、ここに来れば貴女に逢えることがわかったから、また来ます。じゃ、またね、と手を振って店を出て行きました。

                   ✻

 私と大橋節子さんが立山に行ったのは、私が大学生になって二年目の時でした。「喫茶雷鳥」の常連客のくせに、立山に一度も登ったことがないなんて許せないと、節子さんに無理矢理に連れて行かれたのでした。私はどちらかというと文弱の徒で、登山やハイキングには興味がなかったんですが、節子さんが力説する、紅葉の立山のこの世ならぬ美しさを自分の目で見てみたいと心が動きました。で、登山じゃなく紅葉見物になら行きますと節子さんに答えたんです。立山には、「立山黒部アルペンルート」という、世界的な山岳観光ルートがあります。関西電力が、かつて黒部峡谷に巨大な「黒部第四ダム」を建設した際に造った工事用の通路を、ダム完成後に観光向けに転用したものだそうです。富山と長野の間の標高3千メートル級の北アルプスを、バスやケーブルやロープウエーなど、様々な乗り物を乗り継いで横断するルートです。この観光ルートなら登山じゃないから、体力のない自分でも大丈夫だと私は思いました。

 確かに身体は大丈夫でした。でも、選んだ日が悪かった。立山が一年で一番混雑する、紅葉シーズンの最盛期の日を選んでしまったんです。1991年10月10日、日曜日でした。私たちは、その前日に富山に入って、富山駅前のホテルに前泊しました。せっかく前泊したのだから、富山地方鉄道の始発かその次くらいの電車に乗ればよかったんですが、バカなことに、前夜は駅前の居酒屋で美味しい肴で酒を飲んでしまった。それで、寝過ごしたんです。当時の私は成人になったばかりだったけれど、酒には強い方でした。そこに油断があったんですね。それでも急いで支度をして電車に乗り込み、終点の立山駅に着いたのが午前11時半でした。立山駅は富山側からの「黒部アルペンルート」の出発点です。その時点で、私たちは既につまづいてしまっていました。立山駅から美女平へのケーブルカーが3時間半待ちだったのです。駅前はとにかく大変な混雑でした。団体客も個人客も入り乱れて、立っている人、座り込んでいる人、とにかく人が溢れていました。私たちは仕方なく、待ち時間を利用して昼食を弁当で済ませ、ついでに周辺を散策して、「立山カルデラ博物館」という施設に入ったりしました。こういう事でもなければ、多分、一生入らなかっただろうこの博物館は拾い物でした。おかげで、崩落と闘う立山のもう一つの歴史がよくわかったからです。

 美女平から高原バスに乗り継ぎ、やっと室堂に着いたのは午後4時でした。しかし、待っただけの甲斐はあったというべきでしょう。バスから眺める美女平から弥陀ヶ原一帯の紅葉黄葉は実に見事でした。錦繍という言葉が実感できました。室堂も晴天でした。こんなに雄大な景観は人生で初めて見た気がしました。じっくり周囲を散策したかったんですが、最終バスまで30分しかないので、土産を買ったあと、少し付近を歩いて、節子さんと記念撮影をしただけでした。出足が予定よりもだいぶ遅れたので、ゆっくりと室堂の景色を味わうことはできなかったけれど、なんとか、このまま、アルペンルートの出口の扇沢まで順調に進むかと思っていたら、これが大誤算でした。トロリーバスを降りて大観峰に出たら、そこでまた人の渦に巻き込まれてしまったんです。立山ロープウエーに乗るのに2時間近く待つ事になりました。様々な乗り物を乗り継ぐこのコースでは、収容定員の少ない乗り物がボトルネックになるんですね。大観峰からは黒部湖や後立山連峰を望むことができました。日がだんだん陰ってきて、一瞬、夕焼けに輝く山々の姿は、モネやセザンヌに見せたいくらいの、なかなか印象的なものだったんですが、光によって変化しているとはいえ、2時間も同じ景色を見ていると、節子さんも私も、少々飽きてしまいました。話のタネも尽きます。

 結局、私たちがロープウエーに乗れた頃には辺りは真っ暗になっていて、本来なら紅葉や黄葉で織られた絨毯の上を滑りおりるロープウエーは地下鉄と変わらない事になってしまいました。気の毒がった乗務員がロープウエーの灯りを消して「空の星を眺めてください」と粋な計らいをしてくれたのですが、残念ながら、満天の星というわけにはいきませんでした。ロープウエーを降りると、黒部ダムの上を歩くコースになります。これも、この山岳観光ルートの呼び物なのですが、まるで胎内めぐりのように、とにかくダムに転落しないように、まっくら闇の中を前の人に続いて手探りで歩いたので、どこをどう歩いたのかわかりませんでした。高所恐怖症の人にはよかったかもしれませんが、こんな経験はもうしたくないなと思いました。

 ようやく扇沢に出て、扇沢からバスで大町へ向かいました。大町でまた、松本までの電車を待つのに40分かかるというので、駅前の台湾料理屋で夕食をとりました。この夜は、松本市内で夕食をとる予定で、ホテルには夕食を頼んでいなかったのが幸いしました。なんとか松本駅に着いて、駅からタクシーで、松本城の近くにあるホテルに着いたのは夜の10時でした。このホテルは松本市内でも最も長い歴史を持つ老舗で、家具調度が全て松本民芸家具で統一されていました。節子さんの馴染みのホテルで、その時も彼女が予約してくれました。私たちは、部屋に案内されてすぐ、大浴場で汗を流しました。疲れたのか、節子さんは部屋に戻るとすぐに眠ってしまいました。でも、私はどうにも神経が高ぶっていて、すぐに眠れそうになかったので、ロビーに行くことにしました。新聞か雑誌でも読んで、眠気がやって来るのを待とうと思ったんです。ロビーには先客がいました。私の知っている夫婦でした。

                    ✻

 私が声をかける前に、向こうが私に気づきました。女性の方が声をかけてきました。

 「驚いたわねー、紀平さんじゃない。あなた達も同じホテルだったの?」
「私も驚きました。大町の駅前で夕食をとってから電車に乗って、ここに着いたのが10時でした。今、風呂に入ってきたところなんです。渡辺さん達は、夕食はどうされたんですか?」
 「ホテルに事情を電話したら、夜食を作って待っていてくれたんですよ。食後に風呂に入って、今は二人で一杯やっていたところ。」
 「そうだったんですか。それにしても、今日は一日、私たち大変な目に会いましたね。」

 そんな偶然の出会いがあって、私は再び、渡辺さんの遭難話を聞くことになりました。再びというのは、渡辺さんの旦那さんの立山遭難の話は既に一度、節子さんと一緒に聞いているからでした。先ほど言ったように、この日のアルペンルートは、一年で最も混雑した日で、各種の乗り物に乗るために数時間も待ち時間があるという、まるでディズニーランドのような状態でした。当然ながら、いつのまにか顔馴染みになった、同じ境遇の人たちの中で仲間意識のようなものが芽生えて、待ち時間の間に色々と会話を交わすようになったんです。特に、女性の渡辺さんは話好きで、かつて立山で遭難したのは旦那さんの方なのに、まるで自分が遭難したかのように話してくれました。渡辺さんの話はあちこちに飛んだんですが、まとめると次のようになります。

 それは、昭和が平成に変わってすぐの出来事だった。私がまだ10歳だった時だ。立山の紅葉を見物しようと、渡辺夫妻は富山へ出かけた。駅前のホテルに前泊して、今回と同じルートで室堂に着いた。出発時間が早かったせいもあって、乗り物の待ち時間もさほどなく、すこぶる順調だったという。しかし、天候だけは予定外だった。その日、立山に初雪が降ったのである。室堂平にはすでに薄っすらと雪が積もりつつあった。とはいえ、そのまま夫婦して大人しくアルペンルートを辿っていれば、何事も起こらなかった。でも、旦那さんが、せっかく立山に来たんだから、雄山の頂上に登りたいと思ったことが仇になった。彼が遭難したのである。その日の旦那さんの行動には彼なりの理由があった。その同じ年の夏のことである。職場の同僚に北アルプス登山に誘われた彼は、ほとんど登山は初心者だったけれど、人気の表銀座と呼ばれるコースを体験して、すっかり山の魅力に取り憑かれた。しかし、この時に履いていた、学生時代に買った古い登山靴の底が抜けるという事件があって、せっかくの槍ヶ岳の頂上に、仲間の内で一人だけ立てなかった。その時には、持っていたビーチサンダルで上高地まで降りてきたという武勇伝が生じたのだが、当人はずいぶん残念な思いがしたらしい。だから、今回の立山は紅葉見物が主目的ではあるが、是非とも雄山の頂上には立ちたいという目標があったのである。そのために、朝早く室堂までやってきたのだ。しかも、その日、雪が降り始めてはいたが、雄山の山頂を目指して歩く人は彼一人ではなく、他にもかなりいたのである。旦那さんは、そんな様子をみて、安心して頂上を目指した。奥さんは、昼食にと買った二人分のホタルイカ弁当を持って、一の越山荘で旦那さんの帰りを待つことにした。しかし、雪が降り積もり、あたりが暗くなってきても、旦那さんは戻ってこなかった。心配になった奥さんは、山荘の主人に相談して、救助要請を出すことにした。これは後でわかったことだが、この日、地元の山岳警備隊は、翌日の訓練の準備のために下山しており、派出所に残っていたのは二人だけだった。その二人も、急激に悪化した気候の中、宿泊予定者の安否を尋ねる旅館や山荘からの問い合わせに忙殺されていた。しかし、ここで幸運があった。民間協力隊員で山岳ガイドをしている男性が偶然に派出所を訪れ、この人と警備隊の一人が、吹雪の中、雄山の頂上まで様子を見に行ってくれたのである。しかし、彼らは旦那さんを発見することができなかった。どこかで遭難したのかもしれない。しかし、もう夜になりかかっていて、捜索隊を出すことはできなかった。彼らは、動揺する奥さんを励ましつつ、山荘に一泊することになった。奥さんは、自身の父親や旦那さんの家族に電話で連絡をとり、事情を説明した。彼らはすぐに立山室堂まで駆けつけてくれることになった。

 山荘で一睡もできないまま、夜があけた。前日の吹雪が嘘のような、雲ひとつない快晴だった。すっかり白く輝く新雪に覆われた立山は、神々しいまでに美しかった。しかし、奥さんの心境はそれどころではなかった。深い、底なしの穴に落ち込んだような気分だった。その早朝、山荘の無線で、登山者の死体が次々に発見される状況を聞かされたからである。中高年の登山ブームの中で起こった、後に「立山中高年初心者大量遭難事故」と呼ばれることになる、登山史上有名な事件が明るみに出た瞬間だった。奥さんは、まさにその現場にいたのである。しかも、自身の夫が遭難者の一人かもしれなかった。皮肉なことに、昨日、旦那さんの救助要請を出していたことが、この大量遭難事故への山岳警備隊の初動を早めた。しかし、そんなことは彼女の慰めにはならなかった。夫はもう死んでいるのかもしれない。彼女には、白く輝く立山がまるで死の山のように見えた。絶望的になった彼女を支えたのは、わざわざ夜を徹して立山にまで駆けつけてくれた父親などの肉親だった。その朝、十人近い遭難死体が次々と確認されたが、その中に、彼女の夫らしき者はいなかった。まだ希望はある。そして、奇跡が起こった。

 一の越山荘で奥さんを励ましてくれた山岳ガイドを含めた、富山県警の山岳警備隊員たちがヘリで遺体の収容作業などをしていた時、上空から、雪の山壁を歩いて降りている人物を発見したのである。ブルーの登山服を着ていた。そこは大汝山を三百メートルほど降った山崎カールとよばれる場所で、一般の登山ルートとは外れていたし、早朝の雪山に一人でこんなところにいるのは変だった。それに、その登山者はリュックも背負っていなかった。これは、救助要請の出ていた男性に違いない。そう確信した山岳ガイドは、無線で不審者の発見を本部に伝えた後、ヘリが近くで着陸できる平地を探した。そこは、その登山者からはかなり距離があったが、ヘリを降りた山岳ガイドが、そこから歩いて行くことにした。男性の方も、ガイドが近づいて来るのに気づいたようで、手を降って迎えた。ガイドが最初に口にしたのは、渡辺さんですね、という確認だった。男性は、そうですと答えた。間違いなく、渡辺さんの旦那さんだった。

 その頃、奥さんは、駆けつけた家族と一緒に、室堂の警備隊本部にいた。無線で、旦那さんの発見と無事が報告された時は、私の生涯でもっとも幸せな瞬間だった、あれから十年が経った今も、あの時のことは忘れられないと言った。旦那さんは、そのヘリで富山市民病院へ直接運ばれたので、奥さんと家族も、警備隊の人たちに礼を言った後、富山市内へ向けて室堂をたった。旦那さんは病院の集中治療室にいた。医者の話では、生命の危険はないが、もう少し救助が遅れていたら、凍傷で手足の指先を切断していたかもしれないと言った。

 以上が、その日、私たちが、立山黒部アルペンルートで乗り物の順番待ちをしながら、渡辺さんの奥さんから聞いた話です。その間、横で奥さんの話を、照れたようにニコニコしながら黙って聞いていた旦那さんは、遭難の当事者なのに、自分からは何も話しませんでした。旦那さんからの視点で、その遭難の話を聞いたのは、その夜、松本のホテルのロビーにおいてでした。もともと旦那さんは口数の少ない人物だったのかもしれません。それはかなり断片的な話でした。私なりにまとめると、以下のようになります。

 旦那さんが雄山の頂上を目指して歩き始めたとき、周囲にはかなりの数の登山者がいた。でも、吹雪が強くなり、登山に慣れない旦那さんは少しずつ遅れて、気がついた時には、一人きりになっていた。周囲は真っ白で視界がきかず、登山道もよくわからなくなっていた。それでも、上方を見ると木造の建物らしいものが見えたので、そこを目指して坂道を登った。どうやら、そこが雄山の頂上だったらしい。近くに、写真で見たことがある祠が見えた。ほっとした旦那さんは、ちょうど見かけた数名の登山者に、下山の道を尋ねた。ここで、一の越山荘と言わず、室堂への道を聞いたのが失敗だった。旦那さんは、室堂への道の途中に一の越山荘があると思い込んでいたのである。後から考えると、登山者が教えてくれたのは別の道だった。しばらく降って、どうやらこの道は来た道とは違うようだと気づいた旦那さんは、この時、重大な決断をした。全く視界のない真っ白な世界の中でこのまま歩き続けると必ず遭難する。どこか、風を避けられる所でビバークするべきだと。幸い、近くの岩にムロのようなものがあった。そこに入れば、強風は避けられそうだった。一の越山荘で待っている奥さんのことが気になったが、ここで遭難するよりは心配をかける方がずっとよかった。吹雪は一向に止みそうになかった。あたりはすっかり暗くなった。旦那さんは、ここで一夜を明かす覚悟を決めた。しかし、立山の夜の寒さは、旦那さんの予想を越えていた。後で聞くと、零下20度だったそうだ。もうそれは寒いという感覚を超えていた。寒さと闘うためなのか、身体中が大きく痙攣した。よく、凍死しないためには雪山で眠るなという話を聞くが、あんな寒さの中ではとても眠れないですよと、旦那さんは笑った。とにかく、一晩中、旦那さんは、ただただ激しく震えていた。ほとんど、何も考えることができなかった。ただ、その夜の出来事で旦那さんが唯一覚えていることは、雷鳥らしい鳴き声をそばで聞いたということだった。錯覚か幻聴だったかもしれないが、旦那さんは雷鳥だと信じた。その後、現在に至るまで、雷鳥は旦那さんの守り神になったという。

 翌朝は快晴だった。旦那さんは、これで助かったと深く安堵して、この上ない幸福感に包まれた。コリン・ウイルソンの言う「至高体験」と言うやつですね。ウイルソンは、至高の歓喜は絶望の後にしか訪れないと言っています、と旦那さんは言った。コリン・ウイルソンが何者か知らなかった私は、この旦那さんは、見かけによらず、なかなかのインテリなんだとその時思った。何という山なのか、旦那さんは名前を知らなかったが、近くの峰に朝日が差してピンク色に染まった光景は、見惚れるほど美しかったそうだ。その反対側の峰の稜線には、その朝の立山の朝焼けの風景を撮影する、山岳写真好きの登山者らしい姿が見えたという。たぶん、昨夜の吹雪を、山小屋の中で何事もなくやり過ごした人なのだろう。地獄のような前夜の試練をかろうじて凌いだ旦那さんには、そんな風に周囲を観察する余裕さえ戻っていた。そろそろ、室堂の方に降りようと動き始めた時、上空をヘリが飛んでいるのが見えた。ああ、自分を救出しにきてくれたんだなと、さらに安堵した。ヘリの姿が見えなくなったと思ったら、そちらの方向から一人の男性が歩いてきた。救助の人だ、思わず手を振った。旦那さんが、本当に助かったと実感した瞬間だった。それだけに、最初の身元確認のあと、その救助の男性、(旦那さんは知らなかったが、昨夜、一ノ越山荘で奥さんを慰めてくれたまさにその人物だったわけだが、)が言った言葉に、旦那さんは呆然とした。「昨夜の吹雪は大変でした。八人ほどの登山者が亡くなりました。あなたは無事でよかった。奇跡です。」


                   ✻

 以上が、立山で初めて会った渡辺夫妻から、私が直に聞いた話です。その後何年間も、二人と会うことはありませんでした。「喫茶雷鳥」で偶然再会するまで。でも、「喫茶雷鳥」で会ったのは、渡辺さんの奥さんだけで、その時に一緒にいた男性は、あの立山で会った旦那さんではなかった。二人は離婚したのだろうか、それとも不倫か、そんな事をつい考えてしまいました。でも、立山で出会った夫妻の仲のいい印象からは、不倫なんてことはあり得ないと思いました。あの時、旦那さんはこんなことを言っていました。これほどの体験をしたら、人間は成長して悟りを開くと思うでしょう。でもね、私は全然変わらなかったんですよ。夫婦喧嘩だってしますしね。でもね、最後は私があやまります。やっぱり家内には頭が上がりません。なにしろ、あんな思いをさせたんだから。酒が入っていたとは言え、大学生の私にむかってそんなノロケ話をした旦那さんの顔を、幸せそうに見つめていた奥さんの表情が今も記憶に残っています。だから、夫婦別れは考えられませんでした。それでは、死別なのか。あの旦那さんは亡くなったのか。それなら、奥さんはどうしてそのことを言わなかったのか。そんなことをいろいろと考えてしまいました。

 その後、話は意外な展開をすることになります。まず、「喫茶雷鳥」で、また渡辺さんの奥さんと会いました。その時は、マスターから、彼女が私と会いたいと言っていると言うのを聞いて、互いの時間を都合して会ったんです。面会場所は、もちろん「喫茶雷鳥」でした。私が「喫茶雷鳥」に入ると、奥さんはすでに店内にいました。前回とは違う男性が一緒でした。彼女より、ずっと若い男性でした。

 「ああ、紀平さん。忙しいのに、お呼びたてしてごめんなさい。この前、あなたにまた会えるかと思ってここに来たんだけど、結局会えなくて、その時、マスターとあなたの噂話をしたのよ。そうしたら、あなたは息子の大学の先輩で、出版業界で働いているって言うじゃない。ちょうど、息子が就職活動を始める時期なので、一度、先輩として色々と話を聞かせてもらえないかと思って、マスターにあなたの都合を聞いてもらったのよ。あっ、紹介が遅れました。これが息子の幸輔です。マスコミか出版業界に就職したいんですって。」

 これが、私と、現在の夫である、渡辺幸輔さんの最初の出会いでした。その後、まだ現役の大学生だった幸輔さんとは、就職相談という口実で何度か会うことになりました。実際は、私が初対面の時から彼に好意を抱いたんです。一目惚れですね。もともと彼はかなり優秀な青年で、就職に関しても、私のアドバイスなど必要ではなかったので、ある有名な通信社にすんなり就職することができたんですが、年上の私との関係は、彼が就職してからも続いて、ついには結婚することになりました。私は、今でも仕事では紀平を名乗っていますけど、戸籍上の姓は渡辺です。

 二度目か三度目かのデートの時だったかと思います。私は幸輔さんに以前から気にかかっていたことを尋ねました。

 「幸輔さんは、私とお母さんがどこで知り合ったか、お母さんから聞いてる?」
「ええ、喫茶雷鳥で偶然知り合ったんでしょ?」

 これを聞いて、私は一瞬、言葉に詰まってしまいました。立山での出来事を彼に話していないんです。これは一体、どういうことだろう。私は、初めて「喫茶雷鳥」で渡辺さんの奥さんと会った時のことを思い出しました。あの時は、立山で会った旦那さんとは違う男性と一緒だった。何か、事情があるのだろうか。旦那さんとは離婚していて、あの立山での話はもうタブーになっているとか。私は、幸輔さんに、慎重に探りを入れました。

 「あのう、まるで家族調査みたいで、気に障ったらごめんなさい。お父さんは今、何をなさっているの?」

 その時の幸輔さんの返答が、私をさらに混乱に陥らせました。

 「父は、ぼくが8歳の時に亡くなりました。立山で遭難したんです。当時は、まだ子供だったので、詳しい事情はわからなかったし、母もその話題には触れなかったので、時間が経つにつれて、ほとんど忘れていたんですが、高校生になった時に、登山好きの友達の家にあった『山と渓谷』という雑誌のバックナンバーを読んで、当時の遭難の詳しい経緯がわかりました。そのバックナンバーは、友達の父親が、やはり登山が趣味だったので、昔から揃えていたんですね。この雑誌と巡り会ったのはまったくの偶然でしたが、その時は、なんだか運命的なものを感じました。死んだ父親が、ぼくをここに連れてきて、これを読ませたんじゃないかなんてね。」
「で、遭難の詳しい経緯って、どんなものだったの?」
「ちょっと話が長くなるけど、いいですか。その雑誌記事は、なんだか、中高年の登山初心者が登山ブームに乗って起こした、無謀登山による大量遭難死事件みたいな書かれ方で、正直、読むのが辛かったですね。当時、父は京都で税理士をしていたんですが、大津と京都に住む、女性を含む、税理士仲間ら十人のグループで毎年山に行っていたようです。山岳会的なグループじゃなかったので、たぶん、その時も本格的な登山ではなく、秋山ハイキングと温泉を楽しむといった旅だったんでしょうね。遭難してから、装備があまりに軽微だったと批判的に書かれていましたから。予定では、一の越山荘から雄山、大汝山、富士ノ折立、真砂岳、別山と縦走して、剱御前小屋に宿泊。翌日は、別山尾根から剱岳を往復するグループと、劔沢と雷鳥沢周辺を散策する二つのグループに分かれて、夕方に合流してロッジ立山連峰に宿泊することになっていました。父は剱岳に登るような山男タイプじゃなかったので、たぶん、後者のグループだったんだと思います。

 グループが一ノ越山荘に到着した時には、もう吹雪になっていました。ここで登山を中止してもよかったんだけど、一行は、予定通り雄山を目指しました。予定時間よりもかなり遅れたけれど、なんとか雄山に正午過ぎに着きました。社務所の軒下でみんなで昼食をとったそうです。昼食後、一行は、宿泊予定の劔御前小屋をめざして歩き始めました。でも、グループの中には女性もいるし、体力もまちまちなので、吹雪の中、一行は、だんだんバラバラになってきて、中には自力で歩けなくなる人も出てきました。この時点でようやく、グループのリーダー格の人が救助を要請することを決めて、一番元気な人二人が近くの内蔵助山荘まで行くことにしたんです。この先のことはもういいですよね。結局、十人のグループのうちで、八人が亡くなりました。ぼくの父親もその八人の一人だったわけです。」


「辛いことを思い出させてごめんなさい。」私はそう言うのが精一杯でした。頭が混乱していました。あの、立山での夫婦の話は、一体、なんだったんだろう。あの時の旦那さんは、そもそも誰だったのか。私は幸輔さんに尋ねました。

「その雑誌記事に、遭難したグループ以外に、同じ時に、同じ立山で遭難した人がいたけれど、無事救出されたというような事が書かれていなかった?」
「確かに、そんな文章があったけど、紀平さん、どうしてそんなこと知っているの?」
「えっ? ああっ、たぶん、子供の頃にそんな話を聞いたような気がしたので。実は、私は滋賀県の大津の出身なの。私は幸輔さんより二歳年上だから、あの大量遭難のニュースは地元に関する大事件として何度も聞いていたはずよね。すっかり忘れていたけど、幸輔さんの話を聞いているうちに、その記憶がかすかに蘇ったのかもしれないわね。」
「へえー、紀平さんは大津出身なんですか。ぼくは、父親が亡くなったあと、京都から母親の実家がある東京に引っ越してきたので、子供の頃に父と一緒に泳いだ琵琶湖は、今でも懐かしく思い出しますよ。」
 幸輔さんは、本当に何も知らないようでした。この母子の関係はどうなっているのだろうと、私は思いました。

                 ✻

 それから、私の雑誌編集者としての探索が始まりました。色々と伝手をたどって、手間取ったけれど、最後には、「山と渓谷」で当時、取材執筆した人物に辿り着きました。我ながら、なかなかやるなと感心しました。その人物は、当時、立山から無事生還した男性のその後については情報を持っていませんでしたが、渡辺さんの奥さんのことははっきりと記憶していました。事件の後、生き残った二人と亡くなった八人の遺族の間に行き違いが生じそうになった時、渡辺さんの奥さんが、色々とまとめ役になったそうです。もっと重要な発見がありました。奥さんは、当時、その無事に生還した人物夫妻とも連絡を取り合っていたというのです。それを知って、私は興奮しました。あの立山であった、旦那さんだと思った男性は、その無事に生還した男性に違いない。でも、なぜ、渡辺さんの奥さんと、その男性が、遭難事件の十周年を記念して一緒に立山に行ったのか。そして、私たちに、本当の旦那さんが亡くなった話をせず、助かった男性の話を自分の旦那さんの経験談として話したのか。本来なら、あれは十年目の慰霊の登山だったはずなのに、あの日の二人からは、そんな様子は全く窺えなかった。ひょっとして、あれは不倫旅行だったのか。考えれば考えるほど、わけがわからなくなりました。たぶん、本当のことは、ご当人の渡辺さんの奥さん本人に聞くしかないのだろうと私は思ったけれど、とても、そんな話はできそうにありませんでした。

 さて、私の話はここまでです。結局、謎は謎のままにおわりました。おや、こんな奇妙な出来事があったのに、渡辺さんの息子である幸輔さんと結婚した紀平さんの気持ちの方が謎だという声が、今どこからか聞こえましたね。では、最後にとっておきの謎をお届けしましょう。幸輔さんと親しくなって、互いに結婚を意識し始めてから、幸輔さんの部屋に伺った時、亡くなったお父さんの写真を見せてもらいました。そのお父さんの顔は、まさに私が立山で出会った男性の顔そのものでした。

                                (完)

 ●参考文献:羽根田 治 著 「山岳遭難の傷痕」 山と渓谷社
 
 

 

 

 
    

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