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「連載第三回」

 第十代将軍、徳川家治の就任を祝賀する朝鮮の使節が漢城(ソウル)を出発したのは英祖39年(1763年)8月の事だった。正史は、当時、朝鮮きっての知日派と言われた、弘文館副提学(正三品)趙嚴(日偏に嚴)、副使に世子侍講院輔徳(従三品)李仁培、従事官に弘文館修撰(正六品)金相イク(立偏に羽)の三使臣をはじめとする、総勢477名の使節団であった。漢城から釜山までは陸路、釜山から海路になる。釜山では、現地の役人が主催する妓生を交えた歓送の宴会や、航海の無事を祈る「祈風祭」などの公式行事に日を費やし、釜山を出港したのは10月に入ってからだった。6隻の大船に分乗した通信使の一行がまず目指したのは、晴れた日には釜山からも遠望できる対馬だった。対馬はもちろん、徳川幕府の支配下にある日本国の領土であるが、山ばかりの対馬では収穫できない米の支給を受けるためもあって、長らく朝鮮の冊封を受けていた。つまり、対馬は一種の両属関係にあった。もちろん、これは対馬藩が自ら望んだことではない。ただ、他国の領土に米を無償で支給する大義名分のない朝鮮政府が、国内的な説明のために冊封関係を捏造したのである。従って、ソウルから国書を奉じてやってきた通信使一行にとっては、対馬は対等の外国ではなく「対馬州」という一地方に過ぎないとも言えるのだった。事実、釜山から対馬の間の航海には、釜山港にまで出迎えにきていた対馬の船が水先案内を務めた。

 対馬は南北に長い島である。島の北西端にある佐須浦港に着いた一行は、さらに数日をかけて、対馬府中藩十代藩主宗義暢の居城する府中(厳原)に着いた。もちろん、対馬藩なるものを公式には認めていない朝鮮の使臣たちにとっては、宗氏は単なる「島主」だった。貿易を含む朝鮮との交渉の窓口となり、琉球や長崎とも交易して財を築いた対馬だったが、当時の対馬藩は、通信使の接待費用の援助を幕府に要請するほど財政事情が悪かった。それでも、藩主以下、藩を挙げて通信使の接待に務めた。それこそが対馬藩が徳川の世に生き抜く道だったからである。

 厳原滞在中に水夫頭が死亡するという出来事があったものの、約半月ほど対馬に滞在した使節団の船団は、対馬藩主らを同行させて予定通り出航した。一行は、壱岐、藍島、赤間関、上関、鞆浦、牛窓、室津、兵庫などを経て、無事に大坂に着いた。途中、それぞれの湊を所管する藩では、藩主をはじめ藩をあげて一行の接待に努めた。何度も宴会が開かれ、使節と藩の儒者や僧侶らとの間で詩文が交換された。通信使たちも上陸に際して、奏楽隊を先頭にした華やかな行列を披露して、それぞれの寄港地の人々に子々孫々にまで伝えられる強い印象を与えた。しかし、福岡、藍島で強風のため着岸失敗して副使の船が大破し、浸水して献上品の品々が水浸しになるという事故があった。副使の船は以後、福岡藩の船を利用することになる。厳原での水夫頭の死といい、今回の通信使には何やら不吉な影が差していた。瀬戸内海に入ってからは平穏な航海が続き、通信使一行の船は、尼崎藩の護衛船団に守られて、瀬戸内航路の終着港である大坂に着いた。一行が江戸から戻るまで、使節団の船はこのまま百人以上の船頭らとともに大坂の尻無川に停泊することになる。京まで淀川を航行するには使節団の船の吃水線が深すぎるのである。尻無川河口で幕府の絢爛豪華な御楼船や諸大名の川御座船に乗り換えた一行は、百隻以上の大船団となって半日がかりで淀川をさかのぼって市中の難波橋で下船、そこから陸路で宿館である御堂筋の西本願寺別院(北御堂)に向かった。宝暦十四年(1764年)一月の事だった。使節団が大坂に着いたのは夜だったので、松明や篝火が川の両岸さらには宿館までの経路の左右に用意され、有料の桟敷席が設けられた。露店まで出ていて、一生に一度見られるかどうかわからないこの異国の一行の楽隊の演奏付きの華麗な航行と行進を、地元大坂だけではなく、精一杯着飾って近在の諸方から集まった数十万の人々は皆、歓声をあげながら見物した。彼らにとっては異国の人間は全て唐人だった。中国と朝鮮の区別などはなかった。数多くの商店の立ち並ぶ大坂の町の繁華や人々の衣装の華美は、はるばる海を隔てて朝鮮からやって来た使節の人々をも驚かせた。大坂は、彼らの故地漢城(ソウル)以上に繁栄した大都市だったのである。

 岸和田藩は、大坂での接待と警備を命じられていた。家老職を繼いでいた兄の補佐役として、鼓二郎も大坂に詰めていた。宏壮な西本願寺別院には、岸和田藩だけではなく、近隣の藩や町奉行所から来た人間、更には通信使一行と同行して来た対馬藩の藩士ら千人以上もの人間で溢れていた。そこに、通信使との漢詩や書画の交換を希望する学者や富裕な商人たちも多数訪れ、一行が滞在中の西本願寺は終日喧騒に包まれた。その喧騒は、一行が滞在する五日間ずっと続いた。接待役である鼓二郎も兄も数ヶ月前から緊張していた。緊張する理由があった。まだ雨森芳洲が健在で通信使と同行していた時の話である。徳川吉宗の将軍就任を祝賀する通信使が大坂に滞在した。当時の岸和田藩主は岡部長泰だった。当然ながら、接待役の責任者として、大坂町奉行らとともに、通信使の正使、副使、製述官らを歓迎する宴会に出席した。この時の製述官は申維翰と言った。製述官は、特に詩文に優れた高級官僚が指名され、通信使の任を終えた後に、その報告書を国王に提出する。申維翰は「海游録」を書いた。どういう経路でか、その写本が日本にももたらされた。そこには、岡部長泰を評して、「老衰して人に似ず」と書かれていたのである。さらに、「日本の高級官僚は世襲なので人を選ばず、動作も言語もぎこちない。怪鬼のようで笑うべきだ。」とまで書かれていたのである。当代の藩主、岡部長住はまだ二十代で英明な人物であったが、だからこそ、今回は藩主にこんな恥辱を与えてはならない。家老として藩主を補佐する兄、さらにその兄を補佐する皷二郎は、通信使一行を迎えて極度に緊張する日々を過ごしていた。したがって、この時、お咲きが、通信使に同行する対馬藩の通詞の一人として大坂にやって来た伝蔵と密かに会っていたことを全く知ることがなかったのは仕方がないことだった。

 大坂の宿館を出発した通信使の一行は、幕府や諸藩が用意した数多くの船で淀川を遡った。両岸には例によって多くの見物人が詰めかけた。幕府の用意した船は豪華な設えで、それに乗船する通信使一行の華やかな衣装や奏楽隊の演奏は見物人たちの賛嘆を集めた。一行は京都にしばらく滞在した後、各地で歓待を受けながら東海道を江戸へ向かった。彦根、名古屋、静岡などを経て、箱根を超えてようやく江戸に入った。江戸での宿館は東本願寺だった。江戸で三使は新将軍徳川家治就任祝賀の拝謁をし、朝鮮国王英祖からの国書を奉呈するとともに、朝鮮人参、虎皮、筆、墨、髪、駿馬などの品を献上した。江戸城で四拝礼を強制され、正使らは屈辱を感じたが耐えた。この背景には、通信使が当初から抱えた大きな問題があった。通信使の意義に対する両国の見解の相違である。徳川幕府は、自らの権威付けのために通信使を利用し、一行を朝貢使として扱おうとした。当然ながら、朝鮮政府は違う考え方を持っていた。通信使は隣国としての儀礼の使節であり、道徳や文化に劣る野蛮な国の教化のための使節であり、潜在的な敵国の国情を探るための視察団でもあった。帰国後は、巡察の結果を国王に報告しなければならない。だからこそ、正使ら三役は、四拝礼強要という屈辱に堪えたのである。しかし、正使らの抱いた不快感は、その後の使節団一行の心情に微妙な影響を与えたかもしれない。その影響を直接に最も多く受けたのは、使節団に同行する対馬藩の人間であったろうと想像することは容易である。ともかく、無事に役目を終えた一行は、往路と逆の行程を経て、再び大坂に帰り着いた。事件はその時に起こった。(つづく)


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