韓国の旅 #2
新羅の古都慶州
ソウル駅を出発したセマウル特急は、次の目的地である、慶州をめざして快調に走りつづけた。朝鮮半島の各地を結ぶ鉄道網は、ほとんど日本の植民地時代に完成した。私は特に鉄道ファンというわけではないのだが、今、手元には、新潮「旅」ムックの一冊である、「日本鉄道旅行地図帳 歴史編成」の「朝鮮・台湾」編がある。薄い本であるが、カラー刷りの地図や歴史的な写真がたくさん収録されていて、眺めているだけでも楽しい。そこで紹介されている路線図を見ると、ソウル(京城)と釜山を結ぶ路線としては、京釜線と京慶線があるようだ。慶州へ行くのだから、京慶線で行ったのかと思ったのだが、どうやら、私たちが乗ったのは京釜本線だったようだ。というのは、当時、万博が開催されていた、大田(テジョン)駅を通過した記憶があるからだ。ということは、私たちのセマウル特急は、水原(スウオン)・天安・大田・大邱(テグ)ときて、そのまま次駅の釜山には行かずに、大邱から大邱線に入って慶州へ行くコースをたどったのだろうと思う。私たちはガイドなしで電車に乗っていたのだから、乗り換えなどというハードルの高い行為はしたはずはない。たぶん、慶州・蔚山(ウルサン)経由で釜山へ行く特急だったのだと思う。私たちは、ちゃんと慶州駅で降りられるかどうか心配しながらも、とりあえず、韓国の田園風景などを楽しみながら、なんとか無事に慶州駅に到着した。なお、現在では、ほぼ同じコースに、韓国版の新幹線であるKTXが走っている。その日、慶州駅のホームでは、若い女性のガイドが待ってくれていた。朴さんという、まだ専門学校を出てガイドになってから間もない(というのは後からわかったわけだが)、初々しい女性だった。今度は、運転手と専用車がついていた。
慶州に行ったことのある人は、みんな奈良に似ているという。確かに、ソウルとは人々の歩く速度も違うような、のどかな街だった。慶州は、かつての新羅の古都である。古くは金城(クムソン)と呼ばれていた。かつて、韓半島は4つの地域に分かれていた。高句麗、百済、新羅、任那(韓国ではこの名称は使わないようだが)である。わが倭国は、この一番南の海岸沿いに位置していた任那と、鉄の交易などを通じて、深く交流していた。「任那日本府」が存在したかどうかはともかくとして、倭人が多く居住していたのは確からしい。この地域には、日本国内と同型の前方後円墳も発見されている。しかし、小国に分かれていた任那は、西部を百済、東部を新羅にそれぞれ併合され、時代は高句麗、百済、新羅の三国時代に入る。北方の高句麗が圧倒的に強かった。この三国と倭国は、互いに争ったり、同盟関係を結んだりしていたのだが、最終的に韓半島を統一したのは、中国の唐と連携した新羅だった。新羅は、国民の姓名を中国風に変えるなど、徹底的な唐化政策をとって唐の信頼を勝ち得たのだが、あくまで独立国としての地位は守り抜いた。この新羅の勝利を決定づけた戦いが、有名な「白村江の戦い」で、この戦いでの大敗が、倭国の韓半島からの最終的な撤退を促し、同時に、日本列島においては、倭国から日本国への転換をもたらすことになったというようなことは、今では、歴史の教科書に載っているのかな。
余談になるが、最近、荒山徹さんの「白村江」を読んで、とても面白かった。荒山さんは、白村江の戦いを、伝奇作家らしく、まったく新たな視点から描いている。それは実際に読んでもらうとして、意外に思ったのは、もともと高句麗と百済は、北方から韓半島に南下してきた騎馬民族の国で、そもそも両国は兄弟国家なのだが、任那や新羅の人こそが土着の人々だったのだと書いてあったことだった。さらに余談を続けると、百済滅亡後、百済の王族や官僚たちは、同盟関係にあった倭国に亡命して、ともに日本国の建設に勤しんだわけだが、私がかつて読んだ、東アジア古代史関連の本の中に、日本人の大半は実は百済人だと主張する本があって、その著者は、今でも日本人が朝鮮半島の人間に反感を持っているのは、彼らが、百済を滅ぼした新羅人だからだと書いていた。その証拠に、百済人の亡命官僚が書いたと思われる「日本書紀」には、新羅の悪口ばかりが書かれていると言う。さすがに、それはどうかなと思う。最後にもうひとつ余談。歴代韓国大統領の出身地の話だが、それが、大邱や釜山などの、旧新羅地域に偏っていて、旧百済地域からは、金大中を除いて、まったく選ばれていないという話は、なかなか興味深い。旧高句麗地域は、現在は北朝鮮になっているから、関係ないですね。いずれにしても、三国時代は大昔のことではあるが、今でも、地域性というのは現在の韓国に遺っているのかもしれない。
話を戻す。慶州駅でガイドの朴さんに迎えられた私たちは、さっそく、昼食に連れて行かれた。韓国風の瓦屋根に白いタイル貼りの平屋で、看板にハングル文字で「プサンシクタン」と書いてあった。「釜山食堂」である。慶州なのに釜山とはこれいかに。ここで食べた昼食は、主菜や副菜の入った皿が、オンドル部屋の低いテーブルいっぱいに並ぶ、とても食べきれないような種類と量だった。当時の記念写真をみると、鍋料理がメインで、チジミなども出ていたようだ。チジミは主菜なのか副菜なのか、どっちでしょうね。ついでに書いておくと、当時はまだスマホはもちろん、デジカメもなく、フィルムで撮った写真は全て印画紙に現像していたから、どうしても、現在のように数多く撮るということがなかった。というわけで、この時に撮った記念写真の数はあまり多くない。今なら、料理の一つ一つを記録していたはずだ。というわけで、昼食で腹一杯になった私たちは、いよいよ慶州観光に出発した。まず向かったのは、仏国寺(プルグッサ)と石窟庵(ソックラム)だった。どちらも世界遺産に指定されている、韓国を代表する名所である。日本で言うと、法隆寺のようなものですかね。長らく荒れていたが、1970年代に入ってから整備されたそうだ。私たちが訪れた時には、観光地として、かなり賑わっていた。三層の石塔である釈迦塔と多宝塔が有名だ。私も、この塔だけはしっかりと見てきた。写真で想像していたよりも大きな石塔だった。石窟庵は、仏国寺から山道を20分近く歩いて上がったところにあるのだが、ひょっとすると、専用車で送ってもらったかもしれない。記憶が定かではないのだが、新羅仏教彫刻の最高峰だと言われる釈迦如来像は確かに素晴らしい石像仏だった。白くて、まるで大理石でできているようだった。
次に案内されたのは、仏国寺からは慶州駅の方に戻ることになるのだが、慶州中心部にある古墳公園だった。新羅時代も、この辺りが中心地だったようだ。古墳公園は大陵苑(テヌンウオン)と呼ばれる、新羅時代の古墳が23基も散在する公園だった。有料だった。当時の入場チケットがアルバムに挟んであったのだが、大人880ウオン。当時の感覚では、日本円で50円というところか。それぞれの古墳は、日本の古墳のように樹木に覆われておらず、美しく刈り込まれた緑の芝生の円丘だった。広大な公園である。ここでゴルフをしたら、球がどこに転ぶかわからず、面白いかもしれないとは、その時、私は思わなかった。当時も今も、私はゴルフをしないから。この大陵苑の中に、天馬塚(チョンマチョン)という古墳があって、ここだけは内部が公開されていた。たぶんレプリカだと思うが、ここから出土した新羅時代の金冠などが展示されていた。なお、私は観ていないが、韓国歴史ドラマに登場した「善徳女王」の陵は、この大陵苑ではなく、別の場所にあるそうだ。この新羅初の女王の死後まもなく、その後を継いだ武烈王(金春秋)や金将軍(彼らの陵も別の場所にある)によって、新羅は三国を統一する事になるわけだが、そのあたりの事は、荒山さんの「白村江」に面白く描かれている。当時の私は、そんな歴史的知識もなくて、慶州を歩いていたわけだ。
これで、慶州での第一日目の予定が終わった。あとは、この夜の宿泊所である慶州ヒルトンホテルに送ってもらうだけだったのだが、私たちは、特にガイドの朴さんに頼んで、高麗青磁の窯元に連れていってもらった。というのも、仏国寺を見物した後、土産物店に連れて行かれたのだが、かねて焼き物に興味があった妻が、そんな観光客向けの陶磁器ではなく、本物のある窯元に行きたいと希望してあったのである。というわけで、わざわざ朴さんが連れて行ってくれた窯元(天馬窯という名前だった)には、観光客向けの安物ではない、素晴らしい高麗青磁の焼き物が並んでいた。せっかく連れてきてもらったのだから、何も買わないわけにはいかない。といっても、高価なものは買えない。私たちは、しばらく迷ったあとで、適当な価格の花瓶を選んで買った。そうすると、これはいいカモだと思ったのか、店の人が、高麗青磁の人間国宝だという若い男性を連れてきて、私たちと記念撮影をしてくれた。そうなると、その人の作品も買わないといけない。恐る恐る聞いてみると、そんなに高額ではなかったので、その人の作品である、高麗青磁の小さい香炉を買った。この高麗青磁の花瓶と香炉は、今でも、我が家の床の間に飾ってある。その人間国宝の名前は忘れた。
たぶん、その日の夕食は慶州ヒルトンホテルで食べたのだと思うが、写真も記録もないので、よくわからない。ヒルトンホテルは、慶州一風光明媚な(たぶん)普門湖のほとりに建つ、ハイクラスのホテルだった。なにしろ昔のことで、ホテルの印象は曖昧になっているのだが、翌朝の朝食後にホテルの周囲を散歩したら、とても気持ちがよかったという記憶がある。その日、ホテルを出た私たちは、国立慶州博物館を見物した。立派な施設だったが、展示物の記憶はない。ただ、韓国の国宝だという「エミレの鐘」(正式名称は聖徳大王神鐘)という、繊細な彫刻を施された大きな青銅の、ちょっとヒビが入った古い鐘だけが印象に残っている。博物館の入場券にも、この鐘の彫刻が印刷されていた。ガイドの朴さんの説明によると、何度鋳造しても音が出ず、音を出すために、青銅とともに溶かされた幼女が、鐘をつくたびに、エミレ(お母さん)と泣くのだそうである。よくある人身御供の伝説だが、ひどい話だ。見物の後、博物館を出た私たちは、専用車で、一路、釜山をめざして高速道路をひた走った。慶州から釜山までは、そこそこ距離がある。私たちは、車に揺られながら、少し眠った。だから、途中から雨が降り出したのに気づくのが遅くなった。(つづく)
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