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中国の旅 #5


二度目の上海・ちょっと蘇州  2009年

 2度目の上海の旅。3日目は、蘇州への日帰りオプションツアーを申し込んでいた。今回の参加者は、前日の上海半日ツアーとは違って、20名近かった。だから移動はバスである。ホテルを数カ所回り、参加者全員が揃ったところで、朝早くバスは西方の蘇州へ向かって出発した。上海から蘇州まで約2時間の行程である。今回の現地ガイドは、過去二日間と違って、若い男性だった。「シショウ」と呼んでくれと言っていたが、どんな字を書くのかは聞き漏らした。彼は蘇州につくまで、上海の車事情など、いろいろな話をし、「蘇州夜曲」を歌ってくれた。完璧ではないが、流ちょうな日本語だった。歌も合格点。

 蘇州に着いて、最初の訪問地は「留園」だった。中国は世界遺産の多い国だが、この「留園」も「蘇州の古典庭園」のひとつとして世界遺産に指定されている。私は建築ファンではあるが、庭園についてはよく知らない。イギリス式庭園、フランス式庭園、そして日本庭園など、いくつかの庭を見たが、それぞれに良さがあった。私の見るところ、中国式庭園の良さは、建築と一体になっているところである。敷地の一方に建築があって、片方に庭園があるという配置ではなく、庭園と建築が入れ子になっているのである。それぞれの建築物は渡り廊下でつながっている。各建築物の窓は、円形あり方形あり、それぞれに格子の模様が工夫されている。どの窓から庭を切り取って眺めるか、どの建物から庭を眺めるかで、同じ庭が全くその表情を変えるのだ。留園はまさに、そういう構造だった。そして、中国庭園のもうひとつの魅力は、それが王侯貴族の権力の象徴ではなく、文人墨客の趣味や思想の象徴であるところだ。古来、科挙制度のあった中国では、高級官僚イコール文人であったわけだが、一般的な彼らの生活信条は、「昼は孔孟、夜は老荘」だったと言われている。文人たちの造った中国の庭園は、この老荘的なものの象徴であった。つまり、桃源郷である。この留園だけではなく、中国の庭園で広く尊ばれる太湖石などの奇岩は、桃源郷の象徴なのだった。


 留園の次に寒山寺を訪れた。一定の年代以上の日本人にとっては、郷愁さえ覚えさせる寺だ。というのも、昔から有名な唐代の七言絶句「楓橋夜泊」の舞台だったからである。

  月落烏啼霜満天  月落ち烏啼いて霜天に満つ
  江楓漁火対愁眠  江楓漁火愁眠に対す
  姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外の寒山寺
  夜半鐘声至客船  夜半の鐘声客船に至る

 作者の張継は、科挙に不合格になり、故郷に帰る途中に寒山寺に寄った。夜、楓橋付近の客船で眠れずにいると、寒山寺の鐘の音が聞こえてきたという内容の漢詩である。特に第一句が素晴らしい。漢字の持つ、雄渾にして簡潔なイメージ喚起力に感心する。あの芭蕉も、この詩に影響を受けた。というわけで、私も寒山寺は楽しみにしていた。実際に訪れた寒山寺は、私の事前のイメージとは少し違っていた。寒山寺という名前は、「寒山拾得」が由来だということを知っていたから、やはり、どこかで淋しい山寺をイメージしていたのである。寒山寺は華やかな平地の寺院だった。もちろん、道教寺院のような極彩色ではないが、鮮やかな黄色い壁、朱い柱、そして、黄金に輝く仏像群などは、日本人の持つ寺院のイメージからは遠いものだった。いつも思うことたが、中国の仏像は、どうしてこんなにも有り難みがないのか。中国人はどうして、こんな金ぴかの仏像に手を合わせるのか不思議だったが、逆に考えれば、中国人は日本の仏像を不思議がっているのかも知れない。どうして、こんなに金箔の剥げた、古ぼけた貧相な仏像を拝むのかと。

 この日の昼食の会場は、蘇州の特産品だという真綿の布団工場の階上にあった。中国人を含め、いくつもの団体が利用しているようで、広大な部屋に、数え切れないくらいテーブルがあった。千人くらいが一度に食事できるかもしれない。食事が終わってから、真綿布団の工場と、絹製品を中心とする蘇州土産のフロアを見物させられた。こういうツアーにはつきものだから仕方がない。なかなか良いものがあったが、結局、私は何も買わなかった。(家内はスリッパを買った。)腹ごしらえが終わったところで、いよいよ蘇州の旅のハイライトである。運河を船で行き、水上から、東洋のベニス、蘇州を見物するのである。バスを降りた私たちは、全員、黄色い屋根の小さな船に乗り込んだ。残念ながら、船頭さんが棹でこぐのではなく、エンジン付の船だった。

 地図を見ると、運河は環状に蘇州の旧市街を取り囲んでいるが、私たちは、旧市街の西北郊にある虎丘というところをめざしていたので、水路を一周したわけではなく、たぶん、水路のごく一部だけを航行したに過ぎないのだろうと思う。ほとんどが、幅の狭い、支流のような水路だった。その分、人々の生活が近かった。水路のそばで、お母さんに散髪してもらっている男の子を見かけたが、観光客にいつも見つめられながら生活するのも、しんどいものだろうと思う。その他、船の中から、何枚も写真を撮ったが、あとで見ると、蘇州の詩情を感じさせる写真は1枚もなかった。やはり、いきなりやってきて、昼日中の観光遊覧船からコンパクトデジカメで傑作写真を撮ろうとしても、そうは問屋が卸さないという事なのだろう。(ついでに書いておくと、今回の旅には、重いから、一眼レフカメラは持っていかなかった。)

 実は、蘇州に行くまで、虎丘の事は何も知らなかった。どうやら有名な観光地だったようである。「臥薪嘗胆」で有名な、春秋時代の呉王夫差の父親である闔閭(コウリョ)の墓陵があり、丘の上には、東洋の斜塔として有名だという虎丘塔があった。どうして虎丘というのかというと、呉王が葬られた時、白虎がどこからか現れて、墓を守ったという言い伝えがあったからだそうである。敷地全体が小高い丘にある。こちらの方が、寒山寺の所在地に相応しいかもしれない。汗をかきながら、階段をのぼった。中国人の観光客もたくさんいた。虎丘塔は、確かに傾いていた。煉瓦造りである。八角形の七層建築。よく、こんなものが倒れずに残ったものだと感心した。相当な重量だろう。現在では、倒壊しないように、ちゃんと地盤を固めてあるそうである。虎丘見物のあと、最後の訪問地、蘇州刺繍研究所の見学を終えて、(しつこく迫られたが、何も買わなかった。両面刺繍など、作品そのものは素晴らしかったが、高価だし、飾る場所がない。)今回の、蘇州オプションツアーは無事に終了した。楽しい経験だった。

 この日の朝、バスの中で、ガイド君に夜の予定を聞かれた。その時に、空きがあれば上海雑技団を見たいと答えた。先に書いたように、晩ご飯をどうするか、過去2日間、困ったからである。ところが、空席はあったが、上海雑伎団見物には、晩ご飯が付いていなかった。ガイド君によると、蘇州から帰っても、雑伎団の開演まであまり時間がないので、コンビニで虫押さえの食べ物を買う人もいるという。結局、その通りになった。蘇州から上海へ戻る高速道路が渋滞し、まったく時間がなくなったからである。夕食どころか、開演時間そのものに遅れる可能性が出てきた。そこで、本来ならば、お客さんたちを、それぞれのホテルに送り届けた後、同じバスで劇場へ向かうのだが、途中のホテルでガイド君と一緒に降りて、そこから、ガイド君の自家用車に乗って、劇場へ送ってもらうことになった。とりあえず、夕食は、劇場の近くにあるLAWSONで、パンとおにぎりを買って、劇場の座席で食べることにした。

 上海雑伎団の常設劇場はいくつかあるそうだが、私たちが案内された劇場の名は「白玉蘭劇場」。中に入ると、あまり広くない、西洋人が目立つ客席は、八分ほどの入りだった。少し空席があった。実のところ、上海雑伎団には、あまり期待していなかった。「シルク・ド・ソレイユ」を知ってしまったからである。しかし、その認識は間違っていたことがすぐにわかった。「シルク・ド・ソレイユ」を支えているのは、上海雑伎団出身の中国のパフォーマーだったとわかったからだ。確かに衣装や演出はあか抜けないけれど、「シルク・ド・ソレイユ」で見たのとまさに同じ演目が、この雑伎団の舞台で演じられたのである。巨大な鉄球の中を数台のバイクが全速力で走り回る、初めて見る演目もあった。私たちは、すっかり、上海雑伎団に満足した。(余談だが、今回のコロナ禍において、「シルク・ド・ソレイユ」が解散してしまった。彼らのパフォーマンスが再び見られるようになる為にも、コロナの一刻も早い収束がまたれる。)

 いよいよ最終日である。帰りは午後遅い便にしたので、午後3時頃まで、上海を楽しむことができる。チェックアウトを済ませ、ホテルに荷物を預かってもらって、まず向かったのは、近くにある上海博物館だった。上海博物館は人民広場にあり、私たちのホテルの部屋からも、その一部を見下ろすことができた。鼎をイメージしたという、巨大な円形の建物である。夜は、ライトアップされて美しかった。この朝、よく手入れされた広大な芝生の公園を抜けて、上海博物館に向かった時に、ひとつの発見があった。なんということはない。いつも見ていたのは、博物館の裏口だったのである。道理で、人がいないはずだ。反対側に回ったら、観光バスがたくさん停まっていて、西洋人観光客たちの長い行列ができていた。日本人らしい姿は見えなかった。

 建物には興味があったが、展示については、あまり期待していなかった。台北の故宮博物院とは比べものにならないだろう。でも、ここでも間違っていた。上海博物館の展示物は、実に素晴らしいものだった。せっかく上海を訪れて、上海博物館を見ないのは損であると思った。青銅器、絵画、書、印章、仏像、陶磁器、みんな良かったが、最初に入った部屋に展示してあった明清期の家具が気に入った。これは、蘇州の「留園」に行った時にも感じたことだが、明清の家具は、実に気品があって美しかった。韓国の李朝家具も悪くはないが、中国の家具は別格だと思った。残念ながら、狭苦しいわが家には、こんな家具を置く空間はない。李朝家具は置けても、明清家具は置けないだろう。なにやら、日中韓の生活様式の違いを反映しているようで、興味深かった。

 前に書いたように、上海博物館のある人民広場は、地下一帯が巨大な地下街になっていて、地下鉄の駅が3つあった。私たちは、今度は1号線に乗って、次の一つめの駅、黄陂南路で降りた。ざすは「新天地」である。ガイドブックによると、「新天地」は、上海特有の、灰色の煉瓦造りの建物である、石庫門住宅をリノベーションして、旧フランス租界風のお洒落な街並みを再現したエリアで、現在、最も高い人気を誇る、上海の観光スポットのひとつである。というわけで、どんなところか、街並み探検に来たわけだが、目的はもうひとつあった。この一画に、若き日の毛沢東らが、中国共産党の第一回大会を開催した歴史的な建物が、記念館として残っていたのである。確かにお洒落な街だった。石畳の路上にカフェのテーブルやイスが並んでいる情景は、パリのようでもあるし、ニューヨークや東京の赤坂あたりのようでもあった。無国籍だし、先日訪れた田子坊と違って、人工的で整いすぎてはいるが、私はこういう街も嫌いではなかった。映画の書き割りのような風景でも、時間が経てば、もっと落ち着いた街並みになるだろう。僕たちは、どの店にも入らず、ただ、街並みを見物して、通り過ぎただけだった。昼食は別のところで食べることにしていたからである。

 例の共産党大会記念館の方は、厳めしい警備員が玄関にいて、手荷物検査をされたが、入場料は無料だった。建物の内部は、すっかり改造されて、当時の面影は全くなかった。中には、第一回大会に出席した人々の蝋人形や、歴史的な文書などの資料が展示されていたが、先を急ぐので、ざっと眺めただけで出てきた。「新天地」でゆっくりできなかったのは、次の予定があったからである。私たちは黄陂南路駅へ戻り、更に一駅先の、陜西南路駅で降りた。行き先は、オークラガーデンホテル上海、つまり、花園飯店だった。18年前、初めての上海旅行の時に私たちが泊まった懐かしいホテルである。いわば、センチメンタル・ジャーニーだったが、今回は、上海最後の昼食を、このホテルの日本料理の店で済まそうというわけだった。

 ホテルとその周辺は、あまり変わっていなかった。相変わらず、プラタナスの街路樹が美しかった。いかにも、旧フランス租界らしい、シックな雰囲気だ。このホテルは、元々、フランスクラブだった建物を改造したものである。豪華な5ッ星ホテルだ。中に入って、日本料理店の場所を家内が尋ねたら、ちゃんと日本語で答えが返ってきた。それだけで、ほっとした。少々高くついたが、毎日、材料を日本から空輸しているという、おいしいお寿司の定食を食べた。食事の後、近くの淮海中路を散策した。前回の上海旅行の時、わずかな自由時間に散策した事のある思い出の通りだった。いやはや驚いた。18年前の面影がまったくない。すっかりお洒落な通りに変貌していた。東京で言えば、表参道か青山あたりの雰囲気だろうか。いや、それよりも洗練されているように思った。以前と変わっていないのは、フランス人が残した見事な街路樹だけだった。

 懐かしいホテルとその周辺を再訪して、私たちの上海旅行は終わった。再び、JWマリオットホテルに戻って、現地ガイドの車で、上海浦東空港へ向かった。途中で、黄浦江を渡った。橋のすぐ横が上海万博の会場だった。開幕まであと1年、工事は急ピッチで進んでいるようだった。ほんの短い滞在だったが、今、世界で最も元気な都市のひとつ、上海の息吹を感じる事ができたと思う。いろいろ教えられることのある、楽しい旅だった。上海は、租界という負の遺産を含めて、かつての歴史的遺産を実に巧みに街づくりに活かしていた。そして、大胆に未来に挑戦していた。これからのグローバルな都市間競争の時代を迎えて、東京は、あるいは、京阪神都市圏は、(大阪単独ではどうしようもない。)この上海に負けないためには、かなりな努力を必要とするだろうというのが、旅を終えての私の感想だ。上海万博を機に、上海は一段と大きく飛躍しようとしているのだから。

 以下に、今回の上海旅行記の付録として、この旅に関連して、当時読んだ本や見た映画のことを書いておきます。まず最初は、丸山昇さんの「上海物語」。この本は文庫本だが、まさに、上海に関する小百科事典と言える本だった。上海の街の歴史、大正期の芥川や谷崎、昭和の武田泰淳、堀田善衛など、上海と関わりのある日本の文人たちのこと、もちろん、魯迅と内山書店のことなど、上海について知るべきほとんど全ての事が書かれてあった。新しい本ではないが、内容は古びていない。これから上海を訪れる人には、観光ガイドブックとともに、この文庫本を読むことをぜひ薦めたい。竹内好「魯迅」は、上海への往復の機内で読んだ本である。盟友だった武田泰淳の「司馬遷」と同じく、戦地での死を覚悟した若き日の竹内さんが、遺書として出版したものである。だから、竹内さんも後日回想するように、内容的には未熟なところもあるが、冷静な文章の背後に込められた切実な気迫には、今も感動する。私は、戦後の竹内好さんが翻訳して個人編集した「魯迅文集」全6卷の文庫版を持っている。全てを読んだわけではないが、今回の旅行から戻って、ところどころ拾い読みをした。日本の戦後を代表する思想家の一人だった竹内さんが、生涯をかけて研究した、魯迅という文学者の魅力はどこにあったのか、わかったような気がした。

 次は映画。上海から帰ってから、DVDを持っている映画を2本見直した。1本は、トム・クルーズが、上海浦東の超高層ビルから飛び降り、近郊の水郷都市西塘を全力疾走する「ミッション・インポッシブル3」。もう一本は、スピルバーグ監督の『太陽の帝国』だった。主人公の少年役を、現在ではバットマン役者である、クリスチャン・ベールが演じていたのも興味深いが、今回、わざわざ見直したのは、この映画が、上海事変当時の上海を舞台にした物語だったからである。イギリス租界で何不自由なく暮らしていた少年が、日本軍が上海に侵攻した上海事変の混乱にまぎれて両親とはぐれ、蘇州近郊につくられた収容所に入れられる。しかし、少年は健気にも逞しく生き延びるというストーリーだが、この映画の原作者が、旅行の前月に亡くなったイギリスのSF作家、J.G.バラードだった。彼は少年時代を上海で過ごした。私は、高校生の頃からSFを読み始めたが、当時のSF界は、ハインライン、アシモフ、クラーク、ブラッドベリという作家たちが牽引していた。その後に登場して、SFの世界を一変させたのが、J.G.バラードである。バラードらのSFは「ニューウエーブSF」と呼ばれ、それまでのSFとは違って、内宇宙の探求を主要なテーマとするもので、高い文学性を評価された。私なども、当時は熱心に読んだもので、「結晶世界」などは、今でも、SFだけではなく、現代文学の傑作だと思っている。

 最後は小説。その年の5月の終わり頃、たまたま書店で衛慧「上海ベイビー」の文庫本を見つけたので、買って読んでみた。10年ほど前に話題になった中国の若い女性作家の小説である。文庫本の帯には、中国で発禁になった小説だということが強調されていた。読んでみると、たしかに性描写はあるが、さして過激なものではなかった。知的で抑制がきいている。発禁にするほどではないだろう。それよりも、この小説は上海を描いた都市小説として、なかなか良いと思った。一部を以下に引用してみよう。

 朱砂もまた、化粧直しをした顔に淡い疲れと淡い満足感とを漂わせた、そうした女性たちの一人なのだった。この上海は、朱砂のような女性たちが数多くいるからこそ、さまざまな光彩を放つ都市なのであり、華美のうちにも淑雅を失わない、内向的な気質を持つ都市なのだった。張愛玲が描く女性の模糊として鬱屈した思い、陳丹燕が描く精緻な哀しみは、みなこの都市から生まれたものなのである。上海を「女の街」と呼んだ人がいたが、それは、堅固で雄渾な北方の都市と対比してのものかもしれない。上海人は、上海が新旧両面の顔を持っていることに誇りを抱いている。(略)断片的に散在する歴史的遺物は、まるで雨水を吸い尽くした苔のようにしっとりと都市の良心をつなぎ止めている。 屋上からは、黄浦江の両岸の明かりや高層ビルのシルエットが見えた。ことにアジア随一と称される東方明珠タワー、その長い鉄柱はまるでペニスのように天空を突き刺し、この都市の生殖崇拝の、明瞭な証となっていた。汽船、波、黒々とした芝生、眩いばかりのネオン、目を見張るような建築群。物質文明の基礎に根ざしたこの栄華はしかし、都市を自己陶酔させる媚薬にすぎない。(桑島道夫訳による)

 著者、衛慧がいかに故郷、上海を愛しているかがわかる。私は、これらの文章を読んでいて、パムクの「イスタンブール」を思い出した。ちなみに、このパムクの本も名著です。


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