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神須屋通信 #08

結婚式と「猫ビル」のことなど

 月に一度、神須屋亭の出来事を記録する「神須屋通信」の令和3年6月号です。なお、神須屋亭主人などと称していると、お蕎麦屋さんかなにかと勘違いする人がいるのだが、(現に、twitter社からお店向けの広告案内がきたりした。)これは、二葉亭四迷などと同じく、ただの称号です。

 私たちの住む大阪は東京などとともに、感染者の減少傾向が見られるということで、6月に緊急事態宣言から蔓延防止重点措置に移行した。東京などでは、来月の東京五輪を目前にひかえて、早くもリバウンドが心配されている。大丈夫なんだろうか。大丈夫じゃないよね。かといって、いまさら中止というわけには行かないし、せめて、無観客を決断できる人間がいるといいのだが。そう、一時は、世論調査では中止論が半数以上だったのに、いつのまにか、東京五輪・パラリンピックは予定通り開催されることが決まってしまった。せめて無観客にと専門家らは訴えたが、これも無視されているのが現状。根拠なき楽観というのは、昔から日本の為政者たちが繰り返してきた宿痾かもしれない。

 さて、私たち夫婦は、高齢者なのに、コロナワクチン接種をまだ受けていない。近所の家内のかかりつけ医院でした予約は7月中旬。というわけで、5月に続いて6月も、一度も大阪府外に出ない自粛生活をおとなしく送った。でも、それなりにやることがいろいろとあって、退屈することはなかった。そんな6月の中旬、まだ緊急事態宣言が続いている日、高校の教師をしている家内の甥っ子が結婚式をあげた。本当は、昨年するはずだったのだが、コロナの影響で2度も延期し、今回は3度目の正直だった。それだけに、新婚夫婦はずいぶん気を遣って準備したようだ。披露宴はもちろんノンアルコール。各テーブルの上にはアクリルのボードと手指の消毒用小瓶が置かれてあった。参会者は新郎新婦以外全員マスク。主賓の挨拶はあったが、普通の披露宴にはつきものの、友人たちのお祝いのスピーチというものは省略された。それでも、宴はなごやかな雰囲気で無事に終了したのはなによりだった。来年になれば、なにもかも元通りになって、結婚披露宴も普通に開かれるようになることを願う。そのためには、世界中でのワクチン接種の普及が不可欠なのだが、間に合うかな。

 というわけで、全体的にはとてもよい結婚式、披露宴だったのだが、少し違和感を覚えたこともあったので、記録しておきたい。サラリーマン時代の私は広告会社の社員で、イベントについては企画演出する側にいた。自身の結婚披露宴の進行台本も自分で書いた。それでも、仲人や司会進行は同じ会社の先輩に頼んだし、手作り感満載の式だったと思う。昔の披露宴はみんなそんなものだった。でも、最近の披露宴はプロが進行を一切するんですね。さすがに良くできているし、運営もスムーズなのだが、どうも細部に凝りすぎているきらいがある。例えば結婚式。新郎が先に両親とともに登場する。その際、新郎は上着を脱いでいる。で、新郎の母親が新郎に上着を着せる。その後に花嫁が登場。やはり両親に挟まれている。花嫁の場合は、顔を覆うベールを母親が下ろすのだ。実に細かい演出だ。きっと、ちゃんとリハーサルをしていただろう。でも、ここまでする必要があるのか。とはいえ、披露宴の最後に、結婚式から披露宴まで、まだ記憶が生々しい、先ほど終わったばかりの情景の数々が短い映像作品として参会者に公開された時には、さすがにプロの仕事だと感心したことも公平のために書いておく。

 以下は神須屋亭の出来事ではないが、私にとっては大事なことなので、ここに記録しておきたい。今月、立花隆さんが4月30日に亡くなっていたことが公表された。いつかこういう日がくることを覚悟はしていたが、長年の愛読者として衝撃を受けた。80歳。晩年は病との闘いだった。「知の巨人」という形容が、立花さんほどふさわしい人はいなかったと思う。私の定義では、「知の巨人」というのは、理系と文系の壁を軽々と越えていて、しかも大読書家でもあるという人物だ。立花さんというと「田中角栄研究」の話がすぐに出るが、本来の仕事は宇宙や脳やサル学などの科学の分野にあったと思う。私は両方の分野の読者であったが、特に科学関係の本を愛読した。いつか、立花さんの秘書が、かつて小松左京の秘書だった女性だという話を聞いて、なるほどと思ったことがある。なお、立花さんはニュー・サイエンスやオカルト、神秘思想にも関心を持っていた。臨死体験への深い興味も、そこから来ていると思う。私も立花さんと関心を共有していたので、その方面の著作が少ないことは少し残念だった。

 立花さんについては思い出がある。98年の夏だから、もう20年以上前のことになる。家内と二人で東京見物に行った。私の希望で、立花さんの仕事場である「猫ビル」を見に行った。妹尾河童さんが猫の絵を描いた建物そのものにも興味があったが、ひょっとして、ご当人にばったり会えないかというかすかな期待もあった。でも、事前に調べてあった番地の周辺をいくら歩いても、「猫ビル」らしいものは現れない。私につきあってくれていた家内もとうとう痺れをきらして、もう帰ろうと言いだした。仕方なく、私もあきらめて駅の方に道を回った瞬間に、あの「猫ビル」が目に入った。まさに、黒い壁に書かれた猫と目と目があったという感じだった。あの時の驚きと感動はいまも鮮明に覚えている。どうやら、私が探していた地番は、立花さんの自宅の住所で、「猫ビル」のものではなかったらしいと、その後で気づいた。残念ながら、生身の立花さんには生涯一度も会うことはできなかったが、テレビでその風貌や謦咳には何度も接しているから、まあ由としよう。これからも、残された著書はいつでも読めるわけだし。ご冥福をお祈りします。

 

 


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