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韓国の旅 #11


 釜山コモドホテル  2012年

 すっかり釜山が気に入った私たちは、翌2012年の3月に、また釜山を訪れた。前年の釜山行きは、早朝に岸和田の自宅を出て昼頃に博多駅に着き、そのまま駅前からバスで博多港国際ターミナルへ向かったのだが、今回は博多で前泊することにした。前回は高速艇を利用したのに対して、今回は「ニューかめりあ」というフェリーを利用したからである。どちらもほぼ同じ時刻に釜山港に入港するのだが、「ニューかめりあ」は高速艇より2倍遅いから、その分早めに博多港を出る必要があるのだ。朝に岸和田を出ていては、間に合わなかった。というわけで、釜山に行く前に福岡(博多)の街を一日観光したのだが、その話は省略。

 翌朝、博多のホテルで朝食を終えた私たちは、駅ビルの阪急デパートの開店を待って、昼食の弁当を買ってから、バスに乗って博多港国際ターミナルへ向かった。ターミナルには、大勢の旅行客がいた。私たちを乗せた「ニューかめりあ」は正午に出港した。私たちは一等B洋室を予約してあった。二段ベッドが部屋の半分をしめる狭い船室である。船が動き出す前に、昼食を済ませた。狭い船室では窮屈なので、階段脇のロビーのテーブルで食べた。博多から釜山までは約6時間の航路である。既に昨年、高速艇で通った航路だが、あの時は座席にしばられていたので、今回はゆっくりと船旅を楽しむことができる。そのはずだったが、外はあまりに寒く、船も揺れたので、本を読むことも出来ず、私は、行程の半分ほどをベッドで寝てすごした。

 「ニューかめりあ号」は、なかなか豪華な船だった。「かめりあ」とは椿のことで、椿は釜山市の花だ。日韓合弁のカメリアラインという会社が運航している。博多と釜山を往復するが、博多発は昼行便、釜山発は夜行便である。船内には風呂やレストラン、カラオケルームなどもあって、家族やグループでゆっくり旅したい人や飛行機嫌いの人たちには良い選択だろうと思う。何よりも、港を出入りする船旅には独特の旅情があるから。今回、この「ニューかめりあ号」に乗るに際して、私にはひとつの大きな期待があった。前回の釜山行きでは、釜山港に入港する直前に、私たちの乗った高速艇は、先行していた「ニューかめりあ」を追い抜いたのだが、今回は、「ニューかめりあ」のデッキから、追いつき追い越してゆく高速艇の姿を見ることが出来ると思ったのである。ところが、高速艇の出港時間が変わったのか、何かトラブルでもあったのか、高速艇の姿が全く見えない内に、私たちの乗った「ニューかめりあ」は、釜山港に入港してしまったのだった。

 予定時間の午後6時に釜山港に入港した。入国手続きを終えて、釜山港国際ターミナルの到着ロビーへ出た。今回は個人ツアーではなく、一応、JTBのツアーである。家内がネットで見つけた、「かめりあ号で行く釜山3日間」というツアーだった。その国内旅行並の安さのせいかどうか知らないが、このツアーの参加者は予想を超えるものだった。なんと44人もいたのである。現地のガイドも驚いていた。これでは、全員集合させて点呼するだけでも時間がかかる。ホテルまで送るバスも超満員だった。というわけで、ホテルに着いたのは、7時半を過ぎていた。

 今回、私たちが泊まったのは、コモドホテルである。同じツアーの人たちの大半が、釜山タワーの近くの繁華街にある釜山観光ホテルに泊まったので、コモドホテルに泊まったのは、私たち二人だけだった。繁華街から離れた小高い丘の上にあるという立地が敬遠されたのだろう。しかし、このホテルは、韓国風の伝統建築やインテリアが好まれ、特に欧米の観光客に人気の高いホテルなのである。コモドはCommodore、海軍提督のことで、韓国では秀吉の朝鮮侵攻時に活躍した救国の英雄、李舜臣のことを指す。このホテルの建築は、李舜臣の亀甲船をイメージしているのである。照明を抑えたロビーのインテリアは、エキゾチックながらシックで、歴史を感じさせて風格があった。階段の手すりに龍が彫ってあったのは、あまり良い趣味ではなかったが。私たちの部屋はあいにく3階で、あまり眺望がよくないのが残念だった。でも、窓からは、釜山港がちらりと見えた。

 今書いているこの文章は、2012年に書いた紀行文を、2020年11月現在の視点で手直ししている(ほとんど元のままだが)ものだが、最近、驚きの発見があった。実は、世間から半年以上遅れて、日本でも大ヒットしているNetflixの韓国ドラマ「愛の不時着」を、つい先日、見終えたのだが、そのロケ地にこのホテルが選ばれていたのだ。ドラマの中では平壌のホテルとして登場しているのが、まさに、このコモドホテルなのである。ドラマを見て、ひょっとしてと思ってネットを検索したら、まさに、コモドホテルだった。あの独特のインテリアのロビーやエレベーターホールなどのクラシックさは、平壌にふさわしいかもしれない。日本でいうと、日光金谷ホテルや奈良ホテルのようなクラシック・ホテルの雰囲気かな。とにかく、物語の中とはいえ、ソン・イェジンやヒョンビンが、このホテルに滞在したのである。ここに宿泊したことのある私は、それだけで、ちょっと興奮した。今更ながらだが、この「愛の不時着」は最高に面白いドラマですね。誰かが、今まで最高の韓国ドラマは「冬のソナタ」だと思っていたけれど、この「愛の不時着」はそれを越えたと言っていたが、私もほぼ同感だ。私は、「夏の香り」以来のソン・イェジンのファンでもあるのだが、彼女にとっても、このドラマは最高の作品だと思う。とにかく、年齢を超越した彼女のコケティッシュな魅力が横溢したドラマだった。もちろん、ヒョンビン君も魅力的だったが、ちょっと理想的すぎる気もした。なにしろ、元天才的ピアニストで、名門有力者の子弟。女性関係にウブな軍人なのに、ミッション・インポッシブルもどきのアクションまでこなすんだから。


 話がそれた。元に戻す。ホテル到着が思いがけず遅くなってしまったが、夕食をとらないといけない。ホテルの部屋に荷物を置いた私たちは、さっそくタクシーで南浦洞へ向かった。こんな時には、妻のハングルと韓国に関する知識が役に立つ。私はただ付いていくだけだった。妻には目当てがあった。韓国情報のブログでよく紹介されているという、海鮮鍋で有名な「ケミチプ」という店だった。ガイドブックを持たないで行ったのに、家内は、ほとんど迷わずに、この店を見つけた。えらいものだ。だてに何年も韓流ファンをしていない。時間が遅かったせいか、店は空いていた。私たちは、迷わず海鮮鍋(ヘムルタン)を注文した。タコや貝類や魚でいっぱいになった鍋とキムチなどのたくさんの副菜類の皿がテーブルに並んだ。コンロの火は強火である。はじめは白っぽかった鍋の中が、煮立ってくるにつれて、底に溜まっていた唐辛子が浮かび上がってきて、血の池地獄のようになってきた。しばらくすると、鍋の蓋をとって、店のおばさんが、貝殻をとったり、魚やタコをハサミで小さく切ってくれたりして、鍋の具を食べやすくしてくれた。手慣れたモノである。お腹が空いていたこともあって、鍋はとてもおいしかった。さすが港街である。釜山では、海鮮料理に限る。すっかり余裕の出た私たちは、露店が立ち並んで人々で賑わう、夜の光復路やBIFF広場などを散策してから、再びタクシーを拾ってホテルへ戻った。


 翌朝、ホテルでビュッフェ形式の朝食をとった私たちは、ホテルの前で記念撮影した後、徒歩で釜山探訪にでかけた。今回は、昨年行かなかったエリアを中心に見物する予定である。まず、ホテルの前の急な坂道を南浦洞と反対側の方向に下って広い通りにでた。車の交通量が多い。歩道橋を渡ってしばらく歩いてから左折すると、釜山駅前の中華街へ出た。上海街と呼ばれ、華僑の小中学校や神戸の南京町にあるような門があった。最近では周辺にロシア人などの外国人が増えているそうだ。そのあたりはテキサス通りと言って、夜歩きは危険だと旅行ガイドなどには書いてあるが、朝のこの時間にはほとんど人気がなかった。釜山駅から地下鉄1号線に乗った。めざすは終点から二つ目の駅、梵魚寺(ポモサ)である。梵魚寺は歴史のある名刹だが、寺の周辺はハイキングコースにもなっているらしい。駅で降りると、登山ウエアの中高年の男女でいっぱいだった。韓国は今、ハイキングブームなのだ。スポーツ用品店があちこちにあった。地下鉄駅からしばらく歩くと大きなバスのターミナルに出た。目当てのバスは見つかったが、どうして料金を払うのかまごついていると、運転手が降りてきて、手伝ってくれた。韓国の人たちは、料金箱に金をいれず、乗降口の機械にICカードを接触させるだけである。後で調べたら、これは「ハナロカード」というのだそうだ。バスや地下鉄などの、釜山市内の公共交通機関に使える。ソウルでのT money、日本で私も使っているICOCAカードと同じものだった。前回来た時、私のT moneyで釜山の地下鉄に乗れたのだが、今回は持参してこなかった。面白いのは、ハナロカードはカードだけではなく、様々な形をしたストラップ形式にもなっていることで、私がバスの車中で観察したところ、若い人は全員、全体で半数以上の人がストラップ形式だった。日本でも流行るんじゃないか?

 さて、梵魚寺である。日本の場合、有名な寺院の門前には観光客目当ての土産物店が建ち並んでいるものだが、ここでは、バス停の前に一軒あっただけだった。基本的に禅宗系である韓国の寺は観光寺院ではないのである。五木寛之氏の「百寺巡礼 朝鮮半島篇」は、これなら日本にいても書けるじゃないかと思うほど、ルポルタージュあるいは紀行文としては内容のない、いつもの五木流人生論の本だったが、(朝鮮半島で育った五木さんの韓国に対する複雑な思いは、それはそれとして興味深いが、)その中で、キリスト教や儒教の国だと思っていた韓国に案外仏教が生きていて、僧侶たちが日本以上に真剣に修行に励んでいることに感心していた。行ったことはないのだが、韓国の寺は全て、日本の永平寺のようなものなのかもしれない。(なお、「百寺巡礼」に梵魚寺は含まれていない。)

 話を梵魚寺に戻そう。例によって、秀吉によって破壊されてしまったので、創建当時の古い時代の文化財は残っていないのだが、この広大な寺の正面玄関にあたる「一柱門」は、韓国の文化財に指定されていて、日本にはない独特の様式のものだった。ここで記念撮影していたら、上品な老人に声をかけられた。二人の写真を撮ってあげようという。結局、この老人に寺を案内してもらうことになった。とっくに80歳を越えている流暢な日本語のこの老人は、若い頃、日本にいたという。横浜商業のOBだそうだ。李という姓だった。(日本時代の名字は木下さん。)来るには来たが、もともと中国や韓国の寺や仏像にはちっとも有難味も美的感動も覚えない私は、申し訳ないが、せっかくの李さんの親切なガイドも馬の耳に念仏だった。

 境内をひととおり案内してもらった。そろそろ昼時である。李さんは、境内で精進料理を食べていけと勧めてくれたが、この日の昼食場所は決めていたので、失礼することにした。私たちは再びバスに乗り、(バスは循環しているので、来た時と同じ方向のバスに乗らないといけなかった。)地下鉄の梵魚寺駅から元の方向に戻り、今度は「東菜(トンネ)温泉駅」で下車した。ここは、その名のとおり、日本の植民地時代から有名な温泉街である。めざす「東菜別荘」は、ここにあった。私たちは、駅前からタクシーで「東菜別荘」へ向かった。ここも、家内が韓国情報のネット記事で見つけた店である。元々、日本人の実業家の屋敷だったのをそのまま高級料亭に改装したものだという。立派な塀や建物だったが、あまり手入れがよくないようで、庭も建物もかなり傷んでいた。私たちは予約もせずに行ったのだが、必要はなかったようだ。私たちは奥の広い部屋に通されたが、客は他の部屋に一組いるだけだった。家内がこの店を選んだのは、釜山でAPECが開催された時、アメリカのブッシュ大統領夫人が、この店で食事をしたからである。店の玄関には、その時の記念写真が飾ってあった。

 「東菜別荘」は、建物は和風だが、料理は韓国料理である。それも、かなりハイレベルな料理だった。料理は2種類のコースだけだ。私たちは、安い方を注文した。それでも、次々に出てくる料理は食べきれなかった。どれも美味しかったので、残すのが残念だった。高級な料理がたくさんあったのに、もともと庶民の味覚の持ち主である私が最も気に入ったのは、東菜の名物であるパジョンだった。ちょっと豪華な食材を使用したネギ焼きのような食べ物である。昼食は、これだけでも良かったなと思うほどだった。
 お腹がいっぱいになった私たちは、「東菜別荘」を出た後、東菜の街を散策することにした。昨年、女友達らとここに来た事のある妻が案内してくれた。街の真ん中にある露店の無料足湯は、どういうわけか、お湯が抜かれていた。仕方なく、このあたり最大の温泉場である「虚心庁」へ行った。一種の健康ランドであるここに、妻は友人達と入浴したそうだが、今回はロビーを見物するだけにした。入浴するには、化粧を落とす必要があるのだそうだ。

 街の散策を終えて、また地下鉄に乗った。梵魚寺方面に戻って、今度は「釜山大学前」で降りた。特に用事はないのだが、釜山大学というのがどんなところか見物しておこうというわけだ。全てがソウルに一極集中している韓国だが、釜山大学は国立の名門大学である。一見の価値はある。さすがに駅前には若い人が多かった。あたりまえだ。駅前の商店街を抜けて、大学方面へ歩いた。ソウルの梨花女子大前と較べると、垢抜けない街並みである。それも無理はない。大学の構内は広々として開放的だった。でも、建築としては見るべきものはなかった。というわけで、構内の散策はせずに、そのまま引き返すことにした。

 再び地下鉄に乗って引き返し、今度は西面で降りた。かつては、釜山タワーやチャガルチや光復路がある南浦洞一帯が釜山一の繁華街だと言われていたのだが、最近では西面がその座にあるらしい。地下鉄の1号線と2号線が交差するこの街は大きなターミナルである。釜山を代表するロッテホテルやロッテデパートはここにある。昨年来た時には、その地下街の繁華さには感心したが、地上は散策しなかったので、その賑わいがどの程度かよくわからなかった。今回は、西面の地上部分の探訪である。その前に、ロッテデパートの中にあったコーヒーハウス「Angel in us Coffee」でしばし休憩。このコーヒー・チェインはロッテデパートだけではなく、釜山のあちこちで目にした。(「愛の不時着」にこのチェーン店が登場するから、ソウルにもたくさん店があるのだろう。)

 天使の翼をイメージしたマグカップの取っ手が目印である。ケーキもボリュームがあって、注文した妻は食べきれなかった。甘すぎたそうだ。エネルギーを補充して、西面探訪にいざ出発。西面は、大阪で言えば、ミナミと道頓堀、心斎橋、さらにはアメリカ村を一緒にしたようなエリアだった。とてもじゃないが、還暦を超えた夫婦には全域の探訪は無理だということが、すぐにわかった。通りは何本もあるし、歩いているだけで聴覚と視覚をともに激しく刺激されて、とにかく疲れる。というわけで、30分ほどで、探訪は切り上げた。家内が日頃愛読している韓国情報のブログで紹介されていた「Angel Hotel」を見物できたので良しとしよう。そう言えば、韓国の人はエンジェルが好きなのかな。

 西面から地下鉄で釜山駅へ出た。前回の釜山旅行では鉄道の方の釜山駅のすぐ隣にある「東横イン」に宿泊したので、釜山駅には何度も出入りした。だから馴染みの場所である。妻は、ここの構内にある店で、夕食代わりの餅菓子を買った。そう、この日は昼食でごちそうを食べ過ぎたので、夕食は抜くことにしたのである。私は、日本から持ってきた、糖質制限食用の大豆パンと大豆クッキーで済ますことにした。釜山駅からコモドホテルまで、タクシーで帰った。今日は一日、よく歩いた。2万歩ははるかに越えているだろう。3万歩かな?

 釜山最終日である。気分的には妻のお供で来ている旅行なので、事前の調査は何もしてこなかったし、特に見たいものもなかったのだが、前夜、偶然ホテルにあった観光パンフレットを見ていて、行きたいところが見つかった。「朝鮮通信使歴史館」である。昨年オープンしたばかりの新しい施設だという。地下鉄の凡一駅の近くにあるというので、朝から行くことにした。昨日と同じように、釜山駅から地下鉄に乗った。凡一(ポミル)駅は、釜山駅から4つ目で、西面の2つ手前の駅である。釜山の地下鉄は駅間距離はあまり長くないので、すぐに着いた。駅から南東方向へ下っていくと、国際ホテルの前に出た。映画「友よ、チング」の撮影現場として有名なホテルで、日本人の観光客が多く泊まっている。その近くに、「子城台公園」があった。パンフレットにあった簡単な地図によると、「朝鮮通信使歴史館」はここにある。公園は、古墳のような小高い丘だった。階段を上がっていくと、朝の散歩をしている人と何人もいきかった。公園の外周にある遊歩道をずっと歩いたが、それらしい建物はない。ひょっとしてと思って下方を見たら、丘と道路の間にそれらしい建物の屋根が見えた。

 結局、裏口である、歴史館の2階から入ることになった。正面玄関は道路沿いの1階にある。さすがにちゃんとした施設だった。入場は無料だが、受付もあるし事務室もあった。職員も多い。でも、展示内容は充実しているとは言えなかった。一度見たらそれでお終いという程度のものである。通信使を釜山から対馬まで送った船の模型や通信使の身分や衣装を紹介するタッチパネル式の展示物と通信使のマネキンがあっただけである。本物の文物は展示されていなかった。どうして、この地に通信使の記念館が造られたのかということだが、かつて都の漢陽(ソウル)から釜山まで陸路でやってきた通信使一行が、この子城台で航海の無事を祈念する宴会を催すのが恒例だったからなのである。歴史館の隣に、その時の宴会場が再現されていた。今では街中だが、かつては、このすぐ近くまで海が迫っていたらしい。その事がわかっただけでも、ここに来たかいはあったという事か。

 館内に日韓両語版の「朝鮮通信使新聞」というのが置いてあったので、もらってきた。昨年の11月に発行されたものである。季刊らしい。そこに、朝鮮通信使が終了してから200年後にあたる昨年、市民による日韓文化交流事業として「2011朝鮮通信使祭り」が開催されたことの報告や、この歴史館の6ヶ月の歩みが紹介されていた。それによると、この歴史館には映像室があり、釜山の子ども達の体験学習の場として活用されている他、対馬、下関、瀬戸内各市など、朝鮮通信使一行の沿道になった日本各地の人たちとの交流の場となっているということだ。喜ばしいことである。韓国と日本の間には、現在、いわゆる「従軍慰安婦」や竹島問題など、根深い対立があるが、だからこそ、こういう地道な文化交流を続けることには大いに意義があると思う。

 以下は簡単に書くことにする。歴史館の見学を終えた後には、土産物の買い物をするしか予定はなかった。まず、地下鉄で西面のひとつ先にある「釜田(プジョン)駅」へ行った。ここには釜山最大の釜田市場がある。さすがに大きすぎて、ここを本格的に見物するには半日かかることがわかった。ここはざっと片隅を眺めるだけにして、近くのマートで土産のインスタント麺などを買った。そして、地下街を歩いて西面に出た。ロッテデパートのフードコートで、韓国式水餃子の簡単な昼食をとり、再び地下鉄に乗って南浦洞で下車した。光復路を歩き、国際市場で、昨年も買ったコピーブランドの靴下を大量に購入した。その後、南浦洞のロッテデパートで、帰りの船で食べる夕食などを買った。

 出国手続きをするために釜山港ターミナルへ行くには、まだかなり時間があったが、もう疲れてしまった私たちは、デパートの屋上から釜山港の風景などを眺めたり、一階の噴水ショーを眺めたりして時間をつぶした。結局、ロッテデパートには、ずいぶん長い時間いた。それでも少し早かったのだが、タクシーでホテルへ戻って、預けてあった荷物を受け取り、再びタクシーで港へ向かった。JTBの現地ガイドの迎えを断っていたからである。ところが、釜山港ターミナルに着いた時、偶然、そのガイドや他のツアー客一行と遭遇し、乗船手続きをガイドにしてもらうことができた。妻ひとりでも出来たのだが。

 夜、出国手続きを終えて、7時半頃に「ニューかめりあ号」に乗船した。甲板から見る釜山港の夜景が夢のように美しかった。神戸や長崎のように、山々がすぐ海に迫り、山の高い所までぎっしりと埋めている家屋の灯りが暖かかった。船室にいたので、船が動き出した時間は分からなかった。たぶん、10時か11時頃だろう。乗船してすぐに夕食をとり、妻は風呂に入った。私は入らなかった。家内によると、韓国人の乗船客の多くは、大部屋の船室でキムチを食べていたという。夜行便だから、出港してしまうとデッキから景色を見ることもできない。私はすぐに眠ってしまった。翌朝めざめたら、船は既に博多港に停泊していた。朝、入国手続きを終えた私たちは、博多港国際ターミナルからバスで博多駅へ向かった。釜山から帰ったばかりの眼で見れば、福岡の街は灰色で淋しいような感じがした。人々にも活気がない。みんな、疲れているように見えた。戻ってきたばかりなのに、あの賑やかだった釜山が、もう懐かしくなった。というのは当時の感想。「愛の不時着」でソウルから北朝鮮に戻った愛すべき兵隊達は、こんな風に感じたのかなというのは、現在の感想である。


      

     

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