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今月読んだ本 (16)

 2024年7月

 いつものように、今月kindleで読んだ電子本の紹介から。今月は、長年愛読してきたポール・オースターが亡くなったので、追悼読書をすることにしました。まずは、未読の長編「4321」を読もうかと思いましたが、これは余りに長すぎるので未だに翻訳も出ていないという噂があるので敬遠。(柴田元幸さんが翻訳しているはずです。)オースターの英語は私にも読める程度の比較的平易なものなので、今までオースターはずっと原文で読んできたので翻訳の有無は関係ないわけですが、あまりに長いのはね。さて何を読もうかとamazonをあちこち探した結果、ノーベル文学賞を受賞した南アフリカ出身の作家、J.M.クッツェーとの往復書簡集を見つけたので、少々古いけれども読む事にしました。PAUL AUSTER & J.M.COETZEE "HERE AND NOW"です。これは、二人が2008年から2011年まで3年間に交わした、互いにポール、ジョンと呼び合う(ビートルズみたい)、親密な往復書簡を記録したものです。1947年生まれのオースターにとっては、61歳からの3年間、1940年生まれのクッツェーにとっては68歳からの3年間の記録ということになります。(書簡の中で、クッツェーが70回目のdacadesを迎えたと書いているのを読んで、それでは700歳になってしまいますよとオースターが返信している愉快な文章もありました。)クッツェーは、この往復書簡が始まる前の2003年にノーベル文学賞を受賞しています。既に国際的な著名作家になっていた両人は、オーストラリアで開催された文学祭で知り合い、カフカやベケットへの共通の関心から親しい交流が始まったと言われています。夫婦ぐるみの交流でした。(二人とも二番目の奥さん。)オースター夫婦はニューヨークのブルックリンに住み、クッツェー夫婦はオーストラリアのアデレードに住んでいましたが、(若い頃にクッツェーはアメリカ移住を考えたそうですが、ベトナム反戦運動に関係したことから移住を拒否されたそうです。クッツェーとアメリカとの複雑な関係を想像させる記述が往復書簡の中にもありました。アメリカを訪れることになったクッツェーに、空港の入国管理で面倒がないといいですねとオースターが書いている部分など。)二人ともに国際的な有名作家とあって、毎年のようにヨーロッパ各国に招待されることが多かったようで、二組の夫婦は3年間の間に何度もヨーロッパで親交を深めています。面白いのは、この往復書簡はファックスで行われました。これは、ポール・オースターが電子機器を嫌っていたからです。なにしろ、オースターは21世紀になってもタイプライターを使っていたくらいですから、電子メールは使わなかったんですね。スマホも持たなかった。

 現代文学を代表する二人の作家による往復書簡というだけでも興味はつきませんが、内容は文学をめぐるものだけではありません。実に多岐にわたる話題が採り上げられています。たとえばスポーツ。オースターは愛するベースボールについて語り、クッツェーはサイクリングで海外遠征までしています。たとえば経済。この往復書簡が交わされた当時はリーマンショックがありましたが、クッツェーは急に貧乏になったと嘆き、両人ともに強欲資本主義に対する嫌悪と懐疑を隠しません。たとえば政治。当時すでにネタ二ヤフがイスラエルの指導者だったことにも驚きましたが、ユダヤ系アメリカ人であるオースターのこの政治家への嫌悪の強さに驚きました。(私も大嫌いです。)パレスチナ問題については二国家解決を理想としながら実現には懐疑的で、イスラエルのユダヤ人をアメリカのワイオミングに移住させるという突飛な案を提案したりもしています。また、イスラエル国内に在住するアラブ人を全てイスラエル国民にする一国家解決は悲惨な内戦状態を産むだけだと、これにも懐疑的です。要するに、オースターはイスラエル問題にはお手上げの状態でした。それから十数年たった今、イスラエルのガザ侵攻が続いている中でネタ二ヤフが米国議会で演説して喝采されているわけで、この問題の根の深さが改めてわかりました。

 パレスチナというと、サイードが、コロンビア大学院時代のポール・オースターの指導教官だったそうで、サイードの著作、「レイトスタイル」が往復書簡の話題になっていたことも印象に残りました。というのは、サイードと親交のあった大江健三郎さんがその影響をうけて、「晩年様式集」という短編集を出版しているからです。いずれにしても、互いを敬愛する著名な文学者二人が、困った批評家や読者との付き合い方など、さまざま話題を繰り広げるこの往復書簡集は実に面白くて、特にこの二人の作家の読者や研究者にとっては貴重な記録であることは確かです。この本を読んで、オースターの「4321」を読む事と、まだ二冊しか読んでいないクッツェーの小説を読むことが、これからの私の読書計画に加わりました。

 次に読んだのは、米澤穗信さんの「黒牢城」でした。2021年の各種ミステリベストテンの1位を独占し、直木賞を受賞した傑作です。文庫化されたのでようやく読む事ができました。今更内容を説明する必要はありませんが、ネットでの内容紹介にはこんな風に書かれています。「本能寺の変より四年前。織田信長に叛旗を翻し有岡城に立て籠った荒木村重は、城内で起こる難事件に翻弄されていた。このままでは城が落ちる。兵や民草の心に巣食う疑念を晴らすため、村重は土牢に捕らえた知将・黒田官兵衛に謎を解くよう求めるが――。 事件の裏には何が潜むのか。乱世を生きる果てに救いはあるか。」なかなか上手くまとめられていますね。

 司馬遼太郎が戦国時代の武将たちの中で一人だけ友人にするならこの人を選ぶと言った黒田官兵衛。NHKの大河ドラマでも、彼が有岡城の土牢に幽閉された経緯は感動的に描かれていましたが、まさか、その土牢の中の官兵衛を探偵役に選ぶとは。もう天才的発想だとしか思えませんね。もしそんな設定を思いついたとしても、それを推理小説として成立させるためにはどれだけの事前準備と力業が必要だったか。もう脱帽するしかありません。なによりも驚いたのはその文体。これはもはや単なるミステリではなく、立派な格調高い歴史小説の文体でした。恐るべし、米澤穗信。

 次に読んだのも文庫本。橋本治さんの対談集、「六人の橋本治」です。「個人」から「分人」へ、人間の人格は一つではないと主張しているのは作家の平野啓一郎さんですが、あまりにもその活動領域が多彩で、とても一人の人間の仕事とは思えない量と質の業績を残した橋本治さんは自らもそのことを意識していたのでしょうか、自身の対談集に「六人の橋本治」というタイトルを付けました。橋本さん自身が書いたまえがきによると、最初の高橋源一郎さんとの対談に登場するのは「小説家としての橋本治」ですが、この本に登場する「六人の橋本治」の中で生き残っているのは、この小説家としての橋本治だけだそうです。浅田彰と対談した「ひらがな日本美術史」の著者としての橋本治、茂木健一郎と対談した「小林秀雄の恵み」の著者としての橋本治、三田村雅子さんと対談した「窯変源氏物語」の著者としての橋本治、田中貴子さんと対談した「双調平家物語」の著者としての橋本治、天野祐吉さんと対談した時評家、コラムニストとしての橋本治はもう既に存在しないということなのでしょうか。要するに、橋本さんにとっては小説家であることが最も重要なことで、他の仕事はすべて、そのためのエチュードでありデッサンであったということですが、それにしても、その小説家以外の仕事の膨大なこと!。このそれぞれに実に興味深い対談集には文庫本の特典として、宮沢章夫さんとの小説「リア家の人々」に関する対談が収録されていますが、宮沢さんの説にことごとく反論する橋本さんの発言が面白く、これでは、橋本さんの小説を誰も批評しようとしなかったのも、なるほどと頷けるものでした。

 その点、現代最高の批評家でもある高橋源一郎さんは実にうまく相手をしていましたね。その高橋さんでさえ、橋本さんは苦手だと、本人を前に告白していました。なお、個人的に私がこの対談集で印象深かったのは天野祐吉さんとの対談でした。天野さんは広告雑誌「広告批評」の編集長を長年務めていた方で、広告業界にいた私は、毎月定期購読して、毎号のように掲載される橋本治さんの長い時評を毎回楽しんで読んでいました。私が橋本治さんと出会ったのは、「桃尻娘」シリーズがきっかけですが、最も親しんだのは、ひょっとすると、これらの時評類だったかもしれません。

 次に読んだのも文庫本。朴裕河さんの「帝国の慰安婦」です。「アジア・太平洋特別賞」「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を受賞した名著が原著の出版から10年を経てようやく文庫本になりました。その間、著者の朴さんは、韓国で慰安婦たちの名誉を毀損したと訴えられ、長い長い法廷闘争を戦い抜いて、最近ようやく無罪を勝ち取ることができました。近々本書の英語版も出版される予定とか。数々の苦難にめげず、長年戦い抜いた著者に改めて敬意を表したいとおもいます。それにしても、このような学問的良識と良心に溢れた真摯な研究書が、どうしてこんなにも迫害を受け続けないといけなかったんでしょうか。自らの陣営をのみ善と信じて、異論を唱える陣営を悪と称して攻撃をためらわない政治闘争に利用されたからだと言うしかありません。戦時中の慰安婦を「性奴隷」だったと規定して日本政府を糾弾してやまない勢力と、慰安婦はたんなる「売春婦」だったと規定して、時の政府の責任を問わない勢力。その中間にあって、朴さんは慰安婦は広い意味では帝国の犠牲になった「性奴隷」であり、また世間一般の「売春婦」でもあったと、まことに凡庸であたりまえのことを書きました。朴さんにとって、最も重要だったのは慰安婦という言葉の定義などではなく、慰安婦の女性たちそのものの運命だったからです。でも、その凡庸さが、左右からの憎しみを呼び込んだのです。この文庫本の巻末に収録された文章で、高橋源一郎さんはこんな事を書いています。「わたしは、これほどまでに孤独な本を読んだことがない、と感じた。いや、これほどまでに孤独な本を書かざるを得なかった著者の心中を思い、ことばを失う他なかった。」

 今月、最後に読んだのも文庫本でした。岩波文庫の「石橋湛山評論集」です。現代の日本政治を憂う文章を書く人々が必ずといっていいほど引用するのが石橋湛山ですが、実は石橋湛山の文章をこれまで読んだことがありませんでした。(どうも早稲田閥の臭いがするし。)でも、今年は、生誕140年だそうなので、良い機会だから読むことにしました。確かに、日本にもこういう本質的にリベラルな人物が存在したのだと感動はしましたが、この評論集に収録された文章は、湛山が戦後に政治家になる前のジャーナリスト時代に書かれたものだとわかって、少し、割引したくなりました。いくら戦前とはいえ、共産主義者でさえなければ、ジャーナリストの発言は無責任な放言として、少しは大目に見られていたのではないかと。湛山が戦前から政治家としてこんな発言をしていたとなれば、それこそ尊敬に値したでしょうが。などと、少々、湛山に辛い感想を持ちましたが、太平洋戦争前に書かれた、次に引用するような文章は、やはり石橋湛山ここにありと思わせる文章でした。

 我が国が大日本主義を棄つることは。何らの不利を我が国に醸さない、否ただに不利を醸さないのみならず、かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。朝鮮・台湾・樺太・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大な支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小民族を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲すべし。

 このような文章をアメリカ人も読んでいたのかもしれません。戦後、石橋湛山が政治家を志した時、当時日本を統治していたGHQは石橋湛山の活動を妨害し、政治家としての石橋湛山はほとんど業績を残すことができませんでした。戦後の日本のリーダーが吉田茂ではなく石橋湛山だったら、そんな空想にかられました。


 

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