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ペーパーバックを読む⑧

村上春樹:チャンドラー&サリンジャー

 今回採り上げるレイモンド・チャンドラーとJ.D.サリンジャーは、若い人たちは、いずれも村上春樹の翻訳で読んでいるかもしれない。村上春樹は、10年をかけて、チャンドラーの、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とした7つの長編を訳したし、サリンジャーの代表作である"Catcher in the Rye"などを訳しているから。しかし、私にとっては、格好つけて言うと、「孤独で不安な青春時代を癒してくれた作家」といってもいい、この二人の作品を読んだのは、村上春樹の登場よりも前の、大学時代のことだった。村上さんは最初、チャンドラーを翻訳で読んだそうだが、当時敬愛していた小田実の教えを守って、英語で書かれた文章は基本的に英語で読むことにしていた私は、チャンドラーもサリンジャーも、全ての作品を、ペーパーバックで読んだ。これは決して自慢しているわけではない。私の高校生並みの英語力では、例えばシェークスピアのように、歯が立たないものもあった中で、この両人の英語は、私にも読んで理解できるものだったということだ。一行ごとに辞書をひいているようでは小説は楽しめない。でも、1ページに数カ所程度なら、わからない単語があっても小説は充分読めるのである。この二人の作家の小説を読んでいた時の私の幸福感は、後の、村上春樹の登場を予感していたようなものだった。

 さて、私は何が言いたいのだろう。もちろん、自分の英語力のことではない。たぶん、私が、そのデビュー以来一貫して、村上春樹の熱心な読者であり続けたのは、村上登場以前に、私が、チャンドラーやサリンジャーの熱心な読者だったからかもしれないということだ。つまり、私は村上春樹の中に、彼が実際に彼らの作品を翻訳する前から、チャンドラーやサリンジャーと共通するものを感じていたということだ。この三人の作家に共通するものとは何か。なかなか難しい。「感傷性(センチメンタリズム)」。とりあえず、そう言っておきましょう。

 というところで、レイモンド・チャンドラー。例によって、wikipediaを借りて、彼の生涯を簡単に振り返っておく。彼は1888年7月にシカゴで生まれ、1959年3月に亡くなった。幼い頃に父親は家を出たが、母親はチャンドラーに最高の教育を受けさせるために、自身の母親が住むロンドンに引越した。ギリシャ語やラテン語の講義もある、パブリックスクルールで学んだが、大学には進学せず、欧州各国でフランス語やドイツ語などの語学を磨いた。その後、イギリスに帰化して、英国海軍本部に職を得たが、公務員が性に合わずに辞めて記者になった。この頃、詩集を出版している。1912年、安定した職を求めてアメリカに渡った。いくつかの職を転々とした後、カナダ軍に志願し、その後、第一次大戦が勃発してイギリス空軍に配属された。戦後、再びアメリカに戻った。ビジネスマンになって、18歳年上のシシイと結婚。40代までいくつかの石油会社の要職にあったが、大恐慌で職を失ったので、推理小説を書き始めたという。いくつか短編を書いた後、1939年に最初の長編「大いなる眠り」を書いた。これは、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした小説で、以後、マーロウはハードボイルド系探偵の代名詞になった。映画でマーロウを演じたのはハンフリー・ボガードだが、チャンドラー自身はケーリー・グラントを推していたそうだ。(チャンドラーと親交があったイアン・フレミングが、007ジェームス・ボンドをイメージしていたのも、ケーリー・グラントだったのは面白い。)

 短編や中編を除くと、フィリップ・マーロウを主人公とした小説は以下の7作。
"The Big Sleep" 1939年「大いなる眠り」
"Farewell My Lovely" 1940年「さらば愛しき女よ」「さよなら、愛しい人」
" The High Window" 1942年「高い窓」
"The Lady in the Lake" 1943年「湖中の女」「水底の女」
"The Little Sister" 1949年「かわいい女」「リトル・シスター」
"The Long Goodbye" 1953年「長いお別れ」「ロング・グッドバイ」
"Playback" 1958年「プレイバック」

 この他に草稿のまま残された作品があって、後に、「初秋」などのスペンサー・シリーズで有名なロバート・B・パーカーが完成させたそうだが、私は読んでいない。ちなみに、パーカーの小説は、一時、熱心に読んでいたことがあるが、途中で飽きてやめてしまった。そのパーカーも今は故人になった。なお、上のリストで、日本語訳が二種類あるのは、後者が村上春樹訳。チャンドラーのこれらの小説は、ハードボイルドの域を越えた優れた文学作品として、今でも世界中で高く評価されている。村上さんによると、カズオ・イシグロもチャンドラーのファンだそうだ。フィリップ・マーロウが活躍したロスアンゼルスは、今や、私にとってはハリー・ボッシュの街になっているのだが、ボッシュ生みの親であるマイケル・コナリーは、もちろん、チャンドラーの崇拝者の一人だ。

 チャンドラーには、Frank MacShane という人が書いた"The Life of Raymond Chandler"という伝記があって、私はそれも読んでいる。その内容はほとんど忘れた中で、人妻だった年上の女性シシイとの恋愛と結婚のところだけは今でも記憶に残っている。シシイは離婚したが、二人はチャンドラーの母親の反対でなかなか結婚できず、母が死んでようやく結婚できた。出会った時、チャンドラー32歳、シシイ50歳。結婚できたのはその4年後だった。フランスのマクロン大統領を思わせますね。マックシェインの本に掲載されたシシイの写真をみると、マクロン夫人と同じように魅力的な女性だった。1954年にそのシシイに先立たれたチャンドラーは鬱病になり、自殺未遂までしたそうだ。感傷的で繊細で、壊れやすい精神を、ハードボイルドという甲冑でかろうじて維持しながら、母親のようなシシイによって支えられていたのが、この時、崩壊しかけたのだろう。それでも、チャンドラーはなんとか立ち直って「プレイバック」を発表し、その次の作品も書いている中で亡くなった。なお、今や、フィリップ・マーロウの代名詞のようになった台詞「男はタフでなくては生きていけない。優しくなくては、生きている資格がない。」は、この「プレイバック」に出てくる。いろいろと考えさせる台詞だ。なお、この台詞は、日本映画の宣伝文句に使われた、生島治郎による「超訳」で、元の文とは少し違う。原文では「タフ」という言葉は使っていない。村上春樹の翻訳は、原文に忠実に訳しているそうだ。

 次は、J.D. サリンジャー。まずは、wikipediaによる略歴から。1919年1月1日にニューヨークで生まれ、2010年1月27日に亡くなった。かなり長生きしたわけだが、私が彼の小説を読み始めた時には、既に現役の作家ではなかった。裕福なユダヤ人実業家の父を持つサリンジャーだが、高校卒業後にヨーロッパに渡ったりして帰国。いくつかの大学に入学はしたが、卒業はしていない。第二次大戦に従軍。ノルマンディ上陸作戦に参加した。その後、神経衰弱で入院。入院中に女医と結婚。1945年除隊。帰還後、「ニューヨーカー」などに作品が掲載されるようになったが、1946年離婚。1955年再婚。一男一女をもうける。自身の青春時代を描いた代表作「ライ麦畑でつかまえて」の発表は1951年。この作品は、「永遠の青春文学」として、世界中で6000万部以上が売れるストセラーになった。この成功により、ニューヨークで静かに暮らすのが不可能になり、サリンジャーはニューハンプシャーに引越した。その後も、執筆を続けたが、少しずつ執筆量が減り、1965年以来、事実上引退して、「伝説の作家」になった。作品がベストセラーになってしまったことが作家の生活を変えてしまうということは、村上春樹の場合にも当てはまるかもしれない。村上さんが海外で過ごすようになったり、自ら英訳者を探して、海外の読者やメディアを意識するようになったのも、「ノルウェイの森」があまりにも売れてしまったからだ。これは余談。

 サリンジャーの主要な作品は以下の通り。

"The Catcher in the Rye" 1951年「ライ麦畑でつかまえて」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
"Nine Stories" 1953年「ナイン・ストーリーズ」
"Franny and Zooey" 1961年「フラニーとゾーイー」「フラニーとズーイ」
"Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour: An Introduction Stories" 1963年
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」

 上記の日本語訳が二つあるものは後者が村上春樹訳。チャンドラーの場合と同じく、私はサリンジャーの作品は全て英語で読んだ。作品数も少ないし、それぞれの作品は長くないので、難しいことではなかった。「ライ麦畑をつかまえて」を読んだきっかけは、たぶん、芥川賞受賞作で大学時代のベストセラーになった、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」がサリンジャーの剽窃だと言われたことだったろうと思う。読んですぐに、その文体の魅力に夢中になり、他の作品を次々と読んだ。特に、「フラニーとズーイ」が好きだった。なお、短編集「ナイン・ストーリーズ」に収録されている「バナナ・フィッシュにうってつけの日」が、後に、吉田秋生の漫画「BANANAFISH」を産んだことはよく知られている。私は、その漫画を読んだことがないのだが。

 5年前に、村上春樹と柴田元幸さんが「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」という新書を出している。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳について語った対談の記録だ。翻訳という作業がどういうものかよくわかるし、ご両人のサリンジャーに対する考えもわかって、とても興味深い対談だった。切りがないので内容の紹介はしないが、(ただし、この本には、wikipediaよりも詳しい、村上春樹によるサリンジャー紹介の文章が掲載されている。)村上さんはこの小説を高校生の時に初めて読んだそうだ。当時の小説好きの若者にとって、この小説を読むことは一種の通過儀礼のようなものだったという。大学生になってから読んだ私はちょっと遅れていたわけだ。今でも、多くの若者が太宰治にかぶれるように、サリンジャーを読むのが、当時は普通だったということかな。

 この文章のはじめに、私が村上春樹のファンになったのは、彼の登場以前にチャンドラーとサリンジャーを愛読していたからかもしれないと書いたが、実は、もう一人、重要な作家がいる。先ほど書いた、庄司薫だ。村上春樹が登場した時、私が庄司薫が名前を変えて再登場したのではないかと思ったことは、以前書いたことがある。こうしてみると、みんな繋がっているんですね。ちなみに、庄司薫は、「赤頭巾ちゃん」の後に、「さよなら怪傑黒頭巾」「白鳥の歌なんか聞こえない」「ぼくの大好きな青髭」という4部作を書いた後、サリンジャーと同じように筆を絶ってしまい、ピアニストの中村紘子さんの亭主に収まってしまった。中村さんが亡くなった後、どうしているんだろうと時々気になる。と書いたところで、偶然だが、今朝、朝日新聞で政治学者の御厨貴さんの回想を読んでいたら、中村紘子さんの生前に、庄司夫妻主催のパーティに招待された思い出話が出ていて驚いた。私と同年生まれで、早生まれの私よりも一学年下の御厨さんは、東京の進学校にいた高校時代に「赤頭巾ちゃん」を読んで震撼したそうだが、後に、その文庫本の解説まで書いていたとは知らなかった。私の持っている文庫本とは違う本のようだ。

 さて、とりとめのない文章になってしまったが、最後に、結論じみたことを独断的に言ってしまうと、「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹は、その感傷性を制御できないと、いずれ、サリンジャーのように書けなくなることを恐れて、チャンドラーのように書こうと決意して「羊をめぐる冒険」を書いた。しかし、その後、「ノルウェイの森」が制御不能のベストセラーになってしまった時に、彼は、サリンジャーや庄司薫のような隠棲の道を選ばず、海外に逃亡することで、なんとか作家として生き延びたのである。開高健の有名な台詞を思い出す。「男は自殺する代わりに旅に出る。」この見立てはちょっと強引すぎるかな。

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