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神須屋通信 #19

同窓会 鳥取の旅

0501(日)雨・晴
●午後、雨が上がったので、クロスバイクで1時間ほどのサイクリング。ジョギングで走ったコースがあっという間。流石に自転車は早い。途中で、ファミリーマートのカフェオレで休憩。天神山方面から流木墓苑まで走った。下り坂ではかなりのスピードが出るので、ブレーキをかけながら下る。安全第一。●夜は、「鎌倉殿の13人」と「七日の王妃」。前者は、頼朝と義経兄弟の、それぞれ異なった異常性格が描かれ、後者では、ようやく子役の時代が終わったが、物語はかなり歴史から離れてファンタジーに向かいそうな予感。

0502(月)晴
●村井章介「中世倭人伝」読了。「海東諸国紀」の著者で、朝鮮王朝初期の政治家&学者だった申叔舟のことを調べるために読んだのだが、残念ながら、対象とする時代が少しずれていた。でも、この新書で描かれた16世紀の「環シナ海地域」は実に興味深い。倭寇が横行した国際的なネットワークは、まるでブローデルが描いた「地中海」世界のようだ。中国では清、日本では徳川政府の成立で、この地域は急速に活力を失ってしまったのだが、もし、それがなければ、近代の東洋は西洋と充分に対抗できたかもしれない。なお、同じく中世史が専門の呉座さんは、この本の出版に際して、「偽使倭人伝」の書名を提案したそうだ。実際、当時は政府の名前を騙って貿易した偽使が多かったらしい。●昼食は「かごの屋」。vie de france に寄ってから帰宅。●筒井康隆「誰にもわかるハイデガー」読了。昔行われた筒井さんの講演記録の文庫化らしい。大澤真幸さんの解説とセットで面白かった。NHKの「100分で名著」についで、この読書。そろそろハイデガーに再挑戦する潮時かもしれない。

0503(火)晴
●憲法記念日。ゴールデンウイークの後半開始。今日は快晴。●昼前に車で家を出て、大阪北港へ。私は結婚前に、現在は咲洲と呼ばれている南港に10年近く住んでいたのだが、同じ大阪湾の埋立地である、現在は舞洲と呼ばれている北港には行ったことがなかった。ゴールデンウイークにはどこにも出かける予定がなかったが、車は動かしたいという家内に北港に行くことを提案したのは、北港を一度見てみたかったからである。特に、北港の何が見たいという目的はなかった。カーナビの指示に従って、南港から、海中トンネルで万博会場の予定地であるが、今は埠頭以外に何もない原っぱの夢洲を経由して舞洲(北港)に入ると、そこは、プロバスケットチームのホームになっているアリーナや野球場、バーベキュー広場などがある、「スポーツアイランド」だった。そういえば、かつて大阪がオリンピックの開催都市に立候補して惨敗した時、ここ舞洲が会場になる予定だったのだ。なるほどなるほど、北港はこんなところかと納得して、食事の場所を探したが見つからないので、コンビニで昼食を食べた。そんな人たちが他にも大勢いた。これで帰ろうと思ったのだが、その時、舞洲に着いた時に、車が渋滞していた事が頭に蘇った。渋滞の原因は「ネモフィラ祭り」だった。その時初めて、コンビニの近くにあった、「舞洲スポーツアイランド」の案内図をじっくりと見た。そして、「ネモフィラ祭り」はシーサイドパークというところでやっていることがわかった。大した距離ではないので、車をアリーナの駐車場に駐車したままで、海辺まで歩く事にした。途中、「ネモフィラ祭り」のための臨時駐車場をみたが、広大な敷地に数百台の車がびっしりと並んでいた。それぞれの車から降りた人たちが、会場目指して大勢歩いていた。●偶然ながら、私たちは絶好の時に舞洲に来たようだ。本来ならば、ここは入場料が1200円もするのが、先日の嵐で花が少なくなったというので、この日は入場無料だったのだ。入ってみると、初めてみる私たちにとって、海辺のネモフィラの花畑は十分すぎる程に美しかった。私たちは何も知らずにここに来たのだがら、思いがけない幸運だった。見物を終えて、トイレを借りようと立ち寄った、近くの「ホテル・ロッジ舞洲」がまた素晴らしい施設だった。私たちは、このホテルのガーデンで珈琲を飲んだのだが、美しい芝生と新緑の林の中に点在するロッジの風景は、まるで軽井沢のようで、ここが大阪湾に浮かぶ埋立島だという事が信じられなかった。いやいや、新発見。大阪にも私たちが知らなかった良い場所がまだまだありそうだ。ということで、今日はいい体験をした。●そうそう、舞洲に入った時、巨大な倉庫の廃墟のようなものがあったのだが、それは、昨年だったか、数日間も燃え続けた日立物流の倉庫の焼け跡だった。

0504(水)晴
●今日はみどりの日の祝日。朝、風呂掃除。●午前中、姪の一家が東京から近所の兄の家に帰省して来ていて、昼食前に、わざわざ我が家にも家族揃って挨拶にやってきてくれた。玄関先で立ち話。今年4月に女子中高一貫校に入学した長女のSちゃんは背丈が伸びて、お母さんよりも背が高くなっていた。お兄ちゃんは男子中高一貫校の高校部に進学した。昨日は揃って海遊館に行って、明日帰京するようだが、ヒマそうなので、北港見学を勧めておいた。いずれにしても、コロナのせいで3年以上会えなかったのが、こうして顔を見られただけで十分。それにしても、子供の成長は早い。

0506(金)晴
●いちおう、今日から平日モード。午後、コナミスポーツへ。●vie de france に寄ってから帰宅。●帰宅後、アマゾンプライムで、途中まで見てあった映画「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」を最後まで見た。荒唐無稽が売り物のシリーズだが、行き着くところまで行って、今回は宇宙にまで進出した。ここまで馬鹿馬鹿しいと潔い、もう感動してしまう。

0508(日)晴
●午前中、スロージョギング30分。体力がなく、本当にゆっくり走っているのに、これが限度。●今日から大相撲が始まった。横綱照ノ富士は初日に黒星。苦手な相手だったとはいえ、後が心配。●George Orwell "Animal Farm" 読了。未読だった古典的名作だが、ウクライナ侵攻が始まってから読まれているというので読んでみた。この小説は、まだスターリンが健在だった時代に書かれた偶像破壊の告発の書として知られていて、当時はアメリカにおいてさえ発禁になったのだが、もう現在では読む必要がないと思っていた。でも、プーチンというスターリンの亜流、あるいはさらに悪質な人物が出現して(何十年も前に出現はしているから、正体が明らかになって)、今また、この小説が新たな意味を持ち始めたのかもしれない。とても後味の悪い寓話だった。

0509(月)雨
●中国語教室の宿題は、中国語で手紙を書くこと。パソコンで下書きを書き、それを一行ずつ翻訳しようと思っていたのだが、ちょっと思いついて、パソコンの翻訳ソフトを試してみたら、見事に全文翻訳された。よく見ると、誤りや改善の余地がある訳文だから、少し手を入れる必要があるが、これは便利。でも、これでは勉強にならないか。●今日の私のtwitterのタイムラインは、国際政治学者、中山俊宏さん死去を惜しむ追悼文で溢れていた。まだ55歳。くも膜下出血らしいが、突然の死に皆さん呆然としている。随分と人望があったようだ。ウクライナ侵攻もあって、過労だったのか。●今日は、ロシアの対独戦勝記念日。全面戦争を宣言するのではないかと、プーチンの演説が注目されていたが、内容はただただウクライナ侵攻を正当化するだけのものだった。この男を退場させる方法はないものか。

0510(火)晴
●韓国の尹新大統領の就任式に日本から林外相が出席したのはよかった。日韓関係の劇的改善は期待できないが。●小泉悠「ロシア点描」読了。軽いエッセー風文章だが、ウクライナ侵攻が始まって多忙を極める中で書かれたというのは大したものだ。近い将来、ロシアに行ける可能性は低いが、少しだけウラジオストックを見た人間として、なるほどという興味深い記述ばかりだった。

0512(木)雨
●久しぶりに太極拳教室に行く家内を駅まで送迎。●午前中、これも久しぶりに、ピアノの練習。●昼食はコンビニ惣菜で。●佐藤優「紳士協定」読了。自伝的ノンフィクションのシリーズの一冊。外交官になった佐藤氏が、任地のロシアに行く前の一年間、語学研修で過ごした英国での、ホームステイ先の少年との交流話が中心になっている。佐藤さんはノンフィクションだと言うが、やはりこれは小説だ。普通の小説とは違って、ストーリーは重要ではなく、あまりにも詳細に書き込まれた些細とも言える情報こそが佐藤さんの書きたかった事なのだろう。彼自身が自分の人生を振り返る手段として。●ゴールデンウイークが終わって、予想通り、コロナ感染者は増加しているが、まあ予想の範囲内なので、中国のようなロックダウンは論外として、規制を強化すべきという声も上がっていない。いいことだ。そんな中で、内田樹さんがコロナ陽性になった。高熱と咳の症状だが、入院するほどではないよう。軽症なのだろう。ワクチンのおかげか。同時期に北朝鮮が、初めて、コロナ患者発生を発表したのは偶然の一致だろう。北朝鮮にはワクチンはない。どうなるのか。

0513(金)雨
●佐藤優「亡命者の古書店」読了。ずっと読んできた佐藤さんの自伝的小説(ノンフィクション?)のシリーズもこれで終わり。中学時代から外交官としてモスクワに赴任するまでの佐藤さんの半生をほぼ概観した。この衒学的でもある自伝的小説は、マンの「魔の山」や三島の「美しい星」のような議論小説でもある。キリスト教神学には無知だし、あまりに内容が詰まりすぎていて、私が理解できたのは表面に過ぎないが、佐藤さんが稀有な人物であることはよくわかった。一日3時間しか寝ない、知的エネルギーの化け物。とても真似はできない。

0514(土)雨・晴
●昼食はコンビニ惣菜。●ビデオを見たり、Netflixを見たりして過ごす。ピアノ練習はせず。中国語の勉強は少し。●夜は、久しぶりの「ブラタモリ」。今日は東京湾と川の話。現在ぼ航路はかつての川筋だったという話はとても興味深かった。●関周一「朝鮮人のみた中世日本」読了。申叔舟関連の資料として読んだが、一般向けの入門的な本だった。あまり参考にはなりそうにない。

0515(日)曇
●沖縄本土復帰50周年の記念日。朝ドラが沖縄を舞台にしていたのはそのせいだった。沖縄の人々全てが無条件に祝える日ではないのが残念だ。視聴率は悪くないが、朝ドラの評判も良くないようだし。twitterで、この番組の悪口を読むのが習慣になってしまった。●午前中、45分間のスロージョギング。いつもと違う道を少し走った。

0518(水)晴
●浅田次郎「天子蒙塵」1読了。「蒼穹の昴」シリーズの第五部の物語が始まった。ウクライナに侵攻したロシアに、かつて満州や中国本土を侵略した大日本帝国時代の日本の姿を重ねて見る人は多い。この第五部は、その時代の物語。それは、意表をつく人物の回想の形式で始まった。さすがに浅田次郎。大上段に構えた歴史小説にはしない。

0519(木)晴
●午後、ピアノの練習を少しした他、テレビ番組の録画を見たり、Netlfixで、かつてアカデミー賞を受賞した作品「ROMA/ローマ」を途中までみた。メキシコの中流家庭のお手伝いさんの生活を克明に描いたドキュメンタリーのような映画で、白黒の映像が美しい。●テレビ番組の録画では、NHKの、作家と猫の生活を記録するシリーズで、SF作家、神林長平さんが出ているのを見た。猫のファンではないので、もっぱら注目したのは、神林さんの山小屋のような素晴らしい住まいと執筆の様子。Macbook Air を使っていたが、ソフトは何を使っているんだろう。原稿用紙の形式になっていたが。

0520(金)曇
●Netflixで「ROMA/ローマ」の残りを見た。見るのに集中と緊張を必要とする芸術映画なので、2回に分けてみることになった。このアカデミー監督賞や撮影賞を受賞した、Netflixオリジナルの映画は、紛れもなく傑作であるが、その映画の凄さを更に教えてくれたのは、この映画の監督、撮影、さらに脚本も担当したアルフォンソ・キュアロン自身の解説による、メイキングのドキュメンタリー映像だった。映画を見終わったら、自動的に再生されたので見てしまったのだが、これは、全ての映画制作を目指す学生が見るべき最高の教材でもあった。ここまで作品の背景や創作方法を明らかにしてもいいのかと思うほど、映画作りの全てを見せてくれるドキュメンタリーだった。そして改めて、この映画が、アルフォンソ・キュアロンの記憶を再現した自伝的映画であり、莫大な制作費と多くの才能を結集した奇跡的な唯一無二の作品であることがよくわかった。韓国映画も凄いが、メキシコ映画界も凄い!そして、こういうものを見ることができて、Netlfixに加入してよかったと痛感した。

0521(土)曇
●夜の「ブラタモリ」、今夜は横浜港と川崎港。京浜工業地帯の基礎を築いた浅野総一郎の功績の紹介。この人はアサノセメントの創業者で富山出身だった。私が生まれ育った町の近所に、日本セメントと改名した(親たちはみんなアサノセメントと呼んでいた)大きな工場があって、その巨大な煙突を毎日眺めていたので、とても懐かしい。ネットで調べると、この浅野総一郎を見出したのはやはり渋沢栄一だった。渋沢栄一は偉大だ。

0522(日)晴
●もう暑いくらいの快晴。午前中、約35分間のスロージョギング。これくらいでもバテてしまう。●大相撲は今日が千秋楽。大関、関脇陣がまったくダメな中、怪我を抱えた休場明けの照ノ富士がなんとか面目を保ったという場所。照ノ富士は7回目の優勝。●バイデン大統領が、夕方、韓国から来日。●夜は、いつものように、「鎌倉殿の13人」と「七日の王妃」。前者は義経の最後を描く。サイコパスとして登場させ、最後は悲劇のヒーロー。さすがに三谷脚本、独自の解釈が面白かった。

0523(月)晴
●Netlflixで、一部で評判になっている「国民の僕」の第一話を見た。このドラマは、ゼレンスキーがウクライナ大統領に選ばれるきっかけになったドラマで、高校の歴史教師が、教え子たちの悪戯で大統領になってしまうという物語。なかなか皮肉が効いていて、ゼレンスキーが役者であったことを再認識した。ただし、このドラマの背景になっているウクライナの、たとえば、美しいキーウの都市が、爆撃を受けて今どうなっているのかが気になった。●東京で日米首脳会議。TPPを脱退したアメリカは、新たな中国包囲のための国際的経済枠組みを作ろうとしていて、日本も発足メンバーになるようだが、まずTPPに戻ってこいよと言えない日本が悲しい。

0524(火)晴
●東京で、QUAD首脳会議。豪州の首相は、先日の選挙で新しく変わったばかり。●浅田次郎「天子蒙塵」2読了。思いがけず、読むのに時間がかかった。最近、色々と気が散って、読書に集中できない。やりたい事が多すぎる。

0525(水)晴
●今日から1泊2日の同窓会旅行。幸い、天気はよかった。●朝、今回の幹事H君の地元加古川駅北口で集合。●今回の旅行の行き先は鳥取。鳥取のどこを訪れるのか、どこに泊まるのか、事前に何も知らされていない、まさにミステリー・ツアーだった。車は播但連絡道から、交通量の少ない中国道に入り、さらに、料金のかからない鳥取道を走った。途中、河原PAからも利用できる、「道の駅 清流茶屋かわはら」という所でトンカツ定食を食べた。昼食後、車は山陰道に入った。ここも、我々が走ったのは無料区間だった。

●H君が選んだ最初の目的地は倉吉だった。古い町並みの残る街として、私もいつかは訪れたいと思っていた街だった。まず、市役所の裏手にある倉吉博物館に行った。特に目的はなかったが、無料駐車場があったし、ここで観光案内地図をもらおうと思ったのである。地図を手に入れたが、老人は無料だというので、いくつか部屋がある中で唯一開いていた、考古資料室を見物した。付近の古墳から発掘した古代の壺などの考古資料がたくさん展示されていて、このあたりが古くから開かれていた土地であることがわかった。奈良時代には、ここから少し離れた場所に、伯耆の国の国府が置かれていたという。ここで思いがけない出会いがあった。考古資料室の横のコーナーに、山上憶良に関するパネルが展示されていたのだ。「令和」の元号の出典元となったのは、万葉集に収録された、太宰府での梅花の宴で詠まれた歌の序文だが、その宴の主催者は太宰府長官だった大伴旅人で、客人の中に、筑前守だった山上憶良らがいたということは、元号制定当時に大いに話題になった。山上憶良は、筑前に赴任する前に伯耆にいたんですね。伯耆守になったのは50代の後半になってからだった。遣唐使にも選ばれた知識人だったが、出世は遅かった。なお、「貧窮問答歌」で知られる山上憶良は渡来人の出身だという、「令和」産みの親の万葉学者、中西進さんの説があって、私もその説に賛成している。反対論もあるそうだが、だいたいが奈良時代の知識人は半分以上が、漢字を読み書きできる渡来系なのだ。特に百済系の人が多く、日本人はほとんど百済人の子孫だという極論を言う人もいる。

●観光地図を手にした私たちは、早速、まち歩きに出発した。最初に発見したのは横綱琴桜の銅像だった。なんと、駐車場の名称になっていた。近くに記念館もあるという。琴桜は倉吉の出身だったんですね。遅咲きの横綱だった努力の人、琴桜の爪の垢を今の大関陣に飲ませたい。この横綱は今の琴の若の祖父にあたる。

●さらに歩を進めると、風情のある町家の町並みが現れた。そこで最初に目に止まったのが、「里見八犬伝ゆかり忠臣八賢士の墓」という、江戸時代の高札のような形をした白い立て看板だった。これはまた、山上憶良以上に意外な登場。説明の文章を読んでみると、安房の国の領主だった里見家は徳川幕府の勘気に触れて倉吉に配流された。この地で里見忠義は亡くなり、家臣八人が殉死したというのだ。その墓が、そこから少し歩いた大岳院にあった。赤穂浪士の墓よりはずっと数は少ないが、同じように古びた墓石が並んでいた。滝沢馬琴がこの里見八賢士にヒントを得て「南総里見八犬伝」を書いたのかどうかはわからない。でも有りうる話だ。明治の文豪たちの人格を形成した青春小説は、この江戸時代の小説「八犬伝」だったというのは三浦雅士さんの説だ。芥川龍之介は馬琴の話を書いている。私自身について言えば、この小説そのものを読んだ事はないが、NHKの人形劇や山田風太郎の小説で「八犬伝」の事はよく知っている。傑作だと思う。ここでさらに発見。大岳院というのは小さな寺だったが、なんと、建物に菊の御紋章がついていた。光格天皇の生母の墓がここにあったのである。光格天皇は江戸時代の天皇だが、どこかで聞いた名前だなと思って調べたら、平成時代の明仁天皇が譲位される二百年前に、最後に譲位された天皇だった。この人は閑院宮家に生まれて、聖護院の門跡を継ぐはずだったのだが、亡くなった天皇に男子がいなかったため、9歳で養子に入って皇女と結婚して天皇家を継いだという。また、生母の大江磐代は倉吉の医者の娘だった。まさか、自分の子供が天皇になるとは思わなかっただろう。

●寺から出た私たちは、そろそろ休憩したいと、喫茶店を探しながら歩いたのだが、喫茶店は見つからなかった。そうするうちに、玉川という小さな流れに突き当たった。この玉川沿いの白壁土蔵の町並みこそが、倉吉最大の観光スポットだったのである。ここで、修学旅行かなにかの高校生らしき集団に遭遇した。さすがに素晴らしい景観だった。こんな気持ちのいい町並みにはきっとあの男が先に訪れている。そう、寅さん。やっぱり来ていた。「男はつらいよ」第44作がここで撮影されたということが、博物館でもらった、まち歩きの地図に書かれていた。赤瓦に漆喰壁、それに杉焼きの腰壁の建物が並び、建物群と道路の間を流れる狭い玉川の上には、ちょっと湾曲した石橋がいくつもかかっている。まさに、観光写真などで何度も見た光景だった。この一帯は、伝統的建造物保存地区にも指定されている。これぞ、ザ・倉吉、寅さんが愛した町並み。

●その後、ここで、テレビの旅番組のロケ撮影中の三田村邦彦の姿を目撃した後、さらに歩いて、内部を公開している京町家風の奥田家住宅を見物したりしたのだが、そして、本当はここではなく、倉吉淀屋の方を見物すべきだったのだが、詳細は省略。私たちは、そろそろこの日の宿に向かうことにした。着いてからわかったのだが、H君が予約した宿は、倉吉市のお隣の湯梨浜町にある東郷池畔の国民宿舎「水明荘」だった。その宿に行く途中の池畔に、「燕趙園」という中国風庭園の道の駅があったので寄っていくことにした。結局は、庭園部分は有料だったので内部には入らなかったが、外から眺めただけでも広大な敷地を持っていることがわかる。白い土壁の塀の中に、立派な黄色い瓦屋根の中国風建物がいくつも並んでいた。HPで確認したところ、鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして建設されたのだそうだが、建物や庭園も中国本土で中国人がつくって、日本に持ち込んで再現した本格的なものだという。テレビドラマの「西遊記」はここで撮影されたそうだ。

●今回の宿、国民宿舎「水明荘」は、その「燕趙園」に近いせいか、黄色い屋根瓦の中国風の建物だった。新しくはないが、よく整備されていて気持ちの良い宿だった。宿についてから夕食までかなり時間があったのだが、あっという間だった。というのは、グループの中で唯一、携帯電話さえ持っていなかったN君がスマホデビューした事がわかったからだ。さっそく、LINEアプリをダウンロードして、諸々の設定をしたあと、私たち「弦月旅行団」のグループにも無事に招待できた。その後、私と幹事ではないもう一人のH君の二人で、LINEの使い方を説明。これで、これからの旅行の打ち合わせが楽になる。そんな訳で、いつもはテレビで野球観戦などしながらワイワイ世間話をしているのだが、この夜はスマホの話に終始した。食堂での夕食のあと、同じ階にあった露天風呂に入り、ニュースで野球の結果を知った。早めに就寝。もう四人とも70歳を超えているのだ。以前のように深夜まで話し込む事はない。

0526(木)曇
●朝、5時過ぎに起き出して朝風呂に入った後に朝食。東郷池で採れたしじみを土産に、宿を出発して向かった先は、鳥取市内の鳥取城だった。鳥取城は秀吉の兵糧攻めで有名だが、最近の城ブームの中、テレビの城番組で天球丸(この名前がいい)の巻石垣が紹介されているのを見て、ぜひ見たいと思っていたのだ。ところが、実際に城に着いてみると、鳥取城は、石垣しか残っていないが、さすがに池田家鳥取藩32万石の城だけあって、思った以上に立派な城で、久松山の山上にある本丸跡はもちろん、山麓の天球丸に行くにも、かなり歩いて登らなければならない事がわかった。しかも、城の入り口で「仁風閣」という白亜の明治の洋館を見つけてしまったので、明治の洋館好きの私は、この際、城見物より洋館見物を優先したくなったのだ。というわけで、巻石垣の見物は中止。オリジナルではなく復元らしいし。

●というわけで、「仁風閣」を見物。ありがたいことに、我々老人は無料で見物する事ができた。この建物は、鳥取城の扇御殿の跡地に、片山東熊の設計によって明治40年に建てられた。わずか八ヶ月で完成したそうだ。工事を急いだのは、山陰に行啓した皇太子時代の大正天皇と、おつきの東郷元帥の宿舎とするためだったという。修理復元工事を経て、外壁の白いペンキが剥げかけてはいるが、建物は今も美しく保存されていた。当時のご座所のほか、皇太子が使用した便器まで残っていた。しかし、ここでもまた思いがけない出会いがあった。なんと、この「仁風閣」で、「るろうに剣心」の第一作が撮影されたというのだ。館内には当時の撮影風景の写真パネルや、出演者の佐藤健、香川照之らのサイン色紙が展示されていた。「るろうに剣心」シリーズは、私の好きな映画で、当然、この第一作も見ているのだが、まさかここで撮影されたとは想像もしていなかった。今回の旅は、まさに、出会いに次ぐ出会いの連続だった。これぞ、ミステリー・ツアーだ。

●「仁風閣」を出た私たちは、いよいよ最後の目的地に向かった。幹事役の東村は、ここをメインに考えていたという、鳥取砂丘の横にある「砂の美術館」だ。ところが、なんとも間が悪いことに、この美術館は7月からの新しい展示物制作のため、今は閉館中だった。それでも、過去に公開した歴代作品群の写真パネル展を無料で開催しているので、行ってみることにした。私もニュースや旅番組で見た事があるが、世界中から優れた砂の彫刻家が集まって製作する、毎年のその作品群は、砂の彫刻などと軽く片付けられないほどの見事な出来栄えで、写真パネルを見ただけでもその凄さがわかり、やっぱり、本物を見てみたかった。機会をつくって、いつかぜひ行こう。●その後、本物の鳥取砂丘をちょっと見物してから、まだまだ帰りの道中は長いけれど、運転は漢字の東村に任せて、今回の旅終了した。いつものことだが、収穫の多い旅だった。なお、「スタバはないけど、すなばはある。」と言う鳥取県知事の名言があるが、鳥取にはちゃんとスタバがありました。また、今回の旅では「すなば珈琲」の店舗を見つけることができなかったのは残念。

0527(金)晴
●午前中、「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」と「るろうに剣心」をNetflixで確認した。こんな時はとても便利だ。寅さんは、この頃になると脇役に回っていて、物語は吉岡秀隆演じる満男と後藤久美子演じる泉の恋物語が話の中心になっている。この映画では、家出した泉と倉吉で寅さんがばったり出会うシーンや、心配して鳥取まで追いかけてきた満男と泉が鳥取砂丘で再会するシーンなどがあった。その倉吉でのシーンが、まさにあの、玉川沿の白壁土蔵の場所だった。後者は、仁風閣の裏庭で派手なアクションシーンが展開されていて、芝生はどうなったんだろうと心配になるほどだった。

0528(土)晴
●今回の旅を振返る参考資料として、久しぶりに、司馬さんの全集を取り出して、「街道をゆく 因幡・伯耆」を読んだ。かつては国内旅行をするたびに「街道をゆく」を読んだものだが、最近では、旅のガイドとしては「ブラタモリ」を参考にすることが多くなった。久しぶりに読んでみると、さすがに知識の宝庫。一行ずつが勉強になる。司馬さんによると、現在の鳥取県を構成する因幡と伯耆の二国は、昔から、千代川を中心とする東の因幡が農業国、大山を中心とする西の伯耆は商工業国だったという。だから、両国民の気質は昔から現在まで相いれず、互いに嫌っているという。富山と金沢の違いのようなものか。伯耆の中心は古代から倉吉だったが、時代を下るにつれて、その中心は米子に移ったそうだ。司馬さんは、鳥取藩池田家が官僚主義的だとお好きではないようで、鳥取城の見物もパスしていた。だから、仁風閣にも触れられていない。でも、倉吉博物館を訪れたようなのは嬉しかった。倉吉特産の金属農工具など、見たい展示はなかったそうだが。なお、徳川時代の一国一城令で、因幡の鳥取城は残り、伯耆では、倉吉の打吹城が廃城になり、米子城が残ったそうだ。倉吉博物館があったあたりは、かつて打吹城があった場所である。お城に勤めていた職人たちが、仕事にあぶれて倉吉の町で店を開いたのではないかという説も書かれていた。いずれにしても、倉吉は昔から商工業の町だったようだ。


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