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中国の旅 #8

 大連と旅順  2016年

 大連の国民学校に転校して行った親友から届いた絵はがきを見て以来、大連は、井上ひさしさんの「夢の都」になった。後年、井上さんは、大連や満州の古い絵はがきや地図類の熱心な収集家になる。そんな井上さんが、昭和20年8月末、敗戦直後の、ソ連の占領地になった大連の二日間を舞台に「連鎖街のひとびと」という戯曲を書いた。歌がいっぱいの音楽劇だ。井上さんは、登場人物が架空であっても、その詳細な年表や、住まいの間取り、関係する土地の地図などを作成することで知られている。当然ながら、当時の大連の地図も手書きで作った。資料は既にたくさん手元にある。でも、「連鎖街のひとびと」は、ホテルの地下の一室が舞台だから、本当は市街地図をつくる必要はなかったのだ。それでも地図を書いてしまうというのが、いかにも井上ひさしらしい。そんな井上さんのコレクションが「井上ひさしの大連」という本にまとめられている。その前書きに、井上さんはこう書いている。

 「極東赤軍管理下の地獄のような大連で懸命に生きていた若い日本人たちの名前を列挙すれば、大連放送局アナウンサーに糸居五郎、大連放送管弦楽員にジョージ川口と秋吉敏子、そして放送局では藤沢嵐子や黒木耀子が歌っており、それを聞いていた中学生に、山田洋次や清岡卓行や羽田澄子がいた。さらに、市内逢坂町の遊郭には、若いとは言い兼ねるが、満州興行の途中で足止めを食った古今亭志ん生と三遊亭円生がくすぶっていた。」

 さすがの井上ひさしさんも間違うことがあるようだ。敗戦時、清岡卓行さんは、中学生ではなく、休学して故郷の大連に帰省していた東大生だった。後に詩人、批評家、さらに小説家になった清岡卓行は、芥川賞を受賞した小説の冒頭を次のように始めている。

 「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ。」

 この美しい小説の題名は「アカシヤの大連」。この小説を初めて読んだ数十年まえから、大連はわたしにとっても「夢の都」になった。今回、そのアカシアが満開の時を迎える5月下旬の大連を初めて訪れるのだ。期待に胸をふくらませたわたしは、「アカシアの大連」を数十年ぶりに再読したほかにも、いくつかの関連書籍で予習に励んだ。その中の一冊が、西沢泰彦さんの「図説大連都市物語」だった。都市計画や建築に興味がある私にとっては、古い地図や建築写真が満載のこの本は、何時間眺めていてもあきない本だった。大連は、建築ファンにとっても「夢の都」なのだった。というわけで、準備完了。いよいよ大連に出発だ。5月20日、金曜日のことだった。


 午前10時10分に関西国際空港を飛び立った全日空機は、現地時間の11時35分に、大連周水子空港に到着した。時差が1時間なので、約2時間25分の飛行である。途中、朝鮮半島の上空を横切った。快晴だったので、窓側の席からは陸地がきれいに見えた。空港でガイドの出迎えを受けた。2名ずつ3組、計6人がツアーに参加していた。たぶん、参加者はわれわれ夫婦だけだろうと思っていたので意外だった。他の二組は、大きなスーツケースを4つも抱えた中年夫婦と、上品そうな母親と娘のカップルだった。そのまま送迎車で、ホテル・ニッコー大連に行き、チェックインを済ませた。この日の午後の予定は何もない。全くのフリータイム。15階の部屋に入った私たちは、しばらく部屋で休憩した後すぐに町歩きに出かけることにした。わたしが、大連の街並みをすぐにでも見たがったからだ。私たちはまず、ホテルから「ロシア風情街」まで歩き、その後、かつての日本時代には「大広場」と呼ばれていた、「中山広場」まで歩いた。

 大連は、もともとはロシア人がつくった都市だ。日清戦争に勝利した日本は、台湾とともに、旅順のある遼東半島を割譲させるが、三国干渉によって、抛棄させられた。その後に入ってきたのがロシアだった。不凍港を求めていたロシアは、旅順を軍港化してその周囲を数多くの要塞で囲むとともに、一寒村に過ぎなかった近くの湾を交易港として拓き、パリをモデルにした壮大な都市の建設に着手し、その都市をダーリニーと名付けた。ロシア語で「遠方」という意味だそうだ。都市の建設の主体となったのが東清鉄道という国策会社だったのは、後の日本の満鉄と全く同じ構造である。東清鉄道の技師だったサハロフという人物が初代の市長になった。私たちが最初に向かった「ロシア風情街」は、このサハロフ時代のダーリニーの市街地だった。大連港から大連駅に向かう、何本もの鉄道線路を越える長い跨線橋である「勝利橋」は、日本人が造った橋で、かつては「日本橋」と呼ばれていた。名前とは違って、当時から洋風の橋だった。今では交通量が増えて、当時よりも幅が広くなっているそうだ。その「勝利橋」を渡ると、向こうに、馴染みのある建物が見えてきた。

 「大連芸術展覧館」だ。かつての東清鉄道汽船会社の社屋だった建物である。どうして馴染みがあるかと言えば、大連と姉妹都市である北九州の門司港レトロ地区に、これと同じ形の建物が建っているからだ。もちろん、門司港のはレプリカだが、この大連の建物がオリジナルかと思ったら、どうやら、こちらもレプリカで、本物は壊してしまったということだった。私たちは建物の中には入らず、「ロシア風情街」も奥まで歩かずに、再び「勝利橋」を渡って、「中山広場」へ向かった。ロシア人は壮大な都市計画を構想したが、実際に完成したのは二本の埠頭と、現在の「ロシア風情街」の一画だけだった。他の地域は構想だけで終わった。日露戦争に勝利して、その構想を引き継いだ日本の役人や建築家たちは、その計画の壮大さと美しさに魅了され、日本風の木造建築を禁止して、煉瓦と石による洋風の都市を建設することにした。その象徴が、かつて「大広場」と呼ばれた「中山広場」だ。日本の建築家たちは、このパリの凱旋門広場のような円形広場の周囲に、満鉄経営のヤマトホテルや横浜正金銀行など、世界に誇れるような立派な洋館を次々に建設した。そのほとんどが、今でも残って使われているのだ。わたしのようなレトロ建築ファンにとっては、大連はまさに聖地だった。

 というわけで、わたしはオモチャ売場に入った子供のような状態だったのだが、亭主につきあって、ソウルや釜山ならともかく、さして関心のない大連まで来てくれた家内には、そんな、自分勝手にはやる亭主は迷惑千万だったようだ。問題は他にもあった。事前の調査では、真夏でも肌寒い気候なので、セーターを持ってきたくらいだったのに、実際の大連の町は日差しが強くて暑かったのである。しかも、大連は歩行者に冷たい町だった。横断歩道はあるのだが、信号がほとんどない。かなりのスピードで、大量に行き交う車の列の中を、向こう側に渡ることは至難だった。しかも、大連の車は歩道に駐車をする。歩行者は、車の隙間を歩かないといけない。それに、公共交通機関が発達していない。大連から帰ってから、地下鉄があることを知ったが、わたし達が持っているガイドブックには、路面電車とバスとタクシーのことしか書いてなかった。知らない外国の街でバスやタクシーに乗るのは勇気がいるし、路面電車はホテルの前の道を通ってはいたが、プラットホームがなかったり、あっても、そこに行き着くまでに車にひかれそうになる。というわけで、大連の町は、町歩きにはとても不便な街だということがわかったのだ。そんな事情が重なって、家内はすっかり不機嫌になって、さっさとホテルに戻ってしまった。

 その夜の食事は、ホテル内の「紅蓮」という有名な中華レストランを、旅行会社を通じて予約していた。私たちが「紅連」に入った時には、他の客は一人もいなかった。早すぎたようだ。さすがに日系のホテルだからか、支配人らしい男性が日本語で私たちを迎えてくれた。個室を予約してくれていたので、わたしたちは個室に案内された。メニューは、日本で予約した時から既に決まっていたので、私たちは何も言う必要がない。出てくる料理をおとなしく食べるだけだった。ただ、女性スタッフにグラスワインを頼んだのだが、ボトルしかないというので、お茶だけで済ませた。この辺りのやり取りは英語。当時はすでに中国語教室に通い始めていたのだが、やっぱり、とっさに中国語は出てこなかった。料理は、さほど豪華とは言えなかったが、まあまあ美味しかった。特に、海老がぷりぷりだった。大連は海産物がおいしい街だ。

 夕食を食べて、家内は元気を回復した。まだまだ夜まで時間があるので、市内を散策に出かけることにした。歩行者専用道路で、露店でも有名な天津街では、太極拳に代わって中国で流行している、「広場舞」のグループが、揃いのTシャツ姿で音楽に合わせて踊っていたが、特に家内が興味を示したのは、「新世界百貨店」だった。これは韓国の「新世界(シンセゲ)百貨店」の大連支店なのか、名前が同じだけの中国の百貨店なのかわからないが、韓流ファンの家内は、韓国のシンセゲだと判断したようだ。内部に入ってみると、普通の地方都市の百貨店だった。

 いよいよ、二日目から本格的なツアーが始まった。この日は、「たっぷり大連・旅順1日観光」のオプションツアーを申し込んであった。朝食後、ホテルのロビーに集合して出発。同行するのは、ガイドと運転手の他に、あの上品そうな母娘のカップルだった。まず向かったのは旅順である。日露戦争の激戦地として知られる旅順と大連はもともと別の街だったが、現在では、金州地区も含めて、同じ大連市になっている。というわけで、現在の大連市の面積は13,237平方キロ。(京都府と滋賀県と奈良県と大阪府を足した程度。)人口は600万人を越えているが、都市部の人口は325万人程度だそうだ。巨大な人口を擁する中国では、さほど大きな都市ではない。事実、私たちを案内してくれた女性のガイドさんは、大連を田舎の街だと言っていた。ちなみに、大阪府の面積は1,899平方キロで、人口は約880万人。中核となる大阪市の人口は270万人ほどだ。ついでに書いておくと、北京市の面積は16,800平方キロ、人口は2019万人。上海市の面積は6340平方キロで、人口は2430万人である。日本の都市とは全く比較になりませんね。大阪には、二度も否決された、大阪都構想というのがあって、それは、狭い地域に大阪市と大阪府という、似たような権限を持つ自治体が存在するのは意思決定において何かと不便だから、大阪市を廃止して、大阪府を大阪都として唯一の権限を持つ自治体にしたいということだったのだが、もし、その案が成立して、大阪府が拡張大阪市のようなものになったとしても、中国では決して大都市ではない。京阪神とその周辺をひとつの都市圏と考えると、やっと中国並みの都市になる。以上は余談。どうしてそんな話をしたかというと、この田舎の都市である大連が、いかに発展しているかを実感させられる光景を見たからだ。旅順に向かう車は、新しく出来たばかりだという長いトンネルを走っていた。トンネルを抜けると、いきなり視界が開けた。海の上を走っているのだ。長大な橋だった。右側を見ると、海水浴場のような砂浜が拡がり、その後方には驚くばかりの高層ビルの列が続いていた。どうやら高級マンション群のようだ。まるで、ノイシュバンシュタイン城のような建物も見えた。後で調べると、これは最近できたばかりのホテルだったようだ。この光景を見て、わたしは釜山の広安里大橋を思い出した。南浦洞やチャガルチ市場などの古い釜山の街と対照的な、海雲台、広安里、センタムシティやマリーナシティといったベイサイドの新しい街は、現代的というよりも未来的な都市景観を持っていて、釜山の新しい魅力を創り出しているのだが、この大連でも、かつての日本時代に星ヶ浦と呼ばれた星海公園や星海広場のあたりが、新しい未来的な都市景観を形成していたのだ。大連は既に大阪や神戸を越えているなと、私は車の中で実感した。この長大な海上の橋の名前は「星海湾大橋」というそうだ。歩道もあって、ここを歩く人たちのグループがいた。さぞかし絶景を楽しんだことだろう。

 旧大連市街から旅順までは、旅順南路というルートで行ったようだが、沿道にはアカシアが街路樹として植えられ、それらが満開の可憐な白い花をつけている光景は大連に来た喜びを更にかきたててくれた。正確にはニセアカシアの樹である。このことを初めて知った清岡卓行さんはショックを受けているが、自分が子供の頃から親しんできたニセアカシこそがアカシアなんだと、小説の題名にもあえてアカシアという名称を選んだ。ちなみに、旅順は桜の名所としても有名だそうだが、やっぱり、アカシアの奥ゆかしい美しさは大連の市の花にふさわしいものだと思う。なお、大連から旅順へ行く道中で、いくつものマンション群の前を通り過ぎた。これも発展する都市大連を象徴するものだろう。日本のマンションは墓石みたいで四角四面ツルツルののっぺらぼうの建物が多いのに比較して、中国のマンションは凹凸のある石造風の建物が多く、瓦屋根や塔がついていたりする。しかもそれらが数棟から十数棟集まって一つの街区を形成し、その街区が立派なフェンスと豪華なゲートで囲まれている。中身はともかく、外観は日本のものよりもずいぶん立派だ。大連市内にもマンションの宣伝看板が目立ったが、それらのマンションはほとんどが100平米から180平米くらいの広さがあるようだ。韓国のマンションもこれくらいの広さが普通だったから、日本のマンションが狭すぎるんだろう。もちろん、これらのマンション群が、中国の地方政府の錬金術による不動産バブルそのものであり、悪名高い「鬼城」つまり、ゴーストタウンである可能性は否定できない。またまた余談をしてしまった。いよいよ旅順に到着だ。

 まず、白玉山に登った。ここは旅順口を眼下に見下ろす、中国でも有名な観光地だ。日本人だけではなく、中国人の観光客もたくさんいた。中に結婚写真を自ら撮っているカップルがいて、その光景がちょっと面白かったので横でこっそりと撮影した。ここから見下ろす旅順口は実に風光明媚だった。緑の中に高層マンションが建っている。港内の波は静かだ。ここがあの日露戦争の舞台になったとは、信じられない。まさに「アカシアや 兵どもが 夢の跡」だった。当時、旅順港はロシアの旅順艦隊の海軍基地になっていた。この旅順艦隊と、はるばる極東まで回航してくるバルチック艦隊が合流すれば、日本海軍の勝ち目はない。日本は、バルチック艦隊が到着する前に、この旅順艦隊を殲滅しようとした。そして、旅順港内に立てこもった旅順艦隊の動きを封じるために、旅順口閉塞作戦を展開したわけだが、広瀬中佐の犠牲などがありながらも、この閉塞作戦は失敗する。最終的には、乃木希典にかわって指揮をとった児玉源太郎の命によって、二〇三高地を奪取した日本軍が、この高地からの指示で大砲の着弾点を調節して、港内のロシア艦隊を壊滅させたのだった。この辺りのことは、司馬遼太郎「坂の上の雲」のひとつのハイライトになっている。わたしも夢中で読んだ記憶がある。NHKのドラマも見た。こうして見る旅順口はたしかに驚くほど狭くて、ここに船を沈めたら閉塞できそうだなと思った。でも、それが簡単じゃなかったわけだ。

 「白玉山」の山頂には、大きな塔が建っていた。日露戦争の戦勝を記念して、乃木希典と東郷平八郎が建てた塔で、当時は「表忠塔」と名付けられていた。灯台のような形をしている。有料で上まで上れるそうだが、急な階段なので、ほとんど上る人はいないそうである。私たちも上らなかった。日露戦争が終わって5年後に、夏目漱石がここを訪れている。漱石は、「坂の上の雲」の主人公の一人である、正岡子規や秋山真之の友人でもあった。その時の紀行文である「満韓ところどころ」を読むと、山麓を通り過ぎただけだったようだ。漱石もまた「高い灯台のような恰好」と書いていた。

 次に、二〇三高地に上った。ここは頂上までは車で行けないので、途中から徒歩になった。急な坂道だ。日露戦争当時は樹木のないハゲ山だったようだが、今では植林が進んでいる。アカシアもあった。頂上には、乃木希典の「爾霊山」の文字が刻まれた有名な塔が建っている。日露戦争で使われた銃や砲の薬莢を鋳直して造ったそうだ。日本軍の大砲のレプリカもあったが、実際はもっと巨大だったろうし、日本軍が28サンチ砲を湾内の旅順艦隊に放ったのはここからではなく、隣の高台からだったそうだ。漱石もここに来ているはずだが、東鶏冠山に登ったことは書いているが、二〇三高地に登ったという記述はなかった。いずれにしても、馬車で行ったのに、坂道で馬が足をとられて、結局歩いて登ったそうだ。当時、湾内にはまだ沈没船が残され、機雷の処理もまだ済んでいなかったと漱石は記録している。

 ここにも観光客がたくさんいたが、さすがにここは、ほとんどが日本人だった。山頂と山麓に土産物の売店があって、当時の地図を貼ってあったが、旅順の周囲は驚くほど多くのロシア軍の要塞で囲まれていた。塹壕を掘ったりして、そのひとつずつを攻略しながら二〇三高地に到達した当時の兵士たちは、さぞ大変な苦労だったことだろう。漱石もそのことを書いている。でも、こういう施設を中国の人がちゃんと保存してくれているというのは、どういう心の働きなんだろうか。日露の戦いだから中国に実害はない、歴史は歴史として観光や学習のために保存しようということなのかな。日本が第二次大戦で敗者となった時、一時、ソ連がここを占領したはずだが、その時に壊さなかったのはどうしてなんだろう。そんな疑問も湧いてきた。なお、これらの売店で目立っていたのは、乃木希典の「山川草木」の漢詩の掛け軸だった。あれだけ沢山あるという事は、記念に買っていく人が多かったんだろう。先日、下関の乃木希典生誕地跡に建つ「乃木神社」を見物した際、境内に松の苗木が植えられていて、それが二〇三高地の松だと書いてあったのだが、日露戦当時はハゲ山だったはずだから、乃木さんが松を懐かしく思うはずはない。そんな事も思い出した。

 この日の昼食は、「水師営会見所」の隣にある観光客用のレストランでとった。私たちは早めに着いたので空いていたが、すぐに観光客で満席になった。ほとんどが日本人だが、中国人の客もいたようである。料理は海産物を使ったものが多くて、ちょっと四川風の味付けですが美味しい料理だった。ここで相席になったので、同行の母娘の話をゆっくりと聞くことができた。なんと、お母さんは大連で生まれて、敗戦後に三歳で大連を離れて以来、初めての大連なのだった。娘さんはつきそい。お母さんには兄がいて、その方も大連に行きたいと言っていたそうだが、志を果たせずに亡くなってしまったそうだ。今回は、そのお兄さんの遺影を持って大連に来られた。三歳までしかいなかったので、当時の大連の記憶はほとんどないそうだが、ここに来るには、やはりある種の決断が必要だったようだ。「ふるさとは遠くにありて想うもの」であって、幻滅が怖かったということだろうか。この母娘には、清岡さんの「アカシアの大連」を読むことを勧めておいた。

 「水師営会見所」は、戦争終結後に乃木希典とロシア軍のステッセル将軍が会見した旧跡だが、元は、農家を接収して野戦病院として使用していた建物だったそうだ。一度壊されて、現在の建物は復元である。中に、日露戦争当時の写真の展示などがあった。実際に会談時に使用したという、元は手術台だったという机もあったが、とても本物だとは思えない。なにしろ、自由にさわれるんだから。ここも、観光客の大半は日本人だった。

 旅順見物を終えて大連に戻る際、途中の数区間だけ、路面電車に体験乗車した。昨日、入国時に各自一枚支給された、ICOCAカードのような交通カードを使った。ここの路面電車は専用軌道を走っていて、ちゃんと駅もあるから、乗車も下車もスムーズだった。また、この周辺には大学などが多いそうで、電車は、若い人達ですぐに満員になった。星海公園の手前あたりで下車して、先回りしていた車に乗り換えて、再び大連市内をめざす。次は、いよいよあの「アカシアの大連」だ。(つづく)


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