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中国の旅 #3

はじめての北京 1991年 (その2)

 翌日は、一日フリータイムだった。上海の旅行日程にはなかった、このフリータイムが、はじめての北京の旅を思い出深いものにした。朝食の後、長富宮飯店を出た私たちは、ホテルから近い建国門の駅から地下鉄に乗って、前門駅に向かった。現在の北京の地下鉄には24も路線があって、1日平均1000万人を運んで、世界一の輸送量を誇るらしいが、当時は、ほんの数本しか路線はなかった。ひょっとすると、1号線と2号線の2本しかなかったかもしれない。1号線は、王府井を経て、天安門と天安門広場の間の片側5車線の大通り(長安街または長安路と呼ばれる)の下を東西に貫き、2号線は旧市街を周回する。建国門駅は、2本の路線が交わる交通の要所だった。私たちが乗ったのは2号線だった。建国門駅から前門駅まで乗った。建国門から3つ目の駅が前門だった。前門(チェンメン)は通称で、正式名称は正陽門。かつての北京は、それぞれが城壁に囲まれた、中心に紫禁城のある内城と、その南方に接して広がる外城に分れていたのだが、正陽門は、内城の南門だった。だから、位置的には天安門広場の南側にある。なお、毛沢東が北京の城壁を破壊させたので、今では、北京に内城と外城の区別はない。それどころか、北京はますます領域を拡大して、今や世界最大の都市のひとつになった。前門を起点にして南に延びる前門大街は、昔は外城に属していて、明清時代からの繁華街だった。今でも多くの老舗が並んでいるが、どちらかと言えば庶民的な街で、北京の浅草と呼ばれたこともあったそうだ。

 しかし、私が行きたかったのは、この前門大街ではなく、天壇公園だった。当時は、天壇まで行く地下鉄がなかったので、私たち夫婦は、前門から天壇公園まで歩いた。これが大失敗だった。私は、北京の広大さを過小評価していた。これは、とても歩いて行ける距離ではなかったのである。北京のことを何も知らないから、バスは無理としても、せめてタクシーに乗るべきだった。しかし、当時の私は、大学で東洋史学を専攻したにも関わらず、ほとんど中国語ができなかったのである。(今も、大して出来ない。)だから歩くしかなかったし、市街地図を見ただけで、十分、歩いて行ける距離だと思ったのである。繰り返すが、これは無謀だった。前門から天壇公園まで、現在の地下鉄の駅で3駅分くらいある距離だったのだ。行けども行けども目的地に着かない。とうとう、夫婦喧嘩が始まった。でも、今から振り返ってみると、これは得難い体験だったと思う。

 私は、NHKBSで放送している「世界ふれあい街歩き」という番組が大好きなのだが、(「ふれあい」という言葉は嫌いです。)やはり、旅行の醍醐味は、知らない街を歩き回ることだと思う。この時は、果たして天壇公園に着けるのかと心配しながら歩き続けたことが、北京の街をとてもリアルに感じさせてくれたと思う。例えば、路上で喧嘩をしている夫婦や、それを仲裁しているご近所の人々を目撃したり、歩き疲れて喉が渇き、飲料を買った露店のおばさんが、こちらが言葉を解せず、いくら払ったらいいのかわからないので、持っているお札をみんな出したら、大笑いした時の表情と笑い声など、ずっと忘れていたけれど、今、この文章を書いていて、生々しく思い出した。まあ、そんなことがあってようやくたどり着いた天壇公園は素晴らしかった。ここも北京観光の定番だから、説明の必要はないと思うが、梅原龍三郎画伯の絵画「北京天壇」で有名な、あの天壇ですね。故宮が広大な四辺形の中に小さな四辺形を大量にぎっしりと詰め込んだイメージだとしたら、この天壇は、広大な空間の真ん中に円形の塔が超然と宙を目指してそびえているという印象だ。それが、日本の五重塔などとはスケールが違う巨大さで聳えているのだ。この光景を見て、ここまでの苦労が吹き飛んだ気がした。わざわざやってきて良かった。聖地巡礼というのは、本来、こういう難行苦行?とセットになっているべきものですね。有り難さが増す。北京には、地壇、月壇、日壇、天壇があるそうだ。地壇公園は、北京に着いてすぐに行った食堂があった公園。日壇公園は、私たちのホテルからも近い所にあったのだが、私たちは行かなかった。写真をみると、ここにも天壇と似た円形の塔があって、ここで皇帝が太陽神を拝礼したという。天壇も、その名の通り、皇帝が天を拝礼した場所である。でも、規模は天壇の方がずっと大きい。元々は、明代の永楽帝が建設したそうだが、清もそれを継承した。ここで、豊作を祈ったり、雨乞いをしたりした。ここの円形の塔には名前が付いている。祈年殿である。それ自体が丘のようになっている円形の石積みの基壇の上に聳え立っている。中国最大の祭壇だそうだ。瑠璃瓦葺き屋根の三層構造。実に美しい建物で、もちろん、世界遺産に登録されている。今でも、私の大好きな世界の建築ベスト5に入る。

 天壇公園で祈年殿の見物を無事に終えて、ほとんど同じルートを歩いて戻ったのに、不安感がなくなったせいか、帰りはあっという間に前門に戻った。こういう事はよくある。しかし、この日の観光はこれで終わったわけではなかった。私には、もう一か所、行きたいところがあったのだ。瑠璃廠(ルリチャン)だった。この地名は、wikipediaによると、元、明代に、この地で故宮の屋根などに使われた瑠璃焼の窯があったことから名付けられたそうだが、清代には、有名な「栄宝斎」など、筆、硯、墨、紙の文房四宝や印章、書画骨董などを販売する店が立ち並び、多くの文人墨客が訪れる街になっていた。私がどうしてこの街に憧れたかというと、たぶん、高校時代から、湯川秀樹、桑原武夫、吉川幸次郎といった、京大の著名教授の本をよく読んでいた影響だろうと思う。(梅棹忠夫さんが京大教授になったのは、もう少し後だったと思う。)そのくせ、ちっとも勉強しなかったので、京大進学などは夢のまた夢だったわけだが、いずれにしても、半分は唐人だと自称した吉川幸次郎先生が北京に滞在していた時、いつも訪れていたのが、この瑠璃廠だった。

 ところが、この瑠璃廠がまた、前門からは遠かったのだ。でも、前門と瑠璃廠との間は、昔から有名な繁華街である大柵欄(ダーシャンラン)などがあるので、天壇公園に行った時よりは楽しい散歩だった。現代では、ソウルの仁寺洞と同じく、すっかり観光用に俗化されたようだが、(最近の写真を見ると、これは中国各地の観光地に共通の傾向だが、何やら安っぽいテーマパークのようになっている。)当時は、文化大革命を経て荒廃したとはいえ、瑠璃廠にはまだまだ文化の香りが残っていたように思う。なにしろ、長年の憧れの地だったので、点数が甘かったかもしれないが。たぶん、「栄宝斎」でだったと思うが、私は、筆や硯、掛け軸などを買った。この時に買った掛け軸は、この中国旅行の翌年に新築した家の床の間に、その後長らく、薄汚れてしまうまで掛けていた。こうして、目的を達した私たちだが、さすがに歩きすぎて疲れた。もう限界だった。前門まで歩いて戻る気力も体力もない。考えてみれば、もう昼食の時間はとっくに過ぎていた。でも、どこかの食堂に入る勇気はない。というところで、たまたま見つけたタクシーに、私たちは勇気を出して乗り込んだ。幸い、長富宮飯店のカードを持っていたので、それを見せたら、運転手は、私たちをホテルまで無事に送り届けてくれた。実に簡単だった。こんなことなら、初めからタクシーに乗るべきだったと思った。その日の遅い昼食は、ホテルでスペゲティを食べたと、当時のメモにある。

 昼食を終えた私たちは、ホテルの自室に戻って、ゆっくりと休憩したが、この日の観光は、これで終わったわけではなかった。この夜に、夕食付きの京劇見物のオプションツアーを申し込んでいたのである。なんと、その劇場である「梨園劇場」は、前門にあった。私たちは再び前門に向かった。もちろん、今度は小型バスでである。この夜の演目の記録はない。ただ、孫悟空が出るものだった。私たち夫婦は、通というほどではないが、歌舞伎や文楽のファンでもあるので、歌舞伎の源流のような京劇はとても面白かった。とにかく舞台上が色彩に溢れていて華やかだし、演者の動きもアクロバティックで迫力があった。

 翌日は、中国旅行の最終日だった。午後のJAL便で帰国することになっていた。昼食は機内食の予定だ。長富宮飯店で、いつものようにビュッフェ形式の朝食を済ませた私たちは、この午前中に最後の北京を楽しもうと、ホテルの玄関からタクシーに乗った。昨日の経験があったので、もうタクシーは怖くなかった。ホテルの従業員に(たぶん英語で)行き先を聞かれたので、王府井(ワンフーチン)と答えた。片道か往復かと聞かれたので往復と答えた。それを従業員は運転手に中国語で伝えてくれた。あとは安心だった。王府井は、東京で言えば銀座にあたる、北京最大の繁華街である。この日は、街を見物するとともに、ここの百貨店に行って、中国で最後の買い物をするつもりだった。結局、酒を飲む李白の姿とその有名な詩である「李白一斗」の詩を書いた文人画風の絵画一枚(これはなかなか良い作品なのだが、詩の部分に書き損じがあったので、ただみたいに安かった。)と、景徳鎮の蓋つき湯呑みを買った。その絵は、額装して、今も我が家の壁に掛かっているし、蓋つき湯飲みの方は、最近ではほとんど使わないが、捨てずに今も持っている。はじめての中国旅行のよき思い出として。あれからもう30年も経ったのだ。感慨深いものがある。


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